「楠」第七章
裁判(結審)
裁判長「――二歳児放置餓死事件の最終公判を始めます。
まず開廷に先立って、一同に周知することがあります。本日未明、夏川梨沙被告が自殺を図りました。拘置所からの通報では、一命は取り止めたとのことです。拘置所内で履いていたジャージのズボンを歯で引きちぎり、紐を作り、房の鉄柵に括り付けて、それに首を掛けた模様です。早朝の刑務官の見回りで発見され、病院に緊急搬送されたとのことです。
本日の公判について、裁判所、検察官、弁護人で緊急の協議を行い、本日の公判は被告人不在のまま、予定通り実施することとしました。被告人は前夜、自殺を図る前に遺書を認めていたとのことですので、それを弁護人が読み上げることで、被告人の最終陳述に変えたい旨、弁護人から提案があり、検察官、裁判所も了承することとしました。地裁の裁判日程も立て込んでおり、公判日の変更は避けたい、というのが、裁判所側の意向でもあります。
では、検察官、論告をどうぞ。今朝の事態を受けた内容になっているかとは推測しますが、いかがですか」
検察官「確かに、事実認定に関してはともかく、量刑については考慮せざるを得ませんでした。
では論告書の要旨を読み上げます―――。
〈事実関係について〉
被告人夏川梨沙は、令和元年七月十四日、当時勤めていた、横浜市内のキャバクラ「ミューズルーム」で知り合い、その後交際に発展していた、男性客の一人と鹿児島へ十日間の旅行に出掛けた(本人、及び相手方男性の供述調書)。
その際、長女真奈さんに対しては、当時住んでいた横浜市内のアパート(=神奈川県横浜市神奈川区北白楽三―十一―五 メゾンド北白楽二〇二)の一室の寝室に、ドアの外から上下二ヶ所と中央の三ヶ所に粘着テープを貼って固定、中から開けられないようにして、監禁した(現場検証資料並びに第一発見者の証言)。
この時被告人が真奈さんに置いて行った食料は、幼児の十日間の食事を満たすには遥かに少ない、菓子パン数個と、お握り、ジュース、水のみであった(本人供述、並びに現場検証時の空袋、空容器等の写真並びに映像)。
この結果真奈さんは、極度の飢餓状態に陥り、併せて当期間中における高温の室内環境の影響で脱水症状を起こし、死亡するに至った(真奈さんの遺体を検案した医師の証言、並びに当時の天気結果に関する気象庁発表資料)。
〈殺意について〉
僅か二歳の幼児を部屋に監禁し、僅かな食料を置いて出て行った行為には、本人が釈明する「何とかなると思った」といった弁解は到底納得されず、「死ぬかも知れない、死んでも構わない」という未必の故意としての殺意があったことは、疑いを入れない。弁護側の主張する、当時の被告の精神状態についても、検察側証人である中山医師の鑑定では、当時被告に精神耗弱は見られず、責任能力を疑う根拠はない。
〈情状並びに量刑について〉
被告人は幼くして乳児院及び養護施設に引き取られて育ち、さらには小学校入学と同時に母親の許に返されるや、その母親と義理の父に理不尽な虐待に遭うという、過酷な生育環境を生きて来た。そのために人を信用することができない、人に本心を打ち明けられない、他人の要求を必要以上に受け入れてしまう、といった、歪つな人間関係を持たざるを得ない性格に育った。そのために当時、店の客から交際へと発展していた男性の誘いに応じて、鹿児島旅行に出で立ったとも、考えられる。
しかしながら過去はともかく、成人して子の母親となった一社会人として見るなら、第一に考慮すべきは我が子であり、それを無視して、謂わば情人である男性の許に走った行為は、断じて許されるものではない。
一方で本公判における被告の態度には反省が見られ、なおかつ当朝拘置所内で自殺を企てたことは、本人がこの事件を深く悔悟し、自らを罰する心境に至ったことを、如実に伺わせるものである。
よって本件につき、諸般の情状を考慮し、保護責任者遺棄、及び殺人罪を包含、適用し、
