「楠」第五章
風聞(三)
「昨日二歳児放置餓死事件の第二回の裁判員裁判が横浜地裁で行われました。
新たに事実が判明した内容もあれば、依然真実が明らかにされない部分もあったかと思われます。
前回に引き続いてこの事件を取り上げ、議論の内容を深めて行こうと思います。
ゲストは前回同様、こちらの三名の方に来ていただきました。
まず児童虐待問題に詳しい、コラムニストの猪俣文子氏、弁護士で、自身も過去に虐待当事者の弁護人を務めたこともある、加藤みどり氏、そして社会倫理学がご専門の、東京東雲大学の太田健一郎氏です。皆様よろしくお願いします」
「お願いします」「お願いします」「お願いします」
「それでは前回の続きになりますが、前回の特集で明らかになった、児童虐待の現状の問題点を踏まえた上での、改善のための政府への提言を、皆様お願いいたします。猪俣さんからお願いします」
「はい。行政の対応としては、まず全国の児童相談所の職員の数を増やす必要があります。これまでも、職員の数が足りないために、折角児童相談所に通告が寄せられても、職員の対応が及ばず、結果として幼い命が失われてしまった例が、多々ありました。児童相談所は虐待に関することだけではなく、生徒の不登校や家出、非行、障害児対策など、子どもの問題に対して広範囲に取り組む機関になっていますから、とても現状の職員数だけでは足りない、というのが実際だと思います。厚労省は直ぐにも全国の児童相談所の職員を大幅に増やして、児童虐待問題に対処すべきと考えます」
「あ、太田さんどうぞ」
「その場合、単に一般の公務員としての職員を増員するだけでは、片手落ちなのではないか、と思います。児童虐待の専門家ではないので詳しくは言えませんが、今回の裁判の被告の例のように、虐待を犯す親というのは、皆何か精神的な闇を抱えているように、私などからは見えます。はっきりとした精神病と診断されないでも、そうした、通常の生活者とは異なる精神の持ち主に対応するためには、それ相応の専門的な知識や、訓練を重ねた人材を投入する必要があるのでは、と考えます」
「一般にソーシャルワーカーと言われているような人のことを指しておっしゃっているのですね、太田さん」
「そうです。とにかく虐待者の内面にまで踏み込んで問題対応をする人、できる人が、絶対的に求められていると思います」
「加藤さんは? 何か法律の面からとかの提言はございますか」
「はい。これは太田さんが今おっしゃったこととも関係するのですが、今の児童虐待防止法は、とにかく虐待を早期に見付け、行政として対応する、アフターフォローする、罰する、という方向を主眼に、進んでいるように私などからは見えます。それももちろん大事なことなのですが、それよりも大事なことは、虐待当事者、ではなく虐待予備軍、虐待を起こす可能性のある人に対し、いかに事前に支援の手を差し伸べることができるか、なのだと思います。先日の議論の冒頭で、若年での出産とか、ひとり親世帯の虐待のリスクの話が出ましたが、それだけではなく、一人ひとりのリスク、虐待を犯す人は、幼い時自らも虐待を受けていることが多いという、いわゆる虐待の連鎖についても、もっと国は目配りをした法整備をすべきでは、というのが私の意見です」
「うーん、幼い時虐待に遭った人に焦点を向ける、ということになりますか。しかしそれって非常に難しいと言いますか、実現可能なことなんでしょうかね。例えば幼い時虐待に遭った人に名乗り出てもらうと、国から援助金が出るとか、そういうことですよね。自分から虐待に遭ったことを公にするなどということは、ちょっと私には考えられないですけどね。あるいは自分はこういう精神的な不安定さを抱えているから、何とかしてくれ、とか。・・・加藤さんのご意見は、いずれにせよ、政府がより積極的に児童虐待問題に関与すべきだ、ということでまとめさせていただいてよろしいですか」
「結構です。私もまだ法律的にどのような対策がいいのか、掘り下げて深く考えているわけではありませんので、これからも自分で考えを深めて行こうと思います」
「分かりました。では太田さん、どうぞ」
「児童虐待という現象が、私が前回そう分析したように、戦前の教育観の完全なる瓦解と消失、から生まれ出て来ているとするなら、それを解消するには、もはやそのままの形では元に復すことはできない訳ですから、それに変わる新しい教育観といいますか、子育ての理念と言いますか、そういったものを、社会の中で形成していく必要があるのかと思っています。今の民主主義社会の中では、子育ては各家庭に自由に任されています。父親の役割、母親の役割というものも、必ずしも明確になっているとは言えず、戦前の戸長制の反動で、父親としての男性の出る幕が薄れ、母親主導の子弟教育が、一般的になっているかとは思いますが、果たしてそれでいいのか。父親は単に外で働いて、給料だけを運んで来るだけの人間マシンでいいのか。もちろん良くはないことは、父親なら誰でも秘かに感じていることではないのかと、これも私はやはり秘かに思っています。そうした父親の一部が、子どもに夢を託す形で、野球やサッカー、ゴルフなどのスポーツに子どもを向かわせ、叱咤し、育てて来た結果が、昨今の日本人選手のスポーツの世界での大きな活躍に繋がっている例では、とこれも私は秘かに勝手に考えています。つまり彼ら父親は、おそらく子育ての上での父親の意義を、そこに見出したからこそ、並外れたスポーツ教育を、子どもに施して来たのでは、と思うわけです。
一方で、女性の社会進出に伴って、男女共同参画社会の実現というスローガンも掲げられ、夫である男性の育児への参加が推奨されています。それはそれで、間違った方向ではないと、私は思っています。子育てや家事を女性にだけ押し付けることで、女性に仕事や社会に関わる機会を奪っているとしたら、それは平等な社会ではないと思いますので。しかしながら子育てという営為は、誰がやってもいい、男であろうと、女であろうと、同じだ、という考えには、私は賛同できません。どんな動物の世界でも、極く少数の例外的な動物はあるのかも知れませんが、殆どの動物が、子育ては、言い方は耳障りかも知れませんが雌、すなわち女性が担当します。それが私は命というものの本質なのでは、と思っています。命を生み、育む、それは本来女性にしか成し得ない営為であり、男性にとっては永遠に謎の部分です。私も自分の子供たち、私にも二人の子どもたちがいて、彼らに、幼い時は妻を手伝って、ミルクを飲ませたり、入浴をさせたり、オムツすら変えたことがありますが、それはあくまで妻に言われて手助けをしたということであり、自らの本然といいますか、本来の欲求に従って行っていた、というわけでは残念ながらありません。可愛いという思いはもちろん湧いては来ていましたが、それこそが自分の人生だ、という思いで、関わっていたわけではありません。
男性と女性、男と女、雄と雌の間には、越えられない差があると、私は思っています。そういう意味でも、男女の役割を明確に区分していた、戦前の教育観は機能していた、というふうに、私は考えるわけです」
「太田さんの自らの体験も踏まえたご提言、よくわかりました。おそらく太田さんは、教育観のみならず、戦前の一般的な価値観でも、残すべきは残すべきだ、とおっしゃりたいのだと、僭越ながら拝察いたします」
(第六章に続く)https://note.com/oyoyo_note9096/n/n13944b04313c
