見出し画像

1回戦 ジャッジによる評と採点

 画像作成 酒匂晴比古



採点表(横枠のジャッジが縦枠のファイターを採点)



斑目規至


斑目がトップバッターだと思うので、まずはジャッジ全体のここまでの経緯を、知る範囲で説明する。
 ジャッジ7名の評の担当作品は、一人頭11から12作。グループA・Bそれぞれから5、6作品が振り分けられている。ジャッジはグループを跨いで担当作を評し、併せてABの26作を採点。各組の勝ち上がりファイターを決める。
 ジャッジ文の上限は当初、原稿用紙6枚(多少の超過を容認)だったが、一人頭のジャッジ担当作品が増えたことで、原稿用紙7枚(超過を容認)となった。
 斑目は自分に甘く、原稿用紙10枚まで許したうえに、改行を考慮しないことにした。4000字。評は250~300字を目指した。肌感としては1作につき原稿用紙1枚は許されていると、やりやすい。読む方は大変だが。
 つぎに斑目の態度を説明。評においては、全作品が強いのは担保されているので、どう強いかの説明を心がけたが、不達成。ただ書評になった。採点は勝ちを決める装置として考えた。基本点を3点。隙が隙でしかないものを2点、勝ち上がってもいいものを4点、際立って勝ち上がりに異存のないものを5点とした。勝つ勝たないの判断基準はカンだが確実に傾向がある。

ではAグループから。

Aグループ
●中川マルカ『あいはむ』は謎をほどいた結果ではなく、読み惑う過程に決定的な価値をもつ作と解する。解釈の紙幅なく、1点の技芸を例に全体の強さを説明する(といいつつ一つだけ。発想元、たいやき?)。
「海の結晶」登場より少しのち、ミヒカリが椅子を離れてからの一連。「波打つように這い」、比喩の選択が海の印象を強める。「布」も波を補強。ミヒカリの移動に合わせてカメラは玉砂利をとらえ「白山」と情報提示。かつまたカメラはゴマジの視点でもあるから、動くミヒカリの姿へ引かれた注意は劣情の描写を呼び次の展開へ。情感に誘導・開示が重奏化、言語による設計が全体に行き届く。至高の技芸。5点。

●両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」は意外性の連打が効いた。
ねこである点が深み。幼気なイメージが、舞台設定と合わせて情感を深める。文化が作る紐帯を、異種だとか記憶の方向へ拡げる……という読み方が全くしっくりこない。
デデッ!!!でいい。うまくいえないこともあって、でも、デデッ!!!で、素敵な瞬間が、思い出せる。そんな記憶と音をもって生きていけるのは、強いことだ。曲を聞いてみる。デデッ!!!あ、まちこさんたち。聞いて思い出す。思いながら聞く。歌詞ほぼなし。でも作者は小説で書いた。うまくいえず、思えないことを、うまくいわないまま書いて、伝えた。それが強さ。4点。

●西川口圭「記憶に値しない人々」。どこかで見たような倦怠が語られ、物語らずに終わる。徹頭徹尾、つまらない。そこが凄み。
挫折の集合体から上澄みを抽出したような独白。だから、エピソード記憶に「値しない」。でも、より深く話を聞けば、個人としては記憶できるはずだと思いたい。三人の言葉の裏に通底する諦観は、存外に重たい。会えば、印象は残る。つまり「値しない」と断じている主体は、彼らと相対していないものだ。ネットやら報道やらの、どこかから見ている、わたしたちとか。
問いの射程が広くて、いい。年長者の語りもあったら徹底的だった。3点。

●和泉眞弓『棄子』。6枚目1行目「かれもまた」。つまり、かれ自身を、子を棄てた親とも、みなす。
「故郷」と「かれ/かれら」が「親と子」に照応。では「かれ/かれら」と「アイヌたち」は親子に照応するか。しない。親なる土自身「によって」追われたものと、侵略により親なる土「を」追われたものは、厳密な対置ができず、ひっかかる。長子ではないことを外圧とみなすなど、いかようにも擁護はできるが、いかように言ってはいけない部分だと思う。
 かれの感傷は否定しない。連続性を導いて物語に撚る過程でこじれた。アイデンティティを色付きの紐に可視化するのは良い着想。2点。

●文月悠光『すべての庭のために』は、わからない。わからないのに小説は進む。人生も。
助言者は外から踏みこむ。胎内、教室、自宅。そして教える。都度、「庭」の輪郭が見えてくる。でも彼らは、庭そのものには立ち入らない。庭は私的空間。その管理者は自分しかいない。わからないけど歩く。過ごす。耳をすます。だんだん庭がわかると、実は「男」が最初から全てを言っていたこともわかる。わかる頃には時間は経ちすぎている。誰もがそうなのだ。
最初から心はある。心を知るまでに時間がかかる。本作は、すべての庭のために、それを告げに来ている。
構成そのものも猫のように円環、冷たかったり跳ねたりする文章が自在で楽しい。3点。

●結城熊雄『園部さんのこと』はフィーリングの世界。
僕は読者不在。思ったそのままで言う。他人の目がないから状況説明はゆるいし、発言や比喩は今どき無邪気(美点かつ弱点)。でも園部さんには他人の目がある。第三者がいると「ひひひ」しない。二人だけのとき始まる奇想がある。
ここから評者のフィーリング。ヒョードルやらタピオカやら全部、園部さん自身もそう思っている。二人のフィーリングは変な細部が完全一致する。だからなぜだか海で会え、親密に「ひひひ」なのだ。気楽なソウルフレンド。それをうらやましがる話、と読むと楽しいと思う。破綻しかかった構成がかえって強いのだが、偶然こうなった感が拭えず、危なっかしくて3点。

担当以外を含めた、グループAの全採点は以下の通り。

中川マルカ『あいはむ』5点
深澤うろこ『あそこで鳩が燃えています』3点
両目洞窟人間『YEAHHHHH!!!!!』4点
紙文『いつまでも手をふる』4点
吉美駿一郎『遅かれ早かれ』3点
井中昭一『鍵穴の乙女』3点
西川口圭『記憶に値しない人々』3点
鯵野三志美『十月の缶コーヒー』5点(☆勝ち抜け)
磯崎愛『「診断されない病」の話をするためにここに来た。』3点
和泉眞弓『棄子』2点
太代祐一『砂を送る 川柳二十句』3点
文月悠光『すべての庭のために』3点
結城熊雄『園部さんのこと』3点

ということで、勝ち抜けは担当外から鯵野三志美『十月の缶コーヒー』。季語も言葉も平易。凝らず、ただただ、超然と、見ている。こんなに平易でいいのかと思うが、ぜんぜんいい。作中主体はたぶん教員。とにかくポツネンとしていて、空白をもって一個一個置かれた句がポツネン性に寄与。独りなのだが、とうの自分に送る視線には、おかしみがある。おそらくシンパシーのある教頭に送る視線もおかしい。季語と構成の卑近さをみるに、確信をもって力を抜いているのだが、ここまで抜けるだろうか。境地だと思う。枯淡の境地。申し訳ないが、なにやら元気まで出る。
達している境地の驚異と、選択した語彙と形式が読み味に寄与する自然さをもって『十月の缶コーヒー』を勝ち抜けとしたが、技芸的達成度の観点からは中川マルカ『あいはむ』の勝ち抜けでも異存はないので5点がついている。

つづいてBグループ。
●藤崎ほつま「綴る躰」は、書くことに流れる時間の姿。
括弧書きのなかでも時間は経過。文章を綴る方法、いきさつ、内容ときて、書くことがなくなってからが、何度も流れる二人の時間だ。躰が共有した時間を、語らい、書き、薄れ、また語らいつつ書き、双方になじんでいく。
ペンで書く行為にはペンで書く躰が必要。二重の意味(紙・読者)で相手が必要。書く行為は躰に結ばれている。生きた躰が、綴りつづける。
だから病室にいるのも記子という読みをとりたい。記子は安堵している。まだ句点が打たれず、躰と文がつづくことに。
着想を文体でも体現。描写も都度鮮やか。技法への専心に留まらない豊かな内容に5点。

●吉田棒一『友達』はギャグ漫画。ユーモアでもコメディでもないのが大事な点。オルタナ。
技だけ見ていく。文体は平易を基調におどけすぎず。読点の置きどころを絞る。早々にリアリティラインを破壊。会話は短い応酬でリズムよく。無用な状況説明は端的に、だるいところは「着弾~」など勢いで突破。「おいしいね」ときにひらがなで脱力を導く。これは場転のブリッジにも。「だよね」「います」語尾を揺らしてテンポ外し。全体に、緩急自在のいい呼吸。笑いはリズムだ。
笑わせて、何も残さない。だから『友達』の真の相手は、継続性のある問いを重視する巷間の文学観。相手は大きい。その意気が強さ。5点。

●由井堰『トランクルーム』は、8首目のぬいぐるみから、はじめたい。人間をいっているようで衝撃。この冷えた目は5枚目大半も占める。外側からの視点だ。全体に、こうした「外側」感のある連作。体内のことを書いても、感覚は遠い。一首内の言葉総出で距離を作って、あらゆる中身が不明、という事態を、でも、そばで見ている。
自身の材料すら透視不能の鉄箱のなかに見る。とことん苦闘だが、「みんな」の「感じ」は淡く求める。だから生活の点描たる30首目を閉じる「ながい木星」という主観が、胸を打つ。評者の側からは、心が見える。
短歌は探すために書くのかな、と思った。苦手なジャンルだったのだけど、少し身になじんだ。ありがとう。5点。

●岩月すみか『まゆ子なんか嫌い』は、話し上手な人なのだ。聞いていると、まゆ子について、ああだこうだ言いたくなる。
「あんたはわたしにどう思われているかよく考えなきゃいけない」
ここに全てが集約。未整理の好悪そのものが、実体として式に出る。迫力がある。でもきっと「わたし」は存在の迫力しか出せない。迫力をまゆ子が感じることも、多分ない。こう想像させる裏付けを生む、5枚目までの積み重ねは、「嫌い」の連打。途中まで「嫌い」を「好き」にも転換できて相反する心情を補強する。声に出しても名調子。評者はきっちり、まゆ子が嫌い。強いは強いが新味に欠けての3点。

●飯野文彦『みっちゃん』は、二名書かれたら全文が消えた。
隙間の多い語りの中に、ヒントの尻尾は露骨。はないちもんめから子捕りを導いて、すると胡瓜からは精霊馬を連想。冥界への理路があるなら、話は取替子か、名前をめぐる言霊信仰か。道案内はここまで。オーソドックスな怪奇譚の姿が消える。取替えず奪わず、他者が二名増える。一つの操作で私も類型も失せ、分類前の始原の恐怖が現れる。解釈をする。史上はじめて幽霊を見た人物のように。本作の強さは、新しさだ。
慌てて居酒屋の位置を述べても無駄。書かれている文は全て確実性がない。書いてあるのに意味がない。互いにだぁれと問う往還しか残らない。4点。

担当作を含めたBグループの採点は以下の通り。

春泥『誰も愛さなかったから』3点
伊藤なむあひ『畜魂機についてお話します』3点
藤崎ほつま『綴る躰』5点(☆勝ち抜け)
永瀬辻『天蓋に貼り付く』3点
吉田棒一『友達』5点
由井堰『トランクルーム』5点
和生吉音『ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─』2点
若山香帆『深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった』3点
大竹竜平『不審な刃物』4点
岸波龍『窓』3点
岩月すみか『まゆ子なんか嫌い』3点
飯野文彦『みっちゃん』4点
酒匂晴比古『わたしが七歳だったころ』4点

グループBは混戦で、5点をつけた作品すべて、勝ち抜けに異存はない。どれも着想と手法が合一し、鍛錬のもとの意識的な強さが、技芸として明白に読み手に示される。
そのなかで藤崎ほつま『綴る躰』を選んだのは、ファイトスタイルが好みだから。着想と手法の合一において「一文で書く」というキャッチーさがいい。
「(基本的に)皮膚には繋ぎ目がない」という連想も呼んで、一段深みを見たからだ。「、」は繋ぎ目だろう、とか、ものは言いようなのだが、こじつける楽しみをとってしまう。他にも様々、人により読み筋があるだろう。そこがまたよい。
以上でジャッジは終了。だいたい5000字。オーバーしている。

で、ここからさらに盛大に分量をオーバーして、磯崎愛さんと、吉田棒一さんの話をする。磯崎さんには、斑目がああしたジャッジ応募文を書いた以上、大会上で応答しなければならないと思う。吉田さんに関しては、どうしても双方リングにいるうちに、観客に向けても言っておきたいことがあった。よって、決勝ジャッジはもうどうでもいい。

磯崎愛さんの『「診断されない病」の話をするためにここに来た』は、まずジャッジとしての態度の選択をしようと思ったが、しきれず、日和って、半端になる。
身体の痛みが描かれているからには、その文章を作成することにすら痛みは伴うはずだ、と読める。痛む中、意志をもって、可読性が高く、どう考えても読み手へのサービスをまぶした茶目っ気のある文章を書いた。心身、強い。一方でジャッジとして他作との相対判断をすれば、創意の点において平均的強さのみを認め3点、となる。
ここからはもう思うところを書く。
往々にして、遠くの「つらさ」はひびく。そして日々の雑事に紛れ、やむなく自身のつらさが優先される。遠方において、わたしの知る知らぬ問わず多くのつらさがあり、ときにそれを知るが、忘れる。そうして遠いつらさは一瞬ひびく。
ゆえに、わたしたちのしておくべきことは、対峙したときに思い出せるようにしておくことだ。忘れていても思い出せる。これは、磯崎さんの病状以外にも当てはまる。磯崎さんの声がひびくことで、わたしたちの「診断されない病い」への感度はきっと高まる。わたしたちは物理的に磯崎さんの側に行くことはできない。ただ、自身の身辺にある無数の「診断されない病い」について、都度また、磯崎さんのことを思い出しながら、「つらさ」を分かることは、できるはずだ。それがたどたどしい「つらさ」でも、磯崎さんの言葉が後景にあるならば、沿おうとできるはずだ。そうして身辺の草の根を拡げつづけることで、できれば理解が広がってほしいと、広がった理解が大きな所へ届いて制度面の整備が進んで、磯崎さんにも届けばと、そのように思う。ことブンゲイにおいていえば、やはり知るからこそ書き、気持ちがあるからこそ書くのであり、だから磯崎さんは、確かに、あなた自身も未来を担ったと思う。
以上で閉じればいいのだが、わたしは終われなくなってしまった。だって磯崎さんのまわりを、わたしは、ぐるぐる回っているだけなのだ。理想論は理想論で、本当のところは並行して取るべき様々な直接的行動があり、わたしは実生活の優先という理由のみにおいて、それをしないのではないか、と思ってしまう(この手の考えかたは避けるべきなのだが)。それに、遠くを近くに置き換えたとして、実際面で知った遠くのつらさを置き去りにしても仕方がないという理屈にもなってしまう(この点について、いまわたしに答えがない)。
つまり、答えが出せなかったし、また何も言えなくなってしまったわけなのだ。後で必ず書く。
詳述の時間がなくなって、ここからまた磯崎さんの話からそれる。未整理で分かりにくいが書く。目の前にある「つらさ」に、鼻白んではいけない。誰もが自分の「つらさ」も大事にしてほしい。わたしたちの知識はつらさをなるべく理解するために必要で、つらさにどうこう意見するためではなく、つらさを正面から受け止め、つらいものをつらいのだと解し、共につらがるために必要なものだ。まだ考えて書かなければならないことはあるが、やっぱり、後でまた。
最後に磯崎さんへ。物理的な痛みは本当に辛いものだ。逃げられない。痛みは精神の活動を邪魔する。わたしのように読書に逃げ込み救いを求める行為を、邪魔してくる。それなのに、丁寧に、読みやすく、ユーモアも交えて、とことん読み手を考えて、磯崎さんのためにであろうともわたしたちのためにも、この作品を書いた磯崎さんを、とてつもなくわたしたち思いでいてくださっている磯崎さんを、わたしは心から尊敬する。弱くても、生きていい世の中があればいいと、本当にそう思う。