懲役六年を求刑するものである―――」
裁判官「では続いて弁護人、最終弁論を」
弁護人「はい。
一.弁護人の見解。
当裁判において、弁護側は一貫して、被告人に対し殺人罪を適用することの不当性を訴えて来ました。
被告人が保護責任者遺棄の責任を負わなければならないことについては、弁護側は犯行当時の被告人の精神状態について責任能力がなく、従って今回の事件は全面的に無罪である、とまで主張するつもりはありません。被告人の自堕落な生活態度の変化、そして客観的事実としての、幼児の養育放棄の実態が証拠として挙げられている以上、受け入れざるを得ないと考えます。
しかしながら殺人罪に関しては、その成立要件である、殺意に関して、明瞭な証拠が提示されなければなりません。「未必の故意」にしても、その「故意性」については、証明されなければなりません。
しかるにこれまで弁護側が申請した証人である臨床心理学の医師の、被告人の犯行当時の精神耗弱状態の証言を覆す、決定的証拠は提出されていません。
検察側申請証人である精神科の医師の、犯行時被告は精神耗弱にはなかったという、真反対の診断結果の証言も、科学的に証明されない以上、証拠として採用されることはあり得ないことは、言うまでもありません。
『疑わしきは罰せず』は、裁判の原則である以上、被告の犯行時の精神状態の判断に基づく断定は、避けなければならないと考えます。
翻って、前記弁護側請求証人である医師の証言にもあった、特異な生育環境が被告人の精神形成に多大な影響を与え、病名で言えば『解離性障害』に発展した可能性については、本事件の場合、最大限の留意を払うべきと、弁護側は主張します。
特に被告は、実の母親と養父である両親の許に引き取られてからは、二人から壮絶な暴力的虐待を受けています。先ほど検察官が指摘したような、他人に対する不信感、自己に籠もる閉鎖性、その裏返しである他人への過度の忖度性、といった性格は、生まれながらに親から切り離され、愛情形成が不全のまま暴力的な両親の許に追い詰められた時、決定的な影響を及ぼすものと、弁護人は断定せざるを得ません。
自己を肯定できない、それでも世の中で生きていくためには、人はどのような態度で他人に接して行けばいいのか。
社会の規範に合わないと言って、そうした人間を断罪することが、果たしてどれだけ社会に取って有用なことなのかどうか、弁護人はそれを強く訴えます。
二.減刑の嘆願。
本日未明、被告人は自殺を企てました。
前回公判の被告人質問で、弁護人からの質問の最後で、被告人は最後に「死にたい」、と漏らしていました。図らずも被告人はそれを実現させてしまった、いや実現させようとしたわけですが、このことは、被告が今回の事件をいかに悔悟し、反省しているかを如実に示すもので、判決においても、最大限の情状酌量の材料とすべきは、言うまでもありません。
従って被告に課す量刑は、最も軽いものとするのが、適当と思われます。
保護責任者遺棄致死、これを弁護側は今回事件の罪状と判断し、断じて殺人罪の適用はあり得ないことを主張します。保護責任者遺棄致死罪の刑罰は、刑法二百十九条により、三年以上二十年以下の懲役、となっており、情状を最大限に考慮した場合、最も軽い三年とすべきと考えます。以上―――」
裁判長「では最後に、被告人の最終陳述に当たるものとして、前夜被告人が認めたという、遺書の朗読を、弁護人、お願いします」
弁護人「では被告人の遺書を読み上げます。
―――・―――・―――・―――
『真奈ちゃん、ごめんなさい。
ママは真奈ちゃんに対し、何てことをしてしまったんだろうと、悔やみに悔やみきれない思いです。
今でこそ、こうしてあの時真奈ちゃんにどうすれば良かったのかを、ちゃんと普通の頭で考えることができるのだけれど、言い訳にしか過ぎないのだけれど、本当にあの頃は、ママは何かに憑かれたようになっていて、ああするしかなかったの。真奈ちゃんを置いて、出て行くしかなかったの。それだけは真奈ちゃん、わかってちょうだい。
