運命は決まっている? ―70歳を過ぎても「青二才」が量子物理学に辿り着いた理由
70歳を過ぎて、私はもう一度「青二才」に戻った。
「運命は決まっている」。
この言葉を聞くと、長年社会の荒波を生きてきた私たちは、無意識にうなずいてしまうのではないでしょうか。
若い頃は「努力すれば何でも叶う」と信じていた。
しかし、ふと振り返ると、人生の大きな岐路で選んだ道も、出会った人も、全てがあらかじめ仕組まれていたのではないか?
そう思えるほどの「強烈な偶然」に満ちています。
私も70歳を過ぎ、人生の経験値だけはそれなりに溜まりました。
そろそろ静かに、来るべき日を待つ年齢です。しかし、そんな人生の黄昏時に、私はふと立ち止まってしまった。
本当に、この人生は決まっていたのか?
この問いを突き詰めるうち、私が辿り着いたのは、人生の経験則でも、宗教的な教えでもなく、この世界の最も根源的な真実を扱う「量子物理学」という分野でした。
本記事では、私たちの人生につきまとう「運命」という名の謎を、長年の経験と、最新の科学的思考をクロスさせながら、徹底的に検証していきます。
第1章:孫の「眼差し」が問いかける、人生の決定的な分岐点
今、私には5歳になる孫娘がいます。
彼女を見ていると、時々、言いようのない不思議な感情に囚われます。活発で、物おじせず、明るく積極的。そして何より、あの小さな身体に宿る揺るぎない正義感と、未来に向かってまっすぐに伸びていくような強い光を感じます。

まるで、かつて私の中にあった、あるいは私が持てなかった「可能性の結晶」が、目の前で命を躍動させているかのようです。
そして、彼女の輝きを見つめるたびに、私は自分の人生の「合否」を再検討してしまいます。
中学受験、高校受験、大学受験、就職試験。人生を分かつ決定的な「合否」の瞬間が、誰の人生にもあったはずです。
もし、あの時、第一志望の大学に受かっていたら?
もし、最初に受けた企業の就職試験に合格していたら?
そう、そのたった一つの合否が違っていたら、私は今の妻と出会っていなかったでしょう。
妻と出会っていなければ、私の息子は生まれていません。
そして、現在、目の前で笑っている、5歳の孫娘も、この世界には存在しなかったのです。
私という存在の一ミリのズレが、この愛おしい命を消してしまう。
この連鎖を想像すると、背筋が冷たくなります。
私が経験したすべての成功と失敗、得たものと失ったもの。
そのすべてが必然であったかのように思えてくる。
この重い実感が、私の胸に「運命」という二文字を強く刻みつけるのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
この甘美で恐ろしい運命論を受け入れることは、残りの人生をただの「決められたシナリオの追体験」として終えてしまう危険性はないでしょうか?
第2章:経験則が否定する「運命は決まっている」説の危うさ
サポートお願いいたします! より良い記事を書くために、有効に使わせていただきます。がんばります!