次に、吉田棒一さん『友達』の達成を細かく言っておきたい。言わないとだめだと思ったからだ。校正と事実確認を経てはおらず、文中の見当違いは全て斑目に責がある。
で、評でも書いたが、これはギャグ漫画だ。基本的に、あらゆる文芸作品は何者かの系譜上にある。同形式の(小説なら小説の、詩なら詩の)先達を通過して、各々の今がある。『友達』は、どうだろう。どう考えても先祖にギャグ漫画がいる。『天才バカボン』や『浦安鉄筋家族』などの、正調日本ギャグ漫画の系譜上に、なぜか『友達』は立っている。荒野だ。(正確を期せば、まず日本ギャグ漫画の先祖が何者であるのかを説かなければならない気がするが、知識がなく、時間もいまはない)
小説における笑いは、肌感としてはユーモアかコメディが多い。作中での行為をベースに、「機知に富んだ言い回しで笑わせる/キャラクターの掛け合いの面白みで笑わせる」の二つに分岐する。まとめてしまえば、小説は、うまいことを言って(書いて)、笑わせている。つまりは、言葉に凝ることにこそ小説の目指す笑いがある、という認識がある。
小説家は、その意識のもとに、ちゃんと書いてしまう。言い回しを希求してしまうし、物語において、情景もちゃんと書いてしまう。小説だから。
ただ、実はこのとき、凝った言い回しは文章的達成のためにあり、面白い掛け合いはキャラクターを深めるためにある。ただの笑いのためには、ない。
さて、ちゃんと書くと、文章はしっかりするので、読み手もしっかり読む。ここもつまづきの石。掛け合いが面白いのは、テンポのおかげ。芸人の漫才はテンポ感によって面白い。芸人の場合はテンポを提供するのは芸人だが、困ったことに小説という媒体では、テンポ感は読者の側の呼吸にある。笑わせるプロフェッショナルではない読者に、呼吸が委ねられる。そして、ちゃんと読むと、勢いは衰えるのだ。小説での笑いが、あまり発展していない理由は、小説家が小説ゆえにちゃんと書いてしまうこと、ちゃんと書いた文章(これはギャグにとって余白に等しい)がテンポを削ぐこと、読者の側に呼吸を提供していないこと、が、挙げられるとおもう。
ここにギャグ小説の不可能性がみえてくる。つまらないところも、ちゃんと書かないと、小説にならない。つまらなくないように書くと、長くて、テンポが衰える。いちいち凝った言い回しをすると、やはり長くなる。
 『友達』は、どうだろう。言葉には、凝っている。計算されている。計算のうえで機知を廃して、ちゃんと書かない。『友達』は小説でありながら、小説らしさを廃して、ギャグのために全部の文章を使って、そして、勢いの操作によって、読者に呼吸を提供している。
 おもしろいバカを思いつき、おもしろいバカのために、そのまんま書く。おもしろいバカのために文章を切り詰め、笑いのために呼吸を作る。これは、アイディア勝負のギャグ漫画のやることだ。
 他ジャンルから小説へ来た小説家は「小説とはこうである」という力場に囚われ、ちゃんと書く気がする。だから、このギャグ漫画は、小説から来た小説家にしか書けないギャグ漫画なのだ。
仮想敵が言う。「こんなことは小説でやる必要はない」。そうだろうか、そんなこと言ったら小説で、文芸で「やる必要のある」ことなんか何もないと、言われてしまわないだろうか。『友達』は、やった。そして、できた。できたからには、それは拓かれた道だ。文芸の未来のひとつだ。今まで誰もやらなかった(できなかった)ことをして、できたのだから、凄いに決まっているし、おそらく評者が思うのよりも、ずっと凄い。で、吉田さんは、こういうことは一切気にせず、のびのびやって欲しい。この話は結局のところ、「『友達』は笑える」という、普通のことしか言っていない。
さて、ここまで言うのになぜ勝ちを付けなかったかというと、オチが弱かったからです。



RNオンリー・イエスタデイ


(丸括弧と「鍵括弧」の狭間で)

 Bグループの藤崎ほつま「綴る躰」を一番に推す。本作の「」から始まる作中作を用いた入れ子構造によって、身体に書かれた文字を読んでいる語り手と同じ読書体験を実際に味わえるようになっている点を高く評価した。紙面あるいは画面の外側にまで影響を及ぼしているのはこの作品だけだった。実際に親指の爪から「例えば――」の文字を書いてゆき、手の甲、前腕、左肩、鎖骨、脇の順にペンの先をなぞらせていくと、ちょうど「時にはわざと脇の下を――」の文章が来るので、物語の進み具合と文字が刻まれた身体の部位がちゃんとリンクするよう計算されている。また、この辺りから自分一人で読み書きするとしたら文字の上下が逆さまになってしまうので、作中ではあくまで「」の外側で文字を読んでいることが分かる。文中にもある通り「文章として意味が通らなければならない」というこだわりと、「思わず読みふけっていた自分に気付ける」ところも良い。

 翻ってAグループの作品群を鑑みた時、深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」が決勝の相手に相応しいと判断した。その理由を以下に述べる。
 この作品には作為があって「『あそこで鳩が燃えています』の英訳は――」の一文だけ明らかに不要なため、そこで引っかかるように設計されている。あそこの文に()がつくべきなのになぜか作品全体が()で括られている。これでは燃える鳩はおろか、竹内まりやの店内BGM、女性の語り、秋茄子の温そば、残酷な映像の全てが不要なものとみなされてしまう。()が無くても話が成立しているのに、()を付けた理由は何なのか考えた時に、これの意味するところはとどのつまり文芸そのものの否定ではないかと推察した。そして、この一見不要な賭けに自分も乗っかることにする。博打には博打を、「」には()を。

 紙文「いつまでも手をふる」紙幣に筆で和歌を書いて流通させる、遠くに出かけた時に犬の毛を飛ばす、という先輩の目論見はさておき、「いつまでも手をふる」というタイトルに着目した。この場合、手を振っているのは語り手であり、会えなくなってしまった先輩への別れの挨拶として手を振っていると考えた。手を振るのをやめる(先輩のことを思い出すのをやめてしまう)と別れの状態が確定してしまうので、「いつまでも」手を振っている。

 井中昭一「鍵穴の乙女」長い廊下の突きあたりを右に曲がったリビングの和室は鍵穴から見えないのではと野暮なことを思いつつ、「彼女は造花を作っている」の時点では確かに花の種類が定まっていない。がくの上に真紅のプラスチックを配置した後でわざわざ「彼女は造花の薔薇を作っている」と説明しているため本作では薔薇が重要な枠割を持つ。タイトルの「乙女」と「瓦解されるのを待っている」ことから、無垢なるものとしてのメタファーなのだろうけど、それを視てる主人公を観てる読者としては退屈に感じた。

 鯵野三志美「十月の缶コーヒー」後の名月から新年(10月から1月)にかけての日常から言葉を紡ぎ出している。寒い朝のイートインのスツールの合皮の座面を単に「冷たい」ではなく「硬く」と表現するところなどは手練れている。表題作の「十月の缶コーヒーは黒い水」だが、つめた〜いからあたたか〜いに移り変わる時期のコーヒーを「一服の清涼剤」でも「ホッと一息」のどちらでも無い色のついた液体として扱っているのも良かった。

 磯崎 愛「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。
この病についての告白を受けて、「ああなんて可哀想なんだ」って言って欲しくてここに来たわけではないだろう。「生き延びたいと言う気持ちが伝わってきました」みたいなことを言う前に「磯崎愛」という「肢端紅痛症」のファイターがいた事をできる限りずっと覚えていようと思う。だが物語としては抱えるマイナスの大きさが全てプラスに働くというわけではない。

 伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」
実在した人物であるシャルル・クロスを登場させることで、物語の尤もらしさを高めている点を評価する。ルルイが書いたとされる詩の「十二の音」であるが、これは「十二音技法」を指していると思われる。この技法はすべての音を平等に扱う、つまり生者と死者を区別しないということだろう。

 永瀬 辻「天蓋に貼り付く」「光源に照らされ蒸発していく水溜り」とあるので400年続く地下世界では太陽という概念が失われているのかもしれないが宇宙という規模感はあるらしい。単純に考えるとウルメラの友達の遊牧民がメイフィアということになるのだが、気球で1000メートル上昇するとして燃料を燃やすための酸素はどうしているのかなど細かい設定が気になった。

 和生吉音 「ひとりじゃないならタイトルの「ひとり」が数を表す「一人」とも、他者との関係性がないことを表す「独り」とも受け取れる。キーェは「ひとり」の状態から脱出して物語が終わり、新たに始まっていくわけだが、ネアンデルタール人とクロマニョン人の邂逅を描くのであれば、火の起こし方とか文化の違いについてももうすこし言及してほしかった。

 岸波龍「窓」本文の最後の部分は窓という境界が持つ内側から外側はよく見えるが外側からは切り取られた部分しか見えないという非対称性を表そうとしているのに、「下半身は隠れている。」まで書いてしまっては効果が薄れているように感じたが、学校、家族、ひいては世界が狂っているということを、紙面または画面という窓の外側から読んでいる我々は切り取られた部分しか見えないため、この作品の世界を一文しか読むことができない。

 飯野文彦「みっちゃん」みっちゃんの正体を明かしていくのが目的なので、それ以外のJさんとか店名の梟などの固有名詞は一見不要に感じたが、本文の情報だけでは、私、祖母、みっちゃんのどれが怪異なのかは断定できない(私が咄嗟に名前を答えられなかったのは初めから私ではない可能性がある)ため、「だぁれだぁ?」がJさん以外に問われているとも考えられる。

 酒匂晴比古 「わたしが七歳だったころ」レンゲショウマや鉛の血の一族というワードから毒性を代償に特殊な力を得ていると考えられる。なので出産時に母体に蓄積された毒と一緒に能力が子どもに継承されているのだろう。ラストでは昼間の星々に物語をすべて伝えていることから、残りの半年間で王が何を成し遂げてどのように役目を終えたのか気になる終わり方だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

採点

Aグループ

勝ち 深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」

Bグループ

勝ち 藤崎ほつま「綴る躰」

Aグループ
中川マルカ「あいはむ」3
深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」5
両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」4
紙文「いつまでも手をふる」3
吉美駿一郎「遅かれ早かれ」3
井中昭一「鍵穴の乙女」2
西川口圭「記憶に値しない人々」2
和泉眞弓「棄子(きし)」3
鯵野三志美「十月の缶コーヒー」3
磯崎 愛〈「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。〉2
太代祐一「砂を送る 川柳二十句」2
文月悠光「すべての庭のために」3
結城熊雄「園部さんのこと」4

Bグループ
春泥「誰も愛さなかったから」2
伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」4
藤崎ほつま「綴る躰」5
永瀬 辻「天蓋に貼り付く」2
吉田棒一「友達」3
由井 堰「トランクルーム」4
和生吉音「ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─」2
若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった」3
大竹竜平「不審な刃物」3
岸波 龍「窓」3
岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」3
飯野文彦「みっちゃん」2
酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」3



松本勝手口

「落選展に落選したものたちへの弔辞」

3点はつけない。それだけを自分ルールとしてジャッジを開始する。
当然ジャッジは全作品を読む。だが大会の形式上、個別評を与えられない作品が一定数存在する(ただでさえ私は目安の分量を大きく超えようとしている)。すると担当作品以外のファイターにとっては点数だけがジャッジからのメッセージになるわけだが、そう考えれば3というのはファイターからみて一番嬉しくない数字だ。
どちらでもよいの3、ニュートラルの3、無関心の3。
私は過去、別名義でBFCにファイターとして出場したことがある。当時のジャッジから個別評もなしに3の評価だけをもらったとき、いっそのこと1にしてくれと悶絶したものである。どこからも等しく遠い座の中央に取り残されたような心持ちで。
勝ち進むことはおろか、敗者として立ち去ることすら許されないような、3。
私はさながらBFCの亡霊だった。
私のように、わざわざ別名義を用いてまで死に場所に舞い戻ってくる恥知らずな亡霊をこれ以上増やさないこと。
それが今回、ジャッジを務める私に課されたいちばんの責務だと勝手に感じている。
それでは、プレイボール。

▼個別評Aグループ
・両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」4点
白ねこのまち子さんが登場した瞬間、私は兜の緒を締めた。
WEB広告のバナーデザインにおいて、犬や猫は、他デザインに比べると2-3割増しでユーザーにクリックされる率が高い。小説内に猫を認めたとき、私の脳はその統計値をオートマチックに考慮する。
たしかに読みやすく笑えるうえ、短い中に離別の哀しみさえ含んだ豊穣な作品なのだが、展開としてはまあ、ありきたりである。発表会のラインナップに顕著なように、モチーフ相互のギャップに頼った単調な大喜利的推進力しか持ちえない点が弱さになった。
二足歩行のしゃべる猫、ディストーションが効いた音作りのウクレレサークル、シャウトする老婆など愛すべきディテールは多い。初読時には2点をつけたはずだが、その愛らしさに手元が狂い、4点をつけていた。