ごめんね、真奈ちゃん、ごめんね、真奈ちゃん。
何度繰り返しても取り返しが付かないことは分かっているのだけれど、でもママはやっぱり、真奈ちゃんに誤りたい。そうしてできることなら、もう一度真奈ちゃんをぎゅっとしたい。
そうだよね、ママが真奈ちゃんのほっぺにぎゅっとすると、真奈ちゃんもママの頬っぺにぎゅっとしてくれたよね。その自撮りの写真を、インスタに上げたこともあったね。ママ、あの写真が大好き。もう一度、もう一度、あの写真のようなことをしたい。
でももう無理なんだよね。真奈ちゃんはママの前から消えちゃったんだから。
ずっとずっと考えていたんだよ。真奈ちゃんの傍に行くことを。消えちゃった真奈ちゃんにもう一度会いに行くことを。独りのお部屋でずっと考えていたの。でも真奈ちゃんのお傍に行くことってとっても難しい。いつも見張りの人がいて、時々すぐ近くにまでママを見に来るの。傍に行くための乗り物もなかったし・・・。
真奈ちゃんがいなくなってから、もうすぐ二年になるね。本当なら真奈ちゃんはもっと大きくなっているはずだけど、ママの中の真奈ちゃんは、ずっと変わらない。
裁判の最初の日に真奈ちゃんの写真を見ました。
ああ、ごめんなさい、真奈ちゃん、あんな姿になってしまって。真奈ちゃんはもっと頬がふっくらして、目がくりっとしていたのに。頬がこけて、目も落ち窪んでしまっていた。皮膚が、茶色っぽくなっていた。
ごめんなさい、ごめんなさい、真奈ちゃん。
ママは決心しました。あんな真名ちゃんを、そのままにして置くわけには行かない。ママが傍に行って、真奈ちゃんを元に戻して上げる。
だってあんな真奈ちゃんをそのままにして、ママはもう生きて行けないもの。生きていても仕方がないもの。
今はもうママの頭はちゃんとしてるの。だからこうしてちゃんと考えられるの。どうしたらいいかって。
ずっとずっと考えて来たの。どうしたら真奈ちゃんの傍に行けるか。見張りの人に見付からないで行けるか。
そうよ、手際よくやれば、大丈夫なのよね。
待っててね、真奈ちゃん。もうすぐ真奈ちゃんの許に行けるわ。
そうしてもう一回真奈ちゃんをぎゅっとするの。
恐くはないわ。真奈ちゃんに会えるんだもの。これ以上嬉しいことはないわ。
弁護士さん、私を弁護してくださって、ありがとうございました。
弁護士さんはあの頃の私の頭が正常ではなかったことを、信じてくれました。とても感謝しています。この手紙は、弁護士さんにも宛てています。
私の言うことを信じてくれたおかげで、ここまでやってこれました。ただ、もう十分です。やっぱり私は真奈の許に行くことに決めました。くれぐれも、私を責めないでください。これが誰に取っても、一番いい方法に違いないと思います。
ああ、「愛和子どもの家」の職員の人たちにも、私が感謝していると、伝えてください。施設にいる間は、そうは思わなかったのですが、やっぱり施設にいるうちが、私に取ってはこれまでで一番いい時期だったのかも知れません。そんなふうに思わず、自分が施設で生活していることをよく思っていなかったことは、間違いでした。施設のおばさんたち、ごめんなさい。そうして私の裁判で辛い思いを味わわせてしまったことも、ごめんなさい。皆んな、皆んな、ごめんなさい。
もうすぐ見回りの人が来て、通り過ぎます。そうしたら、始めます。ズボンはもう殆んど噛み切ってありますが、毛布の下なので、外からは見えないと思います』
―――・―――・―――
・・・・・・朗読を終わります―――」
裁判長「以上で今回の二歳児放置餓死事件のすべての審理が終わりました。裁判所内部で評議後、一週間後の二月十七日に、当事件の判決を言い渡します。では本日はこれにて閉廷とします」
(第八章に続く)https://note.com/oyoyo_note9096/n/nb9a042f45f37
