帰宅が遅れた夜、彼女はカー吉くんに全部代弁させることにしたようです
仕事が立て込んだ日のことだった。
時計を見るたびにため息が出る。
「……やばい」
終電にはならないが、帰宅はいつもより何時間も遅くなる。
恋乃未には『遅くなる、ごめん』とメッセージを送っていたものの、返信は一言だけ。
『りょ』
句点も絵文字もない。
これは。
「……絶対怒ってる」
そんな予感を抱えたまま帰宅した。
「ただいま……」
リビングの電気はついていたので、ほっとして中へ入るとソファには恋乃未がちょこんと座っていた。
だが、様子がおかしい。
膝の上には、黒くて丸っこいカラスのぬいぐるみ。
しかも嘴がパクパク動く腹話術人形だ。
恋乃未は俺の方を一切見ない。
代わりに、ぬいぐるみがこちらを向いた。
「カー!」
少し高い声。
……いや、それ恋乃未の声だよな。
「お、お疲れ」
返事をすると、カラスが嘴を開いた。
「カー吉くんデス」
「名前あるんだ」
「カー吉くんハ、キョウハナンジニカエッテキタカ、シッテマス」
「……えっと」
「オソイデス」
「ごめん」
すると恋乃未本人は無言のまま、カー吉くんだけが続ける。
「コノイエニハ、サミシイイキモノガイマシタ」
「そうだよな」
「ゴハンヲツクッテ、マッテマシタ」
「ごめんって」
「レンラクハアリマシタ」
「……うん」
「ダガ、サミシイモノハサミシイノデス」
ぐうの音も出ない。
恋乃未は相変わらず一言も喋らない。
全部カー吉くん経由だ。
俺は苦笑いした。
「恋乃未」
反応なし。
「カー吉くん」
「カー?」
「恋乃未さんに謝りたいんだけど」
「コイノミサントイウヒトハ、シリマセン」
「目の前にいるよね?」
「イマイルノハ、カーキチクンデス」
徹底している。
思わず笑いそうになるが、笑ったらもっと拗ねる気がした。
俺は恋乃未の隣へ座る。
「今日は本当にごめん。急な仕事が重なってさ」
カー吉くんはふいっと横を向く。
「カーキチクンハ、キイテマセン」
「じゃあカー吉くんに話す」
「ショウガナイデスネ」
「本当はもっと早く帰りたかった」
「ホウホウ」
「恋乃未とご飯食べたかったし」
「ホウ」
「一緒にテレビ見て、だらだらしたかった」
カー吉くんの嘴が止まる。
恋乃未の肩がぴくっと動いた。
「でも仕事だから仕方なくて」
「……カー」
少しだけ声が小さくなる。
「だから埋め合わせさせて」
「ウメアワセ?」
「今度の休み、一日空ける。恋乃未の行きたいところ全部付き合う」
沈黙。
カー吉くんはじっと俺を見つめる。
そして。
「……ホント?」
今までで一番、恋乃未本人らしい声だった。
「本当」
「ウソツイタラ?」
「好きなお店で好きなだけデザート奢る」
「ホウ」
「映画も行こう」
「ホウホウ」
「夜は外食」
「ホウホウホウ」
カー吉くんが妙に上機嫌になっていく。
そして。
「カー吉くんハ、ユルシテモイイトオモイマス」
「ありがとう」
「タダシ」
「うん?」
「サミシカッタノハホントデス」
その一言だけは、腹話術ではなく恋乃未本人の声だった。
俺はそっと頭を下げる。
「ごめん」
「……」
「待たせた」
恋乃未は小さく息を吐いた。
「カー吉くん」
「カー?」
「今日はもういいよ」
「オシゴトオワリ?」
「うん」
そう言うと、恋乃未はカー吉くんをソファへ寝かせた。
「……やっと喋ってくれた」
「だって」
少しだけ頬を膨らませる。
「直接言うと、すぐ許しちゃうもん」
「だからカー吉くんに?」
「うん」
照れくさそうに笑う。
「カー吉くんだったら、ちゃんと拗ねられるから」
「なるほど」
「それに」
恋乃未はカー吉くんを持ち上げ、俺の方へ向けた。
「カー!」
「ん?」
「ハヤクカエッテキテネ」
思わず吹き出す。
「了解しました、カー吉くん」
「カー!」
その瞬間、恋乃未も耐えきれなくなったように笑った。
「もう……腹話術続けるつもりだったのに」
「途中から本人の声になってたぞ」
「ばれた?」
「ばればれ」
「……えへへ」
照れ笑いを浮かべた恋乃未は、カー吉くんを脇へ置くと、今度は自分から俺の腕にそっと寄りかかってきた。
「次はなるべく早く帰ってきて」
「約束する」
「無理なら」
恋乃未はカー吉くんの嘴を一度だけパクッと動かした。
「カー吉くんガ、マタデテキマス」
「それは困るな」
「ふふっ」
ようやく機嫌を直した恋乃未は、小さく笑いながら俺の肩にもたれた。
ソファの隅では、役目を終えたカー吉くんが、どこか誇らしげな顔でこちらを見守っているようだった。