・紙文「いつまでも手をふる」1点
作中に一定の時間経過があり、地理的移動もある。にもかかわらず、この作品は窮屈だ。
終わりなき交換をその本質とする紙幣という媒体に直筆の和歌を乗せて国じゅうにばらまく、というアイデアは幼稚だが、幼稚ゆえに過激で、素敵である。つまるところテプラ短歌の亜種でしかないという凡庸さはあるものの、この点数となった理由はそこではない。
私が納得できないのは、後半、インフルエンサーに著作権を奪われそうになった先輩が消え入りそうなほどの声で落ち込んでみせた、その哀しげな後ろ姿だ。
他人に奪われたくないほど切実な歌ならば、はじめからちゃんと顕名で世に出すべきではないのか。お節介ながら私はそう諭したくなる。そうでないなら、紙幣への落書きとして和歌を詠むのは作品にたいする誠実な態度とはいえない。
むしろ先輩は今すぐこのインフルエンサーに連絡をとるべきだ。ゴーストライター契約を結んで、建前上は知名度も影響力もあるその人の作としながら自身の切実な歌を世に広く知らしめる方向へと舵をとるべきである。冗談で言っているのではない。そうしたほうが先輩の和歌もこの小説じたいもより水準の高いものになると、私は本気で思っている。
最終盤で先輩の「犯行動機」があかされる場面も、残念ながら完全に蛇足である。書き手のこの小説にたいする過剰な方向付けが明らかになっただけだった。先輩が和歌を紙幣という狭い平面に閉じ込めたように、作者もまたこの物語の読みを一方通行の隘路に追いやっている。そんなふうに思えてならない。
ちなみに貨幣損傷等取締法において、紙幣に落書きしただけで罪に問われることはない。その点でも先輩には安心して続けてほしいのだ。たかだかその程度のことで、創作をやめないでほしい。続けるんだ。あなたの歌を、切実なその作品を、一人でも多くの読み手のもとに届けてくれ。やめないでくれ。大切なんだったら、書き続けてくれ。すべてが倒れ、体が消えても、亡霊としてリングに立ち続けるんだ。

・吉美駿一郎「遅かれ早かれ」4点
技巧点はAグループ内でもトップを争う作品だった。
それでも満点をつけられなかったのは「宇宙人」と「幽霊」にたいする「ぼく」の明確な態度の差分、その理由が充分に読みとれなかったからだ。
「宇宙人にメッセージを送る集い」に参加する「ぼく」はアブダクションにも関心がある。宇宙人とは遠く離れた場所に存在するかもしれない外部であり、宇宙人と交信を試みる「ぼく」はじめサークルのメンバー(品位さんを除く)に、ここではないどこかへの脱出欲とでもいうべきものがあることは容易に想像できる。「アブダクションと記憶操作には強い相関がある」と作中でも言われているとおり、かりに交信が成功した暁には「ぼく」たちは記憶を操作され、お互いの存在を──自分自身さえ──「忘却」することになるだろう。にもかかわらず、集会の誰かが幽霊として忽然と姿を消し、忘却されることには「怖い」「辛い」と感じる。
このダブルスタンダードをどう解釈するか、という点にこの作品の真髄があるように思えるのだが、何度読んでもそこにたどり着くことができず、最高点はつけられなかった。私の読解力不足であれば申し訳ない限りである。

・磯崎愛〈「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。〉5点
26作品中もっとも評価に迷った作品。一読して、1点か5点のどちらかしかつけられないと思った。
作中で病気を告白する〈磯崎愛〉を書き手と同一視するべきか、という問いがまずはある。
続いて、かりに同一視するとして、難病当事者の告白文に一体どのような文芸的評価をくだすべきか、という難題が待っている。これらの問いにどう答えるかで、この作品は最低点にも最高点にもなりうる。
前者の問いについて、本作品を完全なフィクションとして読むことも理屈上は可能だろう。現実の書き手の肉体は健康そのものであって、どういう情緒か知らないが文芸界隈に一杯食わせてやろうと企み、プールサイドかなんかで薄ら笑いながらちょちょちょとこの文章を書いた、という想像である。そしたら1点である。しかしそれが非現実的な空想であることは、残念ながら自明なのだ。理由は後述する。
ここで二つ目の問いに移る。私小説とは、その嚆矢と言われることも多いジャン=ジャック・ルソーの『告白』から250年の長きにわたり、他でもない〈私〉が経験した無数の苦痛についての文学形式であった。文章技法、といっても差し支えないだろう。ただしそこで述べられてきた苦痛の9割9分は心の苦痛である。調べてないけど、たぶんそうである。いっぽう、肉体の苦痛をひとに伝えることはきわめてむつかしい。患者の感じている痛みが正確に知れないことは、専門家である医師や看護師にとっても悩ましい問題だという。
その点本作品は、肉体の痛みについての表現が実に的確で、かつ多様である。きっと何べんも何べんも他人に説明をし、わかってもらえなさにその都度歯噛みしながら、言葉を選んできた結果であろうと想像する。一回性の強い催しであるBFCで本当らしい嘘を書くことは簡単だが、作者が生きてきた時間は偽れない。ゆえに私は、この作品はフィクションなどではなく、書き手の積んだ言葉の錬磨は紛れもなく文学的意義のある営みだったと断言する。したがって5点である。
蛇足と知ってつけ加えるが、最後の一文から私は今年公開された映画「ナミビアの砂漠」で主人公のカナが言い放った印象的な台詞「日本は少子化と貧困で終わっていくので、今後の目標は生存です」を想起した。現代日本において〈生き延びる〉ことはアクチュアルな問題である。特段の病気をしていない人にとってさえ、残念ながら、そうでなのある。いわんや磯崎愛に於いてをや。

・西川口圭「記憶に値しない人々」2点
タイトルからも、国木田独歩『忘れえぬ人々』を意識して書かれたことは一読して明らか。
どこか人生に満足していなさそうな三人の聞き書き調の語りが並んでいるが、彼ら・彼女らはいずれも柄谷行人が『日本近代文学の起源』で独歩の同作をとりあげて論じた「風景としての人間」の逆、つまり人生で深く関わったにもかかわらず忘れ去られる「目の前にいる他者」そのものである。
40年以上前に書かれた柄谷の論考の裏側をただなぞるような作品に、どのような積極的意義を見いだせば良いのか分からず、一本槍な評で申し訳ない気もするが、この点にならざるを得なかった。1点にすることも考えたが、ひとりひとりの語りそれ自体は魅力的なので2点とした。三人の語りを束ねている聞き手(=小説の語り手)の思考が少しでも提示されれば、違う評価もありえたかもしれない。

・太代祐一「砂を送る 川柳二十句」5点
一句目から分からない。隣接する語と語の意味がてんで繋がらないという事態に、私たちはぜんぜん慣れていない。分からない、分からないけど、なんか面白い…と読んで、七句目「念のためスマートフォンを去勢する」ではじめて、ちょっと分かるかもしれない、という理解の火が灯る。
スマートフォンは無生物だが、どこかペットじみた所有物でもある。時に所有者の意に反した挙動をとるところとか、発情期の動物に似ていなくもない。「念のためスマートフォンを去勢する」情景は今まで考えもしなかったが、上記のような具合でその気になれば考えることはできる。
この句への理解は私に、新しい日本語が誕生する瞬間を疑似体験させてくれた。
たとえば〈鯖を読む〉とか〈口を酸っぱくする〉という慣用句がある。いずれも単語それ自体の原義からすると意味の通らない言葉なのだが、表現として成立していることになっている。慣用句上の用法を知らなくても、日本語話者ならばこれらの言葉が指し示さんとしている状態は伝わる可能性がある。
なぜかといえばそれは、鯖/読む/口/酸っぱいなどの単語について、発話者と受け手の間に辞書的な意味を越えたなんらかの文脈にたいする共通了解があるからだろう。それと同様の理由で私はスマートフォンの句を「ちょっと分かる」と思えたのだ。
そしてこの連句のタイトル。上述した「言葉が通じる」という実感が「砂を送る」という存在しない慣用句で表されている、と言えないか。
誰かから砂を渡される。私は咄嗟に手を差し出す。砂の一部は指の隙間からこぼれ落ちるかもしれない。だがとにかく一部は掌に残る。その残った一掴みが言葉となって書き手と読み手を繋ぐ。
100年後の日本ではひょっとすると「スマホを去勢する」「目で毬藻を育てる」「合法ビーチを吸う」などといった表現が人口に膾炙しているかもしれない。そんな楽しい想像をさせてくれる作品だった。

同じく5点をつけた怪作、深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」と迷った末、太代祐一「砂を送る 川柳二十句」をAグループの勝ち抜けとする。

▼個別評Bグループ
藤崎ほつま「綴る躰」5点 
ワンアイデアものではあるが、そのアイデアを完璧に実現しているという意味で完璧な小説。六枚という絶妙な分量を最大限に活用しているし、文章技術についても文句のつけようがない。
元よりメモ魔だった記子が本来の目的を逸脱して身体中を文字で覆うようになった背景には「忘れたくはない、残しておきたい、というよりは、感じていたい、という欲求」がある。さらりと触れられいるが、ここには端的に言って倒錯がある。
言葉にしないと忘れてしまう、なかったことになってしまうという強迫観念、もしくは単に「書きたい」という欲求は常人の私にも想像に難くない。それこそメモ魔の心性だ。
だが、作中の記子はもはや書くことを放棄している。他人によって自らの皮膚上に文章が書かれんと欲すること、つまり「書かれたい」という欲求には見覚えがない。そのような倒錯に至った過程をこそ、いち読者としての私は知りたいと思う。
作者がその卓越した小説技術を用いて完璧であることとは別の達成を目指したとき、果たしてどんなものが書かれるのか。それがもっとも気になる作品であった。私が選ばなくてもBグループの勝ち抜け作になる可能性は高いと思われるから、勝手に期待している。

・吉田棒一「友達」5点
服部の両腕にはロケットパンチがついている。山本は鹿島の舎弟で顔面に穴がある。戸塚は理系でやはり顔面に穴がある。鹿島だけがそれらいずれの特性も持たない。
本作の登場人物は一見非常に個性的に映るが、実際のところ上述のような記号的特徴以外でこの四人を区別することは難しい。言い換えれば、彼らは互いに互いの分身であるような存在なのだ。そしてそれは彼らが「不良」であることと無関係ではない。
『ハマータウンの野郎ども』でポール・ウィリスは、不良とはインフォーマルなものの「文化」であり、文化を構築するための必要条件として彼らは徒党を組むのだ、と指摘した。集団のなかで不良たちはますます同質化し、その同質性が集団内部の人間であることの証左となるようなトートロジーを、彼らは生きている。顔面に穴をあけ、腕をロケットパンチに改造することでかろうじて自他の境界を担保しながら、暴力と薬物にまみれた高校生活を送る。それが彼らの「文化」だからだ。しかし彼らは分身なので「友達」にはなれない。だれも自分自身とは友達になれないように、彼ら同士が「友達」になることはできない。
そんな彼らが恐れているのは、暴力でもシンナーによってイカれた脳が見せる幻覚でもなく、ぼり彦である。ぼり彦についての情報はそう多くないが、異臭を放つらしいこと、「~ぼり」のように語尾が変化すること、感染性であり、ぼり彦に襲われた市民はぼり彦化することなどが明らかにされている。だが忌避の対象はそうした症状の一つ一つというより、集団の構成員としての没個性から別の──すべてが「ぼり彦」と総称されてしまうような──没個性へと移行すること、それ自体にある。鹿島や服部は戸塚の引き起こしたバイオハザードにより町じゅうに溢れたぼり彦を目の当たりにして、その実分身でしかない彼ら自身を再帰的に発見し、すでに他なるものへと移行した山本を絶命させる。分身と友達になることはできないが、ぼり彦とは友達になれるかもしれない。しかし不良である鹿島たちは、不良であるというまさにその理由によって、ぼり彦化した山本を排斥せずにはいられない。
多くの読者はこの小説を読みながら笑うだろう。何度も笑うだろう。私もそうだった。それだけでも充分に5点に値する傑作だ。しかしその笑いは、鹿島たちの放つギャグやバカバカしさによってばかり引き起こされているのではない。友情の実現を望みながらそこから無限に脱線していく鹿島たちの姿を目撃して、私はアイロニカルに笑うのである。

・和生吉音「ひとりじゃないなら─Neanderthal girl meets CroMagnon boy─」2点
解剖学的現代人とも呼ばれるクロマニヨン人の少年と、約4万年前に絶滅したとされるネアンデルタール人の少女との出会いを、衒いのない文体で描いたソフトSF小説。調べると両種は相当に長い期間、同じユーラシア大陸で暮らしていたそうだ。交雑がなかったと証する研究もないので、この作品で描かれたボーイミーツガールはあながちホラ話というわけでもないらしい。国籍や人種以前の、プリミティブな意味でルーツの異なる他者との出会いを描いた作品として現代にも通ずるテーマ性があり、優れた着眼点だと思う。
いっぽうで「ネアンデルタール人による一人称単視点の語り」という特異な設定をまったく生かせていない、と感じたのも事実である。タイトルを見ずに本文だけを読めばしばらくは現代人による語りとしても難なく読めてしまう。そこに別の面白みがないではないが、たとえば数万年前に生きるネアンデルタール人の「私」はほんとうに「明るすぎる月光」という感じ方をするだろうか。「目から流れた涙が口に入って、ちょうどいい味がついた」という思い方をするだろうか。そこを突き詰めることは作者の興味関心の埒外なのかもしれないが、より大きな射程をもつ作品のプロトタイプに留まっているという読みもできなくもないため、この点数となった。

