良妻賢母像と格闘した頃――つらら、出産、子育て、母を思う
「薫はしっかりしてるから」
上のきょうだいを見て育つ末っ子だから
要領がいいのか
母を早く亡くし家族で協力したからか
物心つくとそう家族に言われていました
負担に感じることは無いですが
手のかからない児童だったと思います
保育園代わりに教室にいさせてもらえたことも
関係あるかもしれません
農閑期の日曜日、庇のつらら
そんな小学1年生の終わり頃
1955年(昭和30年)1,2月のこと
朝食を済ませ友達と遊ぼうと
家を出て空を見上げるとつららが輝き
透明なつららから
ゆっくりと間をおいて水滴が落ちます
午前10時頃ですが
村を歩いたり庭で作業する大人の姿は見えません
風は凛として冷たく
振り返ると家にはコタツがあり
湯呑みから一筋湯気が立ち上っています
空は雲ひとつ無い晴天でした
故郷を思うと、この場面をなぜか思い出します
1970年代マンションの浴室で
50年前のことでも驚いたのですが
結婚して子どもをすぐ授からなかったので
子どもの作り方を知らないのではないかと
夫の親族から保健体育の教材のようなものが届き
頭を抱えたことがあります
そんな私も臨月を迎えお風呂場で破水を確認しました
病院に連絡し夫が幹線道路で捕まえてくれた
タクシーで20分の病院へ行きました
夜間用の出入り口から入ります
夫は淡いカーキ色のチノパンと白のポロシャツだったことは
記憶しているのですが
私の着ていたマタニティドレスの生地が薄く
肌に夏でもべたつかないといった質感は
覚えているのですが、色や模様は覚えていないのです
破水が22時頃
病院に22時40分前後に到着
看護師と助産師が待機していて下さり
陣痛は夜中から始まり
出産は夕方の17時頃でした
私の病院では立会出産は対応しておらず
夫は荷物を預けて帰宅しています
出産し1週間ほど入院するのですが
夜は眠れるように息子の世話を
して下さっていました
昼間は3時間おきの授乳をしますし
ゲップのさせ方なども教えて貰えます
ただ、自分の体に関しては教えて貰えませんでした
良妻賢母の呪い
義理の母に夫の好物のにしんそばの作り方や
家事の仕方を質問し
庭で立ち話をしていれば落ちている枝で
図解してくれる方でした
だから私が質問すれば、受け止めてくれたでしょう
父の姉である伯母もそうで
母がいないので、知恵をわけてくれたはずですが
20代の終わりには自覚出来なかったのですが
しっかりするというか
「(母のような)良妻賢母でなければ」という
強い思いがあり、相談することを
自分でとめてしまう面がありました
そんな中でも
第二子のヒカリを産む頃は
母が他界した世代になるので
幼い子を遺して亡くなった母の立場を痛感しますし
親の年を越える時は感慨がありました
いないよりはマシ
ちっとも良妻賢母でなくてお恥ずかしいのですが
3時間おきの授乳でひと月マンションから出ずに
お産で体もガクガクしておりまっすぐ歩けない
状態でしたから
寝ないで、ビスケット、牛乳、バナナ
それと夫の弁当のおかずなどを
自分用にとりわけて
つまみながら乳児のトラガラの世話をしました
おむつを替えて授乳してゲップさせて寝かせて
おむつを替えて授乳してゲップさせて寝かせて
おむつを替えて授乳してゲップさせて寝かせて……
慣れていないと1セット終わると3時間経っていました
夫は朝8時に出勤し18時に帰宅していました
1970年代半ばですから駅前商店街があり
そこで翌日の食べ物の買い出しだけはしてくれました
帰宅して荷物を受け取ります
彼はトラガラの寝ているベビーベッドへ行きます
5分も寝顔を見ると
スーツを部屋着にかえて食事まで
書斎にこもります
私は父を見て育っているので
なんて冷淡な人なのと呆れたのですが
夫は子どもが生まれたから仕事頑張ろうと
打ち込んだのでしょう
彼は就職して夜間大学を経て研究者になっており
回り道したから研究の時間が足りないと
いつも気にしていたので
応援せざるをえませんでした
子どもが可愛いと子育てを楽しむ余裕は無かったですが
トラガラにしろヒカリにしろ、笑うようになるのが
嬉しく張り合いだった気がいたします
車のハンドルの遊びといいますが
「しっかり」も度が過ぎるときゅうくつですね
神奈川の都市部ではつららは出来ないですが
あの日のつららの雫と同じリズムで水が落ちることはあるので
陽の光、空の色、水の音などは70年経っても
変わらずにそばにあり続け、時が音もなく過ぎて行きます