・大竹竜平「不審な刃物」5点
自律飛行する不審な刃物という鮮烈なイメージに、ジャーナリスティックな文章もあいまって一気に読み進めた。未曾有の事態に政府や自衛隊が奔走するさまや、ネット界隈が熱を帯びる雰囲気には無数の既視感があるが、危機の正体が小さな刃物であるという点でこの小説は特異である。怪獣でも宇宙人でもAIでもない。人間の道具という意味ではコンピューターの暴走に近いが、刃物はむしろ極めて理性的に一つところを目指しているように見える。害意は全く感じられない。最も意思を持ちそうにないものだからこそ底知れぬ不気味さを醸している。
私たちは刃物の気持ちを理解できない。いや、私たちは刃物を見たときに私たちが抱きうる気持ちのバリエーションを増やせない。
本作を読んで私は実際にあったひとつの事件を思い出した。
二〇二三年六月二五日の午後四時頃、山手線車内に刃物を持った男がいることに複数の乗客が気付いた。電車が新宿駅についた途端、乗客は一斉に逃げだし、逃げている途中で転倒した男性二人が怪我をした。刃物を所持していたとされる男はその後警察の任意聴取に応じ「勤め先の飲食店を辞めたので使用していた包丁を持ち帰っていただけ」と話したという。
小説内の「不審な刃物」も本当は、ただ寺に行きたかったのかもしれない。寺にいるお坊さんとか、猫とかに会いたかっただけかもしれない。でもそういう想像力は私たちからあらかじめ排除されている。目の前の恐怖にとりあえず蓋をして安心し、寺いっぱいの大きな拍手する群衆の側に、私も立っている。

・岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」2点
読みやすい文章である。溜めに溜めたすえのフィニッシングストロークも効いている(ちょっと泣きそうにさえなった)。ショートショートとしての完成度はひじょうに高い。しかしこの小説にはそれ以上の謎がなく、それゆえ読み甲斐も薄い。
まゆ子とわたしのキャラクター、その二人の関係性からは、どうしても既視感が拭えない。現実世界におけるあるあるを巧みに書くだけでは小説としては弱い。読み口の軽さもあいまって、BFCという競技の枠内ではこの点数にならざるを得なかった。

さて、勝ち抜け作品だがBグループは相当に悩ましい。
5点をつけた6つの作品すべてに推すべき理由があったが、なかでも最も不遜で、最も危険な作品だと感じた岸波龍「窓」こそがBFCの決勝戦にふさわしい。勝ち抜けとする。

▼点数表Aグループ
中川マルカ「あいはむ」4点
深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」5点
両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」4点
紙文「いつまでも手をふる」1点
吉美駿一郎「遅かれ早かれ」4点
井中昭一「鍵穴の乙女」4点
西川口圭「記憶に値しない人々」2点
和泉眞弓「棄子(きし)」1点
鯵野三志美「十月の缶コーヒー」4点
磯崎 愛〈「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。〉5点
太代祐一「砂を送る 川柳二十句」5点 ★
文月悠光「すべての庭のために」2点
結城熊雄「園部さんのこと」1点

▼点数表Bグループ
春泥「誰も愛さなかったから」2点
伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」2点
藤崎ほつま「綴る躰」5点
永瀬 辻「天蓋に貼り付く」5点
吉田棒一「友達」5点
由井 堰「トランクルーム」2点
和生吉音「ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─」2点
若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった」5点
大竹竜平「不審な刃物」5点
岸波 龍「窓」5点 ★
岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」2点
飯野文彦「みっちゃん」4点
酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」4点


水嶋いみず


応募の際、6つの基準を提示した。もう少し具体的に説明を加える。

1.初読で感情や意識をどこかへ連れて行ってくれる作品。
読書中の体験として思考をすり抜けて直接情動に働きかける力。没入感。
2.卓越した知識や理解力がなくても読める作品。
知らないものも多かったが、短時間のネット検索や辞書引き程度で理解できるものは、この項目を満たしているとした。
3.重層性があり、奥行きを感じさせる作品。
深読みしたくなる、作者の意図を探りたくなる、繰り返し読みたくなる、読むたびに新しい発見がある。
4.理屈だけではなく感性に訴えかける作品。
読後感における情動への訴求力。必ずしも感動や怒哀に限らず、喜楽も。
5.たった一つでも、一生忘れられない言葉やシーンを含んだ作品。
文字通り。
6.直感的に魅力的な作品。
個人的好みが大きい。ただ慣れないジャンルや文体でも、拒否感を抱くものもあれば引き込まれてしまうものもある。優れた作品には、好みを超えて魅惑する普遍性があると信じている。

各基準を1から10点で評価し、合計点を1から5点に再構成した。各点数の人数を固定するか、合計点をそのまま反映させるか迷ったが、優れた作品を相対的に高く評価したいので後者を採用。採点はわたしの主観であり、点数が必ずしも作品の価値を意味するものではないということは強調しておきたい。本戦の作品は数多の作品たちをなぎ倒して残ったものであり、誰もが世の中を変える力を持っているはずである。是非これからも書き続けて欲しい。

中川マルカ『あいはむ』
冒頭部分で読者の注意を引きつける世界観、科白、描写、出来事、オノマトペをさりげなく詰め込むのは、かなり高度な筆力。ミヒカリの奔放で艶めいたキャラクターが上手く表現されている。冒頭と途中の上半身と下半身が逆の組み合わせは、互いに補完し合う関係となる。それに加え、分け合って食べる、玉を口に含み味わう、交配やまぐわい、「ミヒカリとのそれ」、さらに「髪をかきわけてみたい」「隙間という隙間に指を入れてみたい」「腹に、自らを擦り付けてみたい」といった官能表現が、タイトルの『相食む』に集約されている。ただ『愛は無』とも読め、ミヒカリの気持ちを想像して揺れるゴマジのもどかしさが伝わる。さるさまの中のしょっぱい玉は海水でできた結晶で、雪と同等と考えると、世界のはじまりについて海推しのミヒカリと雪と習ったゴマジの認識は本質的には変わらない。

井中昭一『鍵穴の乙女』
描写力のある作者だ。一人称視点で主語を書かないのは、シリン・ネザマフィの『白い紙』以来しばらく流行った文体で、その効果は読者が一人称人物と同化して作中に入り込んだかのような体験を促すことだとわたしは考えている。彼女と良さげな雰囲気になったところで、主人公は突然帰ると言う。ところが引き返して鍵穴を覗く。彼女の作る薔薇は、主人公が彼女に生きている人間としての体温や触感、心の交流を望んでいないことの象徴か。
リビングは廊下の突き当たりを折れるので覗いても見えないはずだし、「前方後円墳の形に切りとられ」るくらいに鍵穴と目の距離が離れていれば、視界は狭くて部屋全体を眺められないのでは。「手を広げたとき」は片手か両腕か。片手を広げたときなら「指先から指先」はどの指かでかなり違う。他の人は気にならないかもしれないが、わたしは気になった。とはいえ、本作の文体や描写力をわたしは高く評価した。

和泉真弓『棄子』
ある政治家が「北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから」と発言して物議を醸した。『同化』とは実のところ文化的侵略に他ならない。「おまえの場所はおまえでひらけ」とは、立場を変えれば先住民や自然に対する侵略とも言えるが、主人公も故郷を追われ、寄る辺ない流浪の民。その心境を表す「うまれにより敗れ」が秀逸だ。赤い紐は血縁、青は地縁、緑は自然や信仰との繋がりか。遠く離れていても、繋がっているという思いだけでなんとか生きていられる。啓蒙や馴致の名を借りた、主人公の自覚なき侵略行為は、「みずからのあたりまえをあたりまえとする過ち」である。青の紐が切れていたことは確かめなければ知らずに済んだものを、確かめずにいられない心境には共感を覚える。先住民に対する入植者、弱者に対する圧倒的強者が、人としての尊厳を否定し支配しようとする争いや虐殺は現在も世界各地で起こっている。本作は知らなければ、忘れてしまえばなかったと同じという融和主義に抗すると同時に、侵略者をただ非難すれば正しいかというとそれほど単純ではないという作品でもある。こういった相対的視点を文芸として成立させる筆力を、わたしは高く評価した。

鰺野三志美『十月の缶コーヒー』
「相談」、成熟一歩手前の「十三夜」、「運動会」から、高校生の友人あるいは恋人同士。「黒い」ブラックコーヒーの苦みが絆を深めるのかもしれない。「裸婦像」「駅員」「海亀」の三句は電車に乗って遠方の美術館や水族館に行くのを連想。「柔らかいとこ拭く」は「ところ」でないのが良い。中七を七文字に留める意味だけでなく、口語で臨場感が出る。「子犬」「猫」、椅子の上げられた「テラス席」まで徐々に寒さが増していく。ここまではほのぼのとした光景なのだが、「白亜紀」から印象が変わってくる。中生代最後の白亜紀末期には徐々に気温が低下し、最後には巨大隕石の落下により地球は暗黒化、寒冷化し、K/Pg境界の大量絶滅と呼ばれる生物の絶滅が起こった。幸せな日々が、ある日突然滅亡に変わる劇的展開である。翌年のスケジュール帳売り場の「棚剥がれ」、「錠剤」は不穏な予感をもたらす。さらに「空腹」「駐車違反」「鬱」と続いた挙げ句に、死を暗示する「日記果つ」。「両隣」に背を向けられ、やりとりの「力加減がわから」ず、「新年も迷惑メールしか来ない」。深い孤独に共鳴し、思わず目頭が滲んでしまう。たったの二十句でこれだけの時の流れと心の動きをありありと描き出し、読者を引き込む力に畏怖を感じ、高く評価した。

太代祐一『砂を送る 川柳二十句』
困った。分からない。Don’t think! Feel. はブルース・リーの有名な科白だが……(中略)、要するに道元禅師が述べているように、言葉は月をさす指のようなもので、指ではなく月が大事ということ。この作品も書かれた言葉ではなく、そこから感じ取れるものを曇りなき眼で見定めよということだろう。すべて読んで振り返ると、プールで溺死し帰らない彼女を思って、彼女の好きな入浴剤を溶かし、マリファナを吸って悲しみに堪えて、シャワーを浴びながら亡き彼女に語りかけていると感じた。「砂を送る」は土に還すの意か。多分誤読だろう、誤読であって欲しい。しかしそんな内容だとしたら、全体の明るさが余計に悲しみを引き立てている。

春泥『誰も愛さなかったから』
船に生えた木の枝で自殺というのは、死してなお地に足が着かず翻弄されるというメタファーとして面白い。老犬のエピソードも、主人公の空虚で冷え切った内面を満たし温めてくれる印象的な場面。オノマトペがありきたりで、幻想世界に浸ろうという時に聞くと意識が現実に引き戻されてしまう。非現実的な設定は単にあり得ないことを書くだけではなく、現実では表しきれない激情の噴出を抑えた末に解放されてこそ、効果を示すものではないだろうか。ただ一般には、淡くて深みに引きずり込まない幻想小説というものを好む人の方が多いのかも知れない。

吉田棒一『友達』
冒頭が素晴らしい。「西校」は上品な私立校と違い、幾つかセットでセンスのない名前を付けられた公立高校であることを示唆するし、「勢力図」とくればヤンキー達が鎬を削る底辺校を連想する。極めつけは「ロケットパンチ」で、一瞬で読者を幼少期に退行させる。科学的論考など無視で、ただかっこ良くて強ければ正義の時代にである。つまり科学的治外法権であると宣言したに等しい。その後はひたすらくだらなく類型的な、あり得ない青春群像ドタバタ劇が繰り広げられることで、読者はどんどん作品世界に深く没入する。どれもこれも秀逸である。

由井堰『トランクルーム』
全体を通して感じたのは、他者とのコミュニケーションが苦手で自他の感情も分かりにくいが人は好きで関わりたいという人の苦悩。他者からのサポートを受け自身も努力し、世間一般の『普通』になろうとするが、頑張れば頑張るほど自分が自分でなくなる感覚が増していく。「帽子」のつばは自他境界。俯くと自分を閉じて安心できるが、なければ混乱して逃げたくなる。「ハンバーグ」を焼く音、飛び散る油が、アスファルトを打つ雨のよう。正しい「感情」ってなんなのか。教えられても作り物にしか思えない。作られた自分の中身は体温のない「加工肉」。虐殺や戦争の被害者の服の中に、否定され押し殺してきた自分の服もあるのかもしれない。

若山香帆『深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった』
移動する湖は『さまよえる湖』のロプノールがモデルか。情景描写が上手く画像が目に浮かぶ。丁寧に背景を書き込んでいって、エピソードに結びつける構成も安心して読める。子どもらしい「湖はわたしと親し」く「すべてを受容」してくれるとの思いは、却って主人公を孤独にさせるのかもしれない。大学で外部の人と触れあって初めて湖は普通動かないと知るエピソードも良い。白い椅子は移動する湖と共に消えては現れるのだろうか。そこに座るのが、結ばれることのメタファーのように思えるが、おそらく湖の化身である人とは結婚している。朱く染まる空は、新たな世界の幕開けを期待させるが、それまでのどこに変化が必要だったのかは分からなかった。

飯野文彦『みっちゃん』
「焼酎のキュウリ割り」は?だが、胡瓜だけ覚えておけばよいだろう。胡瓜と言えば河童。河童と言えば『河童憑き』の伝説がある。女性が河童に取り憑かれると心神耗弱状態で淫らな言動をとるようになり、やがて衰弱して死んでしまうらしい。主人公の曖昧な記憶が、胡瓜の味、香りとともに呼び覚まされていく。と思ったら、どうも怪しげな気配が漂い始める。連鎖反応のような記憶の惹起の描写は、現在進行形ですり込まれている捏造された記憶であることを仄めかす。みっちゃん初登場での表情の変化は、幼少期の少年にとっては十分な色仕掛けではないだろうか。この時姉に教えてもらっていたのが、「はないちもんめ」で、これは『あの子が欲しい』『この子が欲しい』と言って子どもの身柄をやり取りする遊びだ。
祖母に問われた私は自分の名前が分からず、みっちゃんの名前を告げてしまう。しまいには何が本当か分からなくなる恐ろしさに満たされる。最後の一文が良い。

酒匂晴比古『わたしが七歳だったころ』
三人称視点の一人称ファンタジー。母の六歳児への語りかけは、通じるはずもないような言葉を並べ立てており、呪文めいた響きがある。そして後の七歳児の言葉もおよそ小児のものとは思えない。特別な一族であることを示唆するのだろう。思わせぶりなイメージや設定、「蓮華升麻」「伺候」「奸佞邪知」といった辞書を引きたくなる単語で色づけるのは常套手段なのだろうか。わたしにはイメージに頼りすぎている気がするが、これはこれでありなのかもしれない。「今は昔」は単に「昔」ではだめなのか。昔話を連想させる言葉を目にすると、作品世界からはじき出されてしまう。

勝ち
Aグループ
和泉眞弓「棄子(きし)」
Bグループ
吉田棒一「友達」

Aグループ
中川マルカ「あいはむ」 4
深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」 3
両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」 1
紙文「いつまでも手をふる」 3
吉美駿一郎「遅かれ早かれ」 3
井中昭一「鍵穴の乙女」 3
西川口圭「記憶に値しない人々」 1
和泉眞弓「棄子(きし)」  5
鯵野三志美「十月の缶コーヒー」
磯崎 愛〈「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。〉 3
太代祐一「砂を送る 川柳二十句」 4
文月悠光「すべての庭のために」 1
結城熊雄「園部さんのこと」 4

Bグループ
春泥「誰も愛さなかったから」 1
伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」 3
藤崎ほつま「綴る躰」2
永瀬 辻「天蓋に貼り付く」1
吉田棒一「友達」5
由井 堰「トランクルーム」3
和生吉音「ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─」 2
若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった」  2
大竹竜平「不審な刃物」  1
岸波 龍「窓」  1
岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」 4
飯野文彦「みっちゃん」 4
酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」 2



関寧花


「あそこで鳩が燃えています」を読みはじめたら頭の中でトーキング・ヘッズの「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」が流れて、よいはじまりだと思った。情景描写に終始するのかと思えばときどき話者の視線は内側にぐるりと反転し、自分の脳をのぞきはじめる。話の重心がどこにあるのかわからない。燃える鳩なのか、後ろの席の傲慢な人なのか、話者の漠然とした罪悪感なのか。トランポリンのような床にぎりぎりのバランスで立っていて、歩こうとどちらかの足に力を入れると倒れてしまうような読み心地だった。鳩は固い地面に下りるために手を置く支柱にも思えるが、触れたらこちらも燃えてしまうかもしれない。
「遅かれ早かれ」。ガザに住む人々が恐怖に耐え生き延びるための想像力をポジティブととらえるこの主人公には共感しがたかった。ただ、社会とのすり合わせに失敗しはじかれ続けた人が行きつく最果てであろう『宇宙人と対話するコミュニティ』という場所でも「仕切る人」の存在や「場の空気」があり、幽霊が消える瞬間の焦げた匂いはそういう最果てのコミュニティであるからこその他者への関心のなさと、それでも湧きあがる受け入れられたさがこすれあったときに出る香りなのだと受け取った。それは真実味を帯びている。
「記憶に値しない人々」。彼らは記憶されようがされまいがこれからも生きていく。普遍が集まったところで普遍、という予感が言葉を重ねるごとに裏付けされるようで切ない一作だった。淡々としているようで彼らに言葉を聞き羅列する、その行為自体から目的や聴取者の態度が浮かび上がる。そこに「記憶に値しない」という題付すことをあざけりととらえるか連帯ととらえるか。
「砂を送る」。

現実を駈け抜ける現実の馬
耐えるしかシャワーヘッドを握った手

の二句がとくに好きだった。「現実を」は観察とリフレインが、「耐えるしか」は切羽詰まった初句切れが気に入った。この二句にパワーを感じると同時に

念のためスマートフォンを去勢する
合法のビーチを思い切り吸った

のような句にはあまりのれなかった。せっかく思い切り吸うなら脱法のビーチであってほしい……というのはいいとして、短い定型詩ではとくに、名詞の強さに依存してしまうことがある。体言止めの句たちには、独立できるくらいの強度を感じた。
「深く暗い森のなかに~それはわたしの湖だった」の湖が「わたし」の前に現れたときにはすでに完成していて、最後に「わたし」をのみこんでいったのに対し、「すべての庭のために」の「庭」は未熟な状態で望まずとも供され、「私」は庭を拒絶しつつも、内側に作られてしまったからにはたびたびそこに踏み込んで庭を育てなくては生きることができない。どちらも自分と世界の間の緩衝地帯のような場所を描いており、それぞれ美しく豊かに見える。しかしどちらも、完全に離れることもずっとそこに入り浸ることもできない。「わたし」と「私」のたどる道はまったくちがうだろう。

「誰も愛さなかったから」はきっとハッピーエンドなのだろう。「私」の骨はようやく水にのまれ、ばらばらになり、砂になって完全に地球に戻る。けれどぶら下がった死体の視点というのが、どうしても描写が定点になって閉じこもってしまう印象だった。サメが入り込んでしまった甲板、臆病で船外に出られない犬。これらについてもっと知りたかったと感じる。
「畜魂機についてお話しします」は、蓄音機に対して「畜」魂機の表記であることに気付いてすっ、と息をのんだ。おもに備蓄するものや保管すること全般に使われる「蓄」に対して、「畜」は家畜・牧畜など生物を飼いならす意味合いに使用が限定される。この漢字の使い分けをしているのがファントグラフの命名者でなく語り手であるとき、魂を「畜」するというこの機器からにじむ邪悪さは、どこからきているのだろうか。発明したシャルル? それとも作成し使用したルルイ? そもそも、こんなに緻密に語る、今話しているこの人は、ほんとうに生きているのだろうか。

「トランクルーム」
 上の句の句切れのわからなさにまごつき、一字空けの多さで呼吸のリズムにも戸惑う。けれどこの不揃いなリズムこそが、作者の普段の足並みなのだろうという説得力があった。
スペクトラム少し離れて立っていてみんなのうれしい靴の散乱

 玄関にすでに靴が散乱しているなか主体は離れて立っていて、「みんな」の夢中なうれしさをひとり眺めている。きっとこの主体もこれから靴を脱いでみんなに追い付くだろうけれど、その動作にはひとつひとつ判断と決定が挟まる。

おもしろい腹痛光が敵にするみたいに固有名詞ができる
大根をやわらかくする 充電されてなかった ながい木星

これらの「おもしろい腹痛」や「ながい木星」のような主体にしかわからない組み合わせは、連作全体にただよう主体の周囲とのなじめなさの補強にはなっていると思う。が、あまりにひとつの連作内に多用されると、読み手としてはもうすこしこちらを見てほしいと感じてしまう。
「ひとりじゃないなら」はとても読みやすい。でも、このストーリーと登場人物(人類?)にこの文体は知的で端正すぎる。ではなにが必要なのだろうか、すくなくとも読み手の私が欲したのは、はだしの足の裏が土を踏む感触。何時間もかけて熾される焚火の熱。その果ての出会いの喜びと興奮。異種の類人猿同士の邂逅を現代世界のボーイミーツガールストーリーの枠から突破させるには、そういう体温がもっと欲しかった。

「不審な刃物」は、不可解な物体の出現で社会が翻弄されるという点で初読ののちすぐ山野浩一「X電車で行こう」を連想したが、話の軸の部分はもちろんかなり異なる。「X電車」では目に見えない正体不明の電車が出現し、徐々に攻撃性を帯びて人に危害を加えるようになっていく様子が書かれるが、「不審な刃物」の刃物は最後まで自分からはなにもしないし、鐘の中に囚われて半永久的な一時停止を強いられても受け入れる。そのあまりの素直さが、より人々を不安にさせるのだと思う。空飛ぶ刃物というあきらかに危険そうな物体なのに、なにもしないとは。この刃物の頑なさと受動的な態度の二面性を「不安」と呼ぶのはとても妥当だと感じた。

採点

深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」4
吉美駿一郎「遅かれ早かれ」3
西川口圭「記憶に値しない人々」3
太代祐一「砂を送る川柳二十句」3
文月悠光「すべての庭のために」4
春泥「誰も愛さなかったから」3
伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」3
由井堰「トランクルーム」4
和生吉音「ひとりじゃないなら─NeanderthalgirlmeetsCroMagnonboy─」3
若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があったそれはわたしの湖だった」5
大竹竜平「不審な刃物」4

勝ちファイター
A 深澤うろこ
B 若山香帆



ササキリユウイチ


【Aグループ】
中川マルカ「あいはむ」(5点)
深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」(5点、勝ち)
両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」(3点)
紙文「いつまでも手をふる」(4点)
吉美駿一郎「遅かれ早かれ」(1点)
井中昭一「鍵穴の乙女」(3点)
西川口圭「記憶に値しない人々」(2点)
和泉眞弓「棄子(きし)」(4点)
鯵野三志美「十月の缶コーヒー」(2点)
磯崎愛〈「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。〉(3点)
太代祐一「砂を送る川柳二十句」(3点)
文月悠光「すべての庭のために」(3点)
結城熊雄「園部さんのこと」(1点)
【Bグループ】
春泥「誰も愛さなかったから」(3点)
伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」(4点)
藤崎ほつま「綴る躰」(4点)
永瀬辻「天蓋に貼り付く」(2点)
吉田棒一「友達」(5点)
由井堰「トランクルーム」(3点)
和生吉音「ひとりじゃないなら─NeanderthalgirlmeetsCroMagnonboy─」(3点)
若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があったそれはわたしの湖だった」(4点)
大竹竜平「不審な刃物」(4点)
岸波龍「窓」(5点、勝ち)
岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」(2点)
飯野文彦「みっちゃん」(2点)
酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」(3点)

勝ちにするか迷った場合は5点、勝ちが被ることで競る場合には抜ける助けをしたいと思える場合は4点とし、ササキリの点が勝ち抜けに寄与しないで欲しい作品の中で1又は2点の相対評価を行います。3点は4点と2点の間です。ササキリがつけた点数は、各ジャッジの点数がまとまった表をご確認ください。
プロフィールとして、ササキリのメインの創作ジャンルは川柳ですが、良くも悪くも、特にそのことと評価軸とは関係なさそうであることが、評分をお読みになれば理解できるかと思います。
ジャッジのジャッジにおける評価対象である評文では、作品に美点がある場合は美点を、傷がある場合は傷を提示します。該当作品を読めば誰もがほぼ一瞬でわかったり連想したりすることが可能と思われることや、当たり前の確認事項等はなるべく書きません。
文字数は、当初予定のファイターの数から変動があって増えたためなのか、「枚数は一応七枚としておきましょうか。増えてもまったく構いません。」との規定変更の連絡がありました。「枚数は一応七枚としておきましょうか。増えてもまったく構いません。」における前の規定と同等の重さで後の規定を捉えます。スケジュールに比して読まなくてはならないジャッジによる各評文の多さに辟易する方もおられるでしょうが、規定が厳しく文字数を決めるものであり、それに従う用意があったのではなく、ササキリはファイトクラブの規定に従う用意があったのです。とにもかくにも、ササキリの以下の評文は、「増えてもまったく構いません。」との規定に従ったものであることを、強調しておきます。

以下、各評文

・深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」(Aグループの勝ち)

先に、深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」について担当外ではあるが、Aグループの勝ちにしたので本作品については書き残しておく。
「知らない人の名前を主語にした苦労話のように聞こえる」は、日本語として拙い。この文は、本作品が持ついくつかの傷の一つである。「知らない人の名前」であることは断定であり、苦労話が推量であるが、「知らない人の名前(の話)」に推量が係るとも読めるためだ。だがこの文は、本作品の特異な描写の姿勢を開示ないし示唆する、序盤に配置されてしかるべき効果的な文だと感じた。直ぐ後の「そこで店内の音楽が竹内まりやだと気づく」との文の「そこで」が、本作品における眩暈がしない程度に交代するシーンの割り込みの効果(これは圧倒的な美点である)が損なわれている。端的に言えば要らない三文字。序盤はほぼ「苦労話」が始まって終わるまでのシーンについて描かれるのだから、今までの指摘は些末なものではない。
『あそこで鳩が燃えています』の英訳が唐突に割り込み、会話と他人の描写に移った後、「蕎麦を注文していないことに気づいた」とくる。この流れは、本作品で二番目の美点である。こうしたリズム、唐突であるはずの出来事がリズムをなす。
続き、同様の効果を産むいくつかの文が反復された後、「しばらく残酷な映像が挟み込まれる。」残酷な映像がどのように残酷なのかが書かれていないとすれば、本作品は力を失っていたと思う。それから、残酷な映像が二度挟み込まれなかったとしたら、ほとんど台無しになっていたと思う。危うい作品である。残酷な映像は、「土埃のなかに穴のあいた石壁がある。赤く囲まれた物体。」という描写に相当すると思われる。意味がわからない。この映像において動きのあるものはせいぜい土埃だけで、映像ですらないのかもしれない。この後、「残酷な映像」に関わると思われる個人的な(要するに、詳細を伝える気がない)描写が続き、「もうおかしくなっている。そのうちに秋茄子の温そばが到着する。」となり、今度は「そのうちに」やってきた蕎麦で終了したというよりも、おかしくなっているという自認で映像は締めくくられる。むしろ本作品の美点は、このような締めくくりの連続なのであって、「そこで」などという前置きが竹内まりやに使われたことが、本作品の総合的な評価を下げると考える向きもあるだろう。
何かが始まり、何かが終わってから始まるのではなく、何かは唐突に始まらなければならない。本作品はこのテーゼを蕎麦屋で真摯に追求している。
ひとえに、上述した傷は、作品の練り上げの不足に依るものか、あるいは作家が美点にそもそも明りょうには思い至ってないためだと考えられるが、しかしこの傷が、かえって本作品の美点を際立たせていることも確かなのであって、すると本作品が書き上がった段階で、〈これでよし〉と踏ん切りをつけて提出するその作家の判断力にも相応の説得力があるだろう。くわえて、このネガティブさと美点との関係は本作品に限らず、多くの散文の作品に当てはまるような関係なのであって、特に本作品がたまたま良くなった、というわけではないし、こうした傷は校正でどうにかなるようなものではない、すなわち、ただ少し日本語を整理したらどうにかできるものではないのであって、あとはこの作家があとはこの傷の頻度を調整できるようになるだけであって、それこそ作家の未来ではなかろうか。
さて本作品の具体的な内容に戻り、さらに店内の会話が紡がれたあと、「お蕎麦をすする。それが舌にあたる。歯がつぶす。喉が流し込む。」とくる。ここが本作品で最も良い美点である。本作品が遂行する描写にとって、一人称視点においてさえも、歯も喉も主体ですらないのであって、おかしくなっているのも、さもありなんというわけだ。続く「燃えた鳩をさがそう。幸福なことを望んでちゃんと寝よう。全部食べれずに残しそう。」という文には脱力させられた。それを美しい、と呼びたくなった。意味不明な主体の決心が、くだらない脚韻によって支えられることで、本作品に流れる、くだらなく、読むのも億劫な会話の描写(会話は読みとばすためにあっても構わない)がマッチしてくる。「ここでまた残酷な映像が流れる。」との再度の割り込みは、果たして本作品が緻密に蕎麦屋を描写しようと腐心するこの軽快な主体を、私に割り込ませるに至る。私には、燃えた鳩ではなく、確かに土埃の中に、赤っぽい何かがあるような映像が挟み込まれる。私はそれを心地よいと思った。この心地よさを妨げる諸々の傷はすぐに治癒されるとも思った。すなわち、この素晴らしい蕎麦屋の描写小説にも、この作家にも未来があると感じた。したがって、ササキリは深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」を勝ちとします。

・中川マルカ「あいはむ」

先に傷について。「ほの白い紐のようなものが出て、ミヒカリが指先で摘まみ、抜いた。薄黄色の断面にはごく細かな気泡が規則正しく並ぶ。割れ目から転がり出た小さな玉と下半分をゴマジに戻し、ミヒカリは頭の方を引き取った。」では、紐に劣らず玉も気味が悪いのだが、玉については「小さ」いことしか描写されず、のちに、「乳白色の玉と、……」で遅れて説明される。この遅延が、本作品の一つの傷と認識した。玉はその後も、緻密に描写されるキーアイテムだからこそ。
会話文に圧倒的な面白さがある。日常では出てこない雰囲気の特異な発話(「増やしてどうする」など)と、端的な発話(「おいしい」など)とが、いずれも成立している。素晴らしい。本作品の文体やモチーフが提示することに成功した前提が、現実世界の前提とはまったく異なるからだろう。「粒の揃った七色の貝殻が並んでいるかのようだった。」という比喩は、作品世界に忠実な比喩で、作品世界を想像するために効果的な比喩になっている。
「機織部屋」「石灰岩を研磨したものだと前に聞いた」「井戸には雪がまだたっぷりとたくわえてある」などから、作品世界の産業や生業が推しはかれるように構成されている。性と食だけでなく、布、水、鋳型や硝子から火などが、暗に描かれていることが本作品の目を見張る点である。総合して、この作家の世界を描き出す力は強く、力の及ぶ範囲は極めて広大であるため、この作品にも、この作家にも未来があると感じた。したがって、中川マルカ「あいはむ」を5点とします。

・両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」

序盤からおそろしい勢いで引き込まれていく。「ウクレレの音を拾うマイクを目一杯歪ませたディストーションエフェクターにつなぐのよ。それから本番ではあらかじめ打ち込んであるドラムやベース、シンセと同期させて演奏するし。それに分厚い音を作ってくれる最高のPAもいるの。だから大丈夫なのよ?」で一旦失速しそうになるが、「まち子さんはへーと言いました。」とすぐにきて、ササキリは意識を取り戻す、というか湧く。いま長くてしんどい話をしていますよ、とわかっていてやっていることに安心して湧く。このあと、この長いこと話す「柴田さん」の誘いを、「まち子さんは断りました。テレワークが忙しかったからです。」などと断るまでの流れは拍手をしたい完成度である。笑えた。だがこの後、ウクレレという語が初めて登場したときも笑えたが、ウクレレが尾を引いて長く笑えるかというとそうでもなく、むしろ、この作品、長いな……と感じ始めてしまう。本作品は、長すぎるか、あるいは、この長さに対してのパンチラインの数が足りないと感じた。したがって、ササキリは両目洞窟人間「YEAHHHHH!!!!!」を3点とします。

・吉美駿一郎「遅かれ早かれ」

「ぼく」「品位さん」「外国人男性」「パンクロックをやっている若い女性(パンクロック、と換喩で呼ばれる場面もある)」「化粧品会社に勤めている若い女性」などが登場する。品位さんは、「ぼく」からすればパワハラ人間であるとされる。ただし、品位さんがどのようにパワハラ人間なのかは、十分に描写されてはいない。「品位さん」などと蔑んだ名前で呼ばれるのかが不明瞭なままに終わる。外国人男性。「英会話教師をしている男性の言葉は、必死さだけが伝わってくるものの詳細はわからなかった」との描写から、英語を話して何を話しているかはわからないが、とにもかくにも日本語を喋らないものの、いじわるな描写とともに、「外国人男性」と呼称される。パンクロックをやっている《若い》女性は、ただそれだけの理由で、換喩で単にパンクロックと呼称される。あまりにも雑に登場人物が扱われているため、驚く。
「いつも食べ物を差し入れてくれる女性が、ちょっとみなさんにお話があるんですと思いつめた声で言った。みんなで手を繋ぎましょうと促す。ぼくの隣はパンクロックをやっている若い女性と、化粧品会社に勤めている若い女性だった。宇宙へ呼びかけるときならいつも繋いでいる。でも、夜空を見上げずに手をつなぐのは初めてだ。」との一文が悪い意味でもやもやとしてくる。「いつも食べ物を差し入れてくれる女性」と、この女性がなぜこの説明・描写だけで済まされるのか不明である。主人公の手が、気味が悪く触りたくないもののように思えてくる。
登場人物の扱いや、描写を大きく不足させる戦略が、本作品全体の雰囲気や、テーマによく働いていると思える根拠をササキリは見つけだせない。パワハラだという言い分もまったく説得力はなく、かえって「ぼく」のほうが異常ではないかと思えてくる。遊び半分に近いやり方で品位さん等と呼称を決められたり、「いつも食べ物を差し入れてくれる」や、「パンクロック」等と他人を粗雑に説明する「ぼく」が、品位さんを、外国人男性を、その他の人を、作品世界を、鋭く描写しているとは思えない。読者ササキリは読み進めるなかで、「ぼくの想像は彼ほどポジティブではなかった。むしろネガティブな効果しか得られなかった。」などの『ガザ日記』から始まる「ぼく」の省察に耳を傾けるだけの気持ちを失っている。初読でなんとか最後まで読むことができたのは、「ガザ」という語が出てきたからとさえ言える(この点は本作品の評価にはあまり関係がない)。上述した傷を治癒できるだけの美点を発見することが困難であったため、ササキリは吉美駿一郎「遅かれ早かれ」を1点とします。

・和泉眞弓「棄子(きし)」

赤は、まず第一に親とを繋ぐ色である。赤が練り上げる歴史は短い。都の、文化の青に比して、人の一生が短いように短い。有形である。赤は、亦た、「ただからだのみ生かされて、赤子のごとくさせられる」にあるように、赤子の赤でもある。赤子なる語は本作品に二度出てくる。赤は両儀的である。〈赤すぎてはいけない〉が本作品のテーゼと受け取った。確かに「身体」が「青黒く」(ここで、ただ言葉=青になってしまうことが、青を発露できなくなること=死ぬことになってしまうことを暗に表現している、美点である)なってしまわないように、赤は保たなければならない。ただ一方で、赤だけに頼れば、赤子のように聾唖にさせられる、ことばを、文化を取り上げられることになる。赤子でなくして、なお赤子でなければ、そもそも生きながらえることができない。青=言葉・文化を残すためには、赤くなければならない。青の無形の条件として、赤の有形がなければならない。「もう、身体をいましめなくてよい」という状態になるためには、みどり(例えば、痩せていない土地)に触発されたほうがマシであり、ただ、マシというだけで、決して必須ではなく、なにはともあれ青=言葉・文化を発露しなければならない。いたってシンプルで妙な結論である。私は赤を有形、青を無形といった。この区別は厳密ではない。いたってシンプルな結論に想到させるにあたって、本作品においては、色は色としてではなく、色に紐という形が与えられ操作され、しかもその紐を有形か無形かといった水準ではない、いわば形相的に有であるか否かという、より正確な水準で、概念の操作がなされている。だからこそ、この結論が、妙になる。この微妙な操作は、生半可ではなく、おそろしい(皮肉な言い方だが)〈国語力〉によって成立している。総合して、競る場合には、抜けても構わないと判断し、ササキリは和泉眞弓「棄子(きし)」を4点とします。

・文月悠光「すべての庭のために」

「庭ってどういうこと、と目で訴えると、「人による。いろんな庭がある。ただ在るとしか言えない。声にならないものだ」なぜか優しげな声で、包み込むようにその人は語った。」と序盤にある文章は、初読で不思議な心地よさと、微妙なことが微妙な仕方で描かれていることとを感じた。庭は「声にならない」という。声というのが予想外だった。例えば、ふつうは、〈言葉にならない〉、〈言葉では説明できない〉と言いそうではあるまいか。「声」というのだから、相応の理由があるのだろうと期待させるような、微妙な選択である。まずここで引き込まれる。
「教室でホチキスの針が足りなくて困っていると、丈の長い上着を着た男が近づいてきた。」「お父さんは爪を背広のポケットに入れた。」などに見られる微妙な細部も気に入った。「丈の長い上着」や、「背広」は、単に服と言ってもいいし、あるいはより詳細に服を描写してもよい場面だと思うが、短く、けれども的確に「男」や「お父さん」の雰囲気を伝達してしている。すばらしい点だと思った。「その日、仕事に行くのを見送ってから、うちにはお父さんが帰ってこない。」は、日本語としてはやや奇異に感じて、悪い意味で引っかかった。単語レベルの操作に極めて長けてはいるが、文の単位になると、違和感を与えるような文がいくつか見られ、大きな傷ではないが、いつか小説作品がそうした違和に蝕まれやしまいかという懸念が残った。
さて、問題の「声」について。ラストシーンの「そんなのは自分だけと思ってきたから、誰かに話してみたこともない。声にならない。」との文。わたしが見る夢のなかでの、庭の体験は、自分だけだと考えているから、誰にも話さない、というわけらしい。序盤の「声にならない」が反復されて、小説は閉じていく。なんだ、〈話さない〉から「声にならない」と言っていたのか。〈言葉では説明できない〉とそれほど差異はなく、それほど「声」という語の選択に、含みはないのか、と少しがっかりした。「声」とわざわざいい、反復する点への説得がない。この点は、本作品で反復される主題の追求に関する傷であり、瑣末ではないと考える。したがって、ササキリは文月悠光「すべての庭のために」を3点とします。

・結城熊雄「園部さんのこと」

「「小さい頃牛乳いっぱい飲みました?」これまで何百回もされてきたであろう、つまらない質問をしてみる。」との会話と描写が中盤の前に出てきて、「つまらない」ものがどのようなものかを判断できるだけの力が「僕」にあるということがわかる。なんとなく隙間を埋めるように書かれたのかもしれないが、決定的な一文である。
「女性に対してでかいなんて言葉を使うのは失礼極まりないんだけど、」という〈僕には分別はありますよ〉というアピールないし前置きのもとで、たかだが十センチ以上程度大きい「園部さん」が「エメリヤーエンコ・ヒョードルだ」などと軽めの断定口調で喩えられる。これは、「つまらない」と感じる。つづく独白のような描写も同様。「袖からのぞく手は大理石のように滑らかで、自ら発光しているのではないかと疑うほど白い。」と、手(肌)を大理石のように、というお決まりの比喩と、その後の捻った比喩とが特別美点とは思えない。整理すれば、「ダボっとしたニット」「大きめのパーカー」ばかりを着るために、園部さんの手は、「世界で最も美白のタランチュラ」に見えると書かれている。情景が想像し難い。「だって彼女は海の底からやってきたのだから。いや、海から来たというのは僕が勝手に想像しているだけで、……」と薗部さんが海の底から来た、などというだし抜けの冗談が入る。この冗談は、後半で尾を引く。この構造自体は面白いが、勝手な想像が滑っているとも思ってしまう。大まかに今し方指摘したような「僕」の「つまらない」感じが頻度や長さを変えて本作品には現れる。そのいくつかを仮に「つまらない」とは思わない向きに対して、ではなぜ「小さい頃牛乳いっぱい飲みました?」との質問を「つまらない」と「僕」が言えるのか、と問いたい。私はそれにうまく答えられない。私は、「僕」が判断する「つまらない」が本作品の描写のほとんどすべてにかかってしまうと認めざるを得ない。したがって、ササキリは結城熊雄「園部さんのこと」を1点とします。

・伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」

まず、ルルイ・クロスなるものの架空の譚として、抜群に面白く感じた。エジソンという大きすぎる固有名詞と歴史の裏側で、この雰囲気を出すのはそれほど簡単ではない。少女漫画・少女小説のような趣を感じた。優れている。ただ、魂を記録していると納得させることが、「死にゆく者の声を録音」することで、成り立っているのかが疑問に思った。この設定は詰めが甘いという向きもありそうである。「セーヌ川で見つかったルルイは、幽霊ではなく確かに肉体を持った人間でした。ただ状態としては幽霊に非常に近いもので、つまりは死体でした。」「自分が生きている人間なのかわからなくなった」と言い残してアパートを出て行ったとのことです。」とある。「肉体」をいくらかの言葉を割いて迂回しながら描写するこの箇所を、読者ササキリは素晴らしいと感じた。この肉体への言及が、本作品に一つ深みを与えていると思う。というか、音の録音では納得できない魂の話を、ぎりぎりのところで納得させる力を与えている、と言うこともできそうだ。
詩が出てくる。「十二色の音になり/多くの死を赦すだろう」。音を十二音階で分ける思考がエジソンが活躍した年代ともマッチしていて、技ありと思った。
「VHS」という入りの陳腐さや、「私は詩ではなく死の道を進みます」がフランス(語)という場面設定とマッチしなさと陳腐さが、作品世界に没入する障壁となる傷もあったことを言い添えておく。総合して、競る場合には、抜けても構わないと判断し、ササキリは伊藤なむあひ「畜魂機についてお話しします」を4点とします。

・永瀬辻「天蓋に貼り付く」

「言うまでもないことだが、この世界の高さ約千メートルを塞ぐ天蓋は何びとも接触を許されない神聖な領域だ。」との文の「言うまでもない」は、重く捉えられるべきである。本作品の作品世界において、「天蓋」は前提なのである、とあらかじめ断っておくのだから、現実世界には当たり前に空があるのと同じくらいに、作品世界では当たり前に「天蓋」があることを納得するとする。
「私は単なる大人しい帰宅部の高校生で、大人しいということはつまりクラス内の地位が低いということで、私の居場所は光源に照らされ蒸発していく水溜りのように日に日にその領域を失っていて、ひょっとすると今やとても惨めな存在なのかもしれなかった。」における二つの飛躍を確認する。一つ目の飛躍は、「(私は)大人しい」=「クラス内の地位が低い」という等式の飛躍である。二つ目の飛躍は、クラス内の地位が低いことが「私の居場所は光源に照らされ蒸発していく水溜りのように日に日にその領域を失」うことに喩えられているこの飛躍である。
一つ目の飛躍は、「天蓋」を受け入れるにかかる負荷とは全く異なり、大人しいことが、「つまり」で結ばれるほどに、クラス内の地位が低いことである、と納得させるだけの根拠が、微かにだが現実世界のほうにはあるだろう。
だが、よく考えなくても、大人しいことは別にクラス内の地位が低いことにはすぐに結びつかない。だから飛躍と言っている。「私」が大人しいことと、地位が低いこととを了解したが、読者ササキリが受け入れたのは「天蓋」の存在である。これらが等式で結ばれるとは考えていない。そう納得させる描写が存在しない。傷である。
この飛躍の「つまり」は、すぐに「私の居場所は光源に照らされ蒸発していく水溜りのように」で受けとめられる。
例えば中世を舞台とする作品で、現代のものを使って喩えたとしたら、違和を覚える。それと同じように、「天蓋」がある世界で、空の上の光で喩えられても困るだろう。本作品には確かに太陽が登場せず、代わりにか「光源」が出てくる。「光源」は、われわれが普段現実世界で使うようなライトの類ではなく、水溜まりを蒸発させるほどのものである。そのような「光源」が作品世界にもあるらしいことがわかる。このささやかさは、本作品の美点だと考える。
この細かな比喩の手前の、クラスの地位が低いという描写は、本作品において瑣末なことではない。「クラスの一軍に君臨する者たちにのみ許された暗黙の頂点の証だった」とあるように、クラスの地位は、「投擲運送屋」のバイトと、違法ではあるが憧れのようなものとして位置付けられている。「私」がそのバイトをせずに、「親友ウルメラ」がすることになるそのバイトは、本作品の描写に従って紐解いてみれば「わたし」が「おとなしい」からやらなかったというわけだ、と読めてしまう。それが本作品のテクストに忠実すぎる、ある意味いじわるな読み方だという向きには、〈では、天蓋だけはなぜ納得してあげるのですか〉と問わなければなくなってしまう。
例えば作中の「私」の自己省察の能力が著しく低いなどの理由で、「私」の自認がそこまでで止まってしまう、おとなしいからクラスの地位が低いままになってしまうという短絡的な結論に留まるのだとしても、「光源」「水溜まり」で喩えて言い換えられるだけの美しい書き足しが許されているのだとすれば(そして本作品は実際許している)、もっと別の仕方で描写できたと思う。「メイフィアの声は宇宙のように不安定な旋律となって私の脳を揺さぶった。」という力強い比喩を納得させるだけのこの作家の「天蓋」の設置の作業が(本作品の最も美しい一文であり、強く胸を打たれた)、どうして「私」の描写に存分に発揮されなかったのかと悔やむ。上述したような美点に対して、この傷が大きく感じられた。したがって、ササキリは永瀬辻「天蓋に貼り付く」を2点とします。

・若山香帆「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があったそれはわたしの湖だった」

あらわれては消える「湖はわたしと親しかった。夏の暑い日にはつめたい水で西瓜を冷やして食べた。頭から飛び込んでやさしいうねりに全身を預け、身をくねらせて潜っては顔を出して息を継ぎ、岸に座る母に手を振ってみせた。冬には凍てつく湖の上を従兄弟のお古のスケート靴で滑っては転び、氷に開けた穴から糸を垂らして釣った魚を持ち帰るとフライにしてもらっておやつに食べた。」
「わたし」と湖の親しさが、家族ぐるみであることに驚かされた。「わたし」だけに湖が体験されるのではなく、母もそばにいてくれていて、従兄弟すらも湖を認知していそうである。決して湖は「わたし」たった一人の(独りよがりの)ものではない。湖と遊ぶ描写は、そのシーンや内容の選択といい、本作で占める割合といい、ほとんど完璧といっていいほどである。素晴らしい。「隣にいるのは夫で、ここは夫と二人で暮らす家の寝室で、わたしは喉が渇いている。」という文は異様だ。該文は、本作ではっきりと文体が変化する箇所で、短文で緊張感のある目覚めが描写される合間に挟まる。勝負に出たな、と思う。「わたしは喉が渇いている。」とわざわざ「わたし」の主語が明示されるのが奇妙で、他の描写と視点や技法が異なっている。夫の存在は、前の「一人だけ笑わなかったのが今の夫で、」により十分に目立っていたからこそ、該文の捻った書き方は、やや浮いてしまっていると思った。「夫」がまるっきりの他者になってしまっている。「目を開ける」から始まるクライマックスの美しさに水を差すというか、湖が「わたし」だけでなく家族ぐるみで関わる受容物であって、該文が浮くとなると、果たして「夫」はこの「わたしの湖」と、「わたし」とともに関わることができるのか、と疑いたくなる。「対岸の空が朱く染ま」り切ったあとで、それでも「わたし」は「夫」とそれを見る気がする。そのとき、読者ササキリは、その「夫」を余計に感じると思う。これが本作のたった一つの、小さくはない傷である。家族ぐるみでの湖との付き合いが、本作品の美点をより一層の高みに押し上げるはずだった、と思う。「わたし」が成長したからでは、と突っ込みたくなる向きには、本作品のどこにそのようなことが書かれているのか聞いて、その後、それがどう美しいのかを聞きたい。おそらく明確な答えは返ってこないだろう。だから傷と言おう。
この傷を指摘することが辛い。本作品は本当に美しいから。ありふれているモチーフのように思える「わたし」だけの湖=すべてを受容するものが、ありふれてはいない緻密な描写で唯一無二となっていることは確かである。総合して、競る場合には、抜けても構わないと判断し、ササキリは本作品を4点とします。

・岸波龍「窓」(Bグループの勝ち)

日本語の力をうまく動員し、文の息を長く繋げることに成功している。本作には読者をついてこさせようとする工夫が二つある。「その理由は以前、」と、「この光景はどこかで一度見たことがあると記憶をたどると、」から始まる描写によって過去の出来事を描写するとの断りが入ることで、文が地続きになっている。工夫の一つ目はすこししつこくも感じた。
工夫の二つ目、「ふつうに考えればおかしい行為をしていることになるはずだったが、」ときて、少し飛ばして「わたしたちの学校ではありふれた光景であったから何事もないように時間は進んでいって、」とくる。「ふつう」なる通常の感覚に対して「わたしたちの学校」であっては通常である、との説明が入る。この説明は、ある読者にとっては、一旦この「学校」が普通ではないと納得する材料になるのかもしれないが、私にはこの文が余計に感じられた。この文は、本作品の緻密な描写にそぐわず、何か説得したげである。この一文がなくても、本作品の節々から普通ではないことを十分に感じただろうし、かえってこの一文によって、例えば〈むかしは悪かったんだよ〉といった、さして興味がわかない他人の思い出を聞かされている気分になりかねない。こちらははっきりと毒だと思う。確かに「全部、どうかしている、そう考えたらパニックに陥り、」が成立するためには、「ふつうに考えればおかしい」などといった、普通と狂いの揺れの描写が必ず必要になるが、それは教室の緻密な描写で十分に準備されている。ただ、浮いているのは、その一文くらいである。
場面が地続きに描かれているからこそ、「バスケ部主将」が「窓からは上半身しかみえず下半身は隠れている」シーンにおける窓の交代が生きてくるのだろう。本作品が全体で繰り出すパンチラインによって、徹底的に文を地続き(句点を打たないことではなく、上述した地続き)にすることの意図は、十分に汲み取られるし、二つの工夫をすることの説得力があると言える。しかも、工夫のその方針自体は、この作家がまた別の作品を書いた場合に、必ずしも悪い方向にはたらくわけではあるまい。この作家の日本語を操る力をもってすれば、いくつかの傷は造作もなく治癒すると思われるため、この作品にも、この作家にも未来があると感じた。したがって、ササキリは岸波龍「窓」を勝ちとします。

・酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」

「女であるとか、男であるとか。痩せているとか、太っちょだとか。/声は高いか低いか、その中間か。文法の授業が得意か否か。コインの数え方は素早いか。川遊びは好きか。親戚に政治家や軍人はいるか。鏡に映る鼻の周りはそばかすだらけか。」この冒頭の、改行がつづくパラグラフは、本作品の文章の密度とその配置・レイアウトの仕方として、いささかしつこく感じる。書いてあること自体は大変面白い。だが原稿用紙6枚の作品として、この箇所に不満をもたなくはない、というわけである。一方で、「親戚に政治家や軍人はいるか。」は本作品の世界がどのようなものなのかを一部提示していて、良い差し込みである。「……母の意識は、案山子のように老いさらばえた肉と骨に溶ける」における案山子の比喩は、母が一方で大きな三角の影を持つことと対比されるなかで素晴らしくなったはずだが、「老いさらばえた」という描写に引っかかってしまい、傷と感じた。七歳であるか、そうでないか、それが問題だったのではなかったか。母はただ七歳ではないだけである。老いが問題だったのか、そうではないはずだ。痩せた姿をあらわす素晴らしい比喩が他にある(「どの家畜も針金細工そっくりに痩せ衰え、」)。全体にわたって作品世界に反しない、重たい言葉の選択が成功している点が凄まじくはあるものの、「七歳」という本作品の核心との関わりで、傷は大きく見えた。母の思い出の描写で「明け方のきつい労働を済ませ、」の「きつい」が作品が描き出す雰囲気にそぐわず、ここで気を緩めてしまった印象を受ける。他にも、「蝋燭が音を立てて揺れ」の無理がある感じと、「音」が描写されないことが傷と感じた。全体で立ち上げようとする作品世界と、荘厳な雰囲気に納得させるために気が使われており、優れた作品とは感じるものの、例えば上述したような傷が小さいものとは思えなかった。したがって、ササキリは酒匂晴比古「わたしが七歳だったころ」を3点とします。



子鹿白介


 作品同士の競い合いだけでなく、他作品の読み解きを広げ、寄与したことも加点としてあります。文芸の未来をひらく力は、そういうところに隠れているかもと思ったので。

【担当作品 評】
・深澤うろこ「あそこで鳩が燃えています」
 訥々として心地良い語り口と、視点人物の内面描写のナイーブさが魅力的。高架下の蕎麦屋という舞台設定は馴染みがあり、親近感を覚える。
 燃える鳩が意味するものは、(当初は駄洒落で『ハート』かとも考えたけれど)ここでは平和の象徴という仮定を採用する。脳裏に挟まれる〝残酷な映像〟も、なんらかの暴力シーンを示唆していると考えて良いだろう。
 鳩の炎上は、騒ぎたてるほどの異変ではないようだ。窓の外(=日常から遠く離れた場所)のできごとに、視点人物だけが茫漠とした気まずさを感じているように読める。〝燃えた鳩をさがそう。〟という考えは、周囲の無関心に対する、せめてもの自発的な意思の表明にもとれる。全編を括弧で囲ってボーダーラインを引くことで、括弧書きの本文は非現実であることをあえて表し、括弧が閉じた後にこそ現実が再開するというのだとしたら、創作と現実のあいだに地続き感が出ていて面白い。
 個人的には食べた温そばにも、燃える鳩の存在を感じられるなんらかの仕掛けが盛り込まれていると嬉しかった。私たちは官民なにかしらの形で軍需産業の経済的な恩恵を受けていて、この営みや血肉にも、戦争の影が落ちることからは避け得ないので。

・紙文「いつまでも手をふる」
 文体の軽やかさが素敵。〝わたし〟から先輩への、恋ごころのような心情描写が切ない。どうやら同性である雰囲気が、途中から仄めかされるのもトリッキーだった。同じAグループの「あいはむ」や「園部さんのこと」でも、人から人への憧れ(に類するもの)が描かれるが、本作が最も等身大のリスペクトを感じられて、安心して読むことができた。
 ふたりの共犯関係の成果物である和歌入り千円札が、(平凡なたとえだがバンクシーのように)評価されてネット社会に飲み込まれ、ただの〝ごちゃごちゃ書いてある〟高額希少品とされ、嘘に飲み込まれる描写はリアルであり、悲しい。
 冒頭の短歌(〝~母のくちぶえ〟)からはなんとなく、先輩の母親が早世しているような印象を受ける。おじいちゃん犬のエピソードといい、先輩には過去への郷愁がついて回る。タイトルの「いつまでも手をふる」にはレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を想起させられ、別れを受け入れるプロセスの大切さを思い、おそらくその影が引き継がれ、〝わたし〟が千円札を受け取るたびに和歌を探してしまう未来のことも想像してしまう。

・井中昭一「鍵穴の乙女」
 時間と空間の歪みがある。リビングは本来鍵穴から覗けない位置に存在するし、玄関にあぐらをかいて夜明けまでドアを覗き込み続けることも異常だ。そのことに何かしらの説得力を読み取れるかと試みてみたが、うまくいかなかった。
 また帽子かけの左右非対称や、〝彼女〟の目の皺や合掌の右寄りなど、形状的な歪みも本作は含んでおり、歪んでいることそのものが本来のかたちであるようにも感じた。コタツ布団の意匠のアンマッチも同様だ。
 それに対して造花の薔薇は〝本物と遜色ない〟正しいかたちであり、それを製作している彼女も静かに美しく、そのことが際立っている。
 現実に戻ったようなラストでは、主人公は嘘をつく。これも歪みだ。歪みの中の正しさのコントラストが、本作の味わいと感じられた。

・鯵野三志美「十月の缶コーヒー」
 カテゴリは俳句、で間違っていないだろうか(不安)。秋から冬にかけた季節の移り変わりを描いたつくりが、読み解きやすさにも寄与していて親切設計と思う。
 〝相談に頷くだけ〟〝鬱の字〟〝両隣の人は背を向け〟〝迷惑メールしか来ない〟といった具合にネガティブなフレーズも(寒くなるに従って?)入り込んでくるが、生活のなかの着眼点と歌を詠むセンスの豊かさが日常に満ちていて、その差が読んでいて勇気になる。たとえ鬱々としても、日常を楽しむことは抵抗することだ。他作品「記憶に値しない人々」「まゆ子なんか嫌い」に描かれる生活の孤立感とも結びついて、希望を感じることができた。

・磯崎愛〈「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。〉
 闘病記と呼ぶべきだろうか。とてもフランクに自己開示をされていて、読みやすい。しかし内容はあくまでシビアだ。〝無痛の時間〟という気づかない幸運のことを考え、はっとした。〝現状に憤って〟〝生き延びたい〟という訴えのことを、無視できない力がある。
 また、目に見えない苦痛の存在を解く本作には、他作品を読み込むにあたっても大きな影響を与えられた。肉体的な痛み、つらさを伴う「棄子」「窓」「友達」はもちろんだが、精神的な痛みをはらむそのほかの参加作に対しても、人物を読み込むための想像力を喚起することでたいへんな貢献を受けた。
 テーマの普遍性と切実さ、そして軽妙な筆致の有り余る適切さを根拠に、私は本作をAグループ勝ち抜けにジャッジする。(なおこんなことを言っておきながらBグループ勝ち抜けには自死を扱う作品を選出してしまっているので、読者として戸惑いつつ、いちジャッジとして決勝への期待を寄せてやみません)

・結城熊雄「園部さんのこと」
 園部さんのスペシャル感と、会話の妙による瞬発力が魅力的。巧望くんから園部さんに対する一年間の片想い……かと思いきや、巧望くんが勝手に結婚してしまう変則的な展開が面白い。(結婚に勝手にもなにもないが)
 個人的には怪奇物として解釈した。海から日本へやってきた外国妖怪の園部さんは、社会に溶け込みながら発見した手頃な若い男(=巧望くん)を魅了している(〝ひひひ〟の笑顔がその妖術だ)。園部さんのことばかりを考えるようになってしまった巧望くんはピンチに気づいて嘘の結婚報告で予防線を張り、失意の園部さんは消えてしまう(新婚男子が有休で一人旅など、なくはないけど不自然)。しかし園部さん中毒の巧望くんは禁断症状が出てしまい、ハリガネムシに取りつかれたカマキリのように無意識に、園部さんが待ち受ける太平洋へと誘い込まれて……。
 さて、海の者に恋をする関連の他作品は「あいはむ」である。母なる海という言葉があるが、陸の男が海の女性に惹かれるさまには、両作ともに盲目的というか一方的な感情の流れが感じられる。大きく美しいものへの回帰を望む欲求が、表現の傾向として存在するのかもしれない。

・春泥「誰も愛さなかったから」
 〝誰も愛さなかったから 誰からも愛されなかった。〟題名と冒頭をひと続きにして早々に作品の核心部分を提示してしまうことで、残りの全編を通して死体描写に集中させる手法が最高にマッチしている。
 すでに死体である〝わたし〟だが視覚・聴覚・嗅覚・温感は存在し、思索をしつづける。〝思い出す〟〝ボナペティ(召し上がれ)〟〝胸を締め付けられて〟〝船内に戻るのは難しいだろう?〟〝すっかり忘れていた〟。死出の船旅であっても連れて来ずにはいられなかった老犬を心遣う感情の動きは、他人事めいているが(なにしろ死後なので)、静かで愛嬌がある。また淡々とした語りは、〝わたし〟という人物が誰も愛さず、愛されなかったという自己総括にも、一定の説得力をもたせている。
 船の行く末は、『甲板に根を生やした木』と『大きなサメ』が左右する。『木』は自死の手段に使われると同時に、残された老犬の渇きを癒す。船から人体を吊るとしたら普通はマストだが、船の沈没へ向けた時限爆弾としての舞台装置の役割と、〝わたし〟の亡骸が自然の一部になったことを表し、孤独感をやわらげてくれている。また『サメ』は船体のバランスを保って〝わたし〟の死後に時間の猶予を与えた末、然るべき時間を経過したタイミングには無慈悲に船を捨てて〝わたし〟の意識を解き放つ(成仏?)役目を果たしており、その調和が作品全体を美しくしている。

・永瀬辻「天蓋に貼り付く」
 タイトルから怪奇的な作風かと予想したが、どうやらディストピアSFである(『進撃の巨人』みもある。ネーミングとか)。地底世界の天井が約千メートルというのは広大で珍しいと思ったが、調べてみるとネルフのジオフロントがそれくらいの空間だった。作中に〝人類居住区画〟というワードが登場するので、人類以外の存在が地上を支配している含みもあり、想像が喚起される。
 地下世界を見下ろすだけならば〝遊牧民の空飛ぶマシン〟だけで済むようにも思うが、ウルメラの動機が投擲運送屋としての自分の技能を活かし、自分の力で天蓋に到達したいというならば一定の納得感はある。また、生活空間を地底へ押し込めた人類のなかで、さらに居場所を失いつつある〝私〟が、一念発起しウルメラへ追随して投擲運送屋を志す、という展開も良い。遊牧民のメイフィアが地上への憧れを語るラストも、続く物語への想像を期待させてなかなか好きだ。
 しかしながらタイトルと内容のちぐはぐ感や、時系列のトリッキーさに惑わされた読後感が残る。文字数の余裕はあるので、もう少し世界観を簡潔に詰めたり、感情の動きの連続性を描いても良いように思った。

・大竹竜平「不審な刃物」
 エスカレートしていく事態と怪獣映画のような臨場感が面白く、マップと見比べながら再読した。そうすると本作に登場する固有の地名『室川』および『龍法寺』は秦野市の南側から東側にかけて実在しており、本作で描写されているように〝秦野市西部〟から〝正確に北東〟へ直進しているのとは印象が異なるように見受けられた。地軸の傾きが異なる地球を舞台としたSF小説なのかもしれないが、『飛行し、直進する刃物』という大きな嘘を実在の地域に登場させるにあたっては、せっかくなのでできるだけ現実に寄せた地域描写をした方が面白味は増すように思う。いろいろ難しいことではあるけれど。
 『大学教授の仮説』『京鹿子娘道成寺』『不動明王像』など、完結後の不穏な展開を仄めかす仕掛けは読後感に貢献している。「不審な刃物」はいわゆるSCP的オブジェクトであり、他参加作に登場する同じくSCP的な「燃えている鳩」「畜魂機」「あらわれては消える湖」と比較した際、主体的に物語を駆動させるエンジンとなっている点は、エンタメ的な正攻法が映えている。

・岸波龍「窓」
 理不尽かつ、こわ気持ち悪い。原因不明の狂気が日常に忍び寄り、誰もかれもが異常な挙動をしだすというのは、ある種のホラー邦画のように不条理な恐怖の素養を感じる。本作「窓」では幼少の頃の父親までも狂気を帯びており、さらにたちが悪い。
 文体としては句点(。)をほぼ廃して一続きの文章にしており、これは迫る狂気への切迫感、および〝わたし〟までもが狂気に取り込まれている異様さの演出と考えられる。同グループ作「綴る躰」も類似の手法を採用しており、あちらは文字数上限いっぱいまで情報を詰め込む執着心を感じるが、本作には情報圧縮の意図はなさそうだ。余力があれば狂気をさらに盛り込んでも良いように思う。
 タイトルの「窓」が示唆するものを考えると、窓の外に出た〝わたし〟をバスケ部主将が見つめるラストは、暴力のリフレインを予感させてそら恐ろしい。

・岩月すみか「まゆ子なんか嫌い」
 都合よく扱われる友達関係、というものが実感を伴って描かれている。まゆ子が吸い寄せる異性関係の歪みの部分をクッション材として吸収する役目を、みほは担ってしまっているようだ。友だちについて「みほちゃんだけは」と言うまゆ子の甘言も、信用ならない。ほかにもっと、良い接し方をしている友人が存在するだろう。突然ブロックしたり何ごともなかったように戻ってくるのは、みほを対等に見ていない証拠である。
 さて、主人公・みほの話だ。まゆ子のように愛嬌を振りまくたちではなく、容貌に自信もあらず、はっきりとした主張ができなくて自己嫌悪をしてしまう。そんな彼女が、まゆ子を突き放すことまではできず、長年の鬱屈を込めて【ご出席】の返信をするラストは、プチ爽快感がある。まゆ子のような人物にちゃんと伝わる可能性は現実問題正直微妙だけども、一歩踏み出して感情を自分なりに表明することは、読み手の胸に響いてくれる。

【担当外作品 一口短評 周縁的な】
 西崎さんよりジャッジ各位へ「(枚数が)増えてもまったく構いません」とお達しがあったため、おまけまで……。

Aグループ
・中川マルカ 「あいはむ」
 海は女性、雪は男性。ゴマジはミヒカリとのまぐわいを希求するが、ミヒカリはさるさまとみずちさまの接合で、同じ姿の存在を増やしたがっている。男女の非対称によるすれ違いが描かれて、グロテスクを感じさせるがあくまでも美しい。

・両目洞窟人間 「YEAHHHHH!!!!!」
 イメージに直結するディティールの詰め方と、流れるような場面転換が技巧的。〝デデッ!!!〟と〝デェーデッ!!!〟だけでふたつの曲を象徴させられるというアイデアが発明。不思議なサークル活動つながりで、他作品「遅かれ早かれ」世界との結合を想像してにやにやするなどした。

・吉美駿一郎 「遅かれ早かれ」
 『品位さん』という呼称は香坂くんが勝手につけたのだと思うが、名は体を表すで秀逸。ガザ日記を巡る、幽霊にまつわる思索は切実で胸を衝かれた。他作品「畜魂機についてお話しします」「誰も愛さなかったから」の死後観や、「みっちゃん」の不思議さの読解にもプラスの影響を受けた。

・西川口圭 「記憶に値しない人々」
 いろいろな意味で対照的な個々人の生き方とそれぞれの諦観に、リアリティと現代性を感じた。音楽活動の意義と仕事の世知辛さに「YEAHHHHH!!!!!」を、少女時代の友達関係と孤独に「まゆ子なんか嫌い」をそれぞれ連想し、他作品を読解するディティールの助けになった。

・和泉眞弓 「棄子(きし)」
 故郷から放逐された者と、その先で迫害された先住民。差別と迫害の構造が描かれ、胸が苦しくなる。喚起される感情は怒りであり虚しさであり、それを美しく描くことは映画のようだ、と感じた。

・太代祐一 「砂を送る 川柳二十句」
 〝現実を駆け抜ける現実の馬〟に、ぐっと来た。現実でないものが日常になるほど、現実の鮮烈さ、美しさは日に日に増しているように思う。表題作にあたる〝送られた砂の季節の曼殊沙華〟は、彼岸花→夏→甲子園の土、というような連想をしたが時季がずれているようであり、自分が読み切れていない感が残る。

・文月悠光 「すべての庭のために」
 ホチキスと爪、猫ドーナツ、夢の奥の庭。どれも描写が魅力的。内なる世界を象徴する点で、他作品「深く暗い森のなか~~」との共通項を感じ、奇っ怪なユーモアと愛嬌の豊かな点で、面白味は本作がまさった。

Bグループ
・伊藤なむあひ 「畜魂機についてお話しします」
 霊的なものを保存するガジェット『畜魂機』にレトロな魅力がある。〝死を赦す〟ことがルルイの心に虚無を呼び、死へ導いたと読めるロジックが、悲しくも美しい。中盤のシャルルとルルイの誤記?で集中力がちょっと欠けてしまった。

・藤崎ほつま 「綴る躰」
 文体に賭ける偏執さが好き。メモ魔という記子の性質以上に、鈎括弧内の文章の書き手のこだわりがそら恐ろしい。病院送りになった記子が自分の体を左手の親指から足の裏まで点検する(おそらく鏡やスマホも使って)、というビジュアルの想像も楽しい。

・吉田棒一 「友達」
 怒涛の展開がとても楽しく、文章に過不足がない。危機感を覚えつつ山本の顔面(後頭部?)をおもちゃにする鹿島と服部のシーンがとても良かった。学生時代の部活の先輩が『ボリ』という由来不明のあだ名でいじめを受けていたため、なにか共通の隠語があるのかもしれない。

・由井 堰 「トランクルーム」
 〝靴の散乱〟〝あなたにならないものたち〟〝ころされた人の衣服〟などのフレーズに心を掴まれた。漢字のひらき方も秀逸。並びが前の「友達」のせいで、〝耳の部分をたべる〟ときにパァン! とビヨンセの擬音が聴こえてしまった。

・和生吉音 「ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─」
 私たちからすれば原人と呼ぶひとたちのエピソード、という着眼点が素敵。互いの間に差別(という言葉はまだなかっただろうが)や争いもあったとは考えるが、対等な交流があったことを想像するのは楽しいし、現代への希望にもなり得る。

・若山香帆 「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった」
 〝わたしの湖〟は、なぜ今わたしを追ってきたのだろうか。わたしを迎えにきたのかもしれないし、わたしの何か深層心理に応えて夫を沈めにきたのかもしれない。異界を感じさせる風景に、朝焼けが訪れるイメージが印象的。

・飯野文彦 「みっちゃん」
 記憶の交錯が、妖しくも楽しい。キュウリが、異なる存在を招く鍵になっているとでもいうのだろうか。記憶も信用できず、自分の存在も不確かで不穏に感じるが、<梟>に来店した少女と女性の様子を見るに、怖さだけでないようにも思う。

・酒匂晴比古 「わたしが七歳だったころ」
 物語の始まりを感じさせ、わくわくする作りになっている。魔法と自然と戦争の関わり、それに七という数字の意味合いも興味深い。ぜひ続きが読みたい部門では、本作が一位です。

【採点】
Aグループ
中川マルカ 「あいはむ」 4点
深澤うろこ 「あそこで鳩が燃えています」 3点
両目洞窟人間 「YEAHHHHH!!!!!」 4点
紙文 「いつまでも手をふる」 4点
吉美駿一郎 「遅かれ早かれ」 4点
井中昭一 「鍵穴の乙女」 2点
西川口圭 「記憶に値しない人々」 3点
和泉眞弓 「棄子(きし)」 4点
鯵野三志美 「十月の缶コーヒー」 4点
磯崎 愛  「診断されない病い」の話しをするためにここに来た。 5点+勝ち
太代祐一 「砂を送る 川柳二十句」 3点
文月悠光 「すべての庭のために」 4点
結城熊雄 「園部さんのこと」 4点

Bグループ
春泥 「誰も愛さなかったから」 5点+勝ち
伊藤なむあひ 「畜魂機についてお話しします」 3点
藤崎ほつま 「綴る躰」 3点
永瀬 辻 「天蓋に貼り付く」 2点
吉田棒一 「友達」 4点
由井 堰 「トランクルーム」 3点
和生吉音 「ひとりじゃないなら ─ Neanderthal girl meets CroMagnon boy ─」 3点
若山香帆 「深く暗い森のなかにあらわれては消える湖があった それはわたしの湖だった」 3点
大竹竜平 「不審な刃物」 3点
岸波 龍  「窓」 3点
岩月すみか 「まゆ子なんか嫌い」 4点
飯野文彦 「みっちゃん」 3点
酒匂晴比古 「わたしが七歳だったころ」 4点



文の著作権は各作者に帰します

いいなと思ったら応援しよう!