哲学:生きる意味の推論

【人間は推論の答えを求めるものだ】

「生きる意味は」と問われてうまく答えられないのは推論できない問いだということが考えられないだろうか。
当然ながら「生きる」の意味を探してるのではなく「生きる意味」を問うているのだろう。

なぜか「どう生きるか」と問わずに推論しにくい問いを選ぶのは意図的なのだろうか。

「意味」が何を表しているかということなら「生きるとは何を表しているか」と言い換えることができるが、通常、そんな問い方をする人はいない。

ここに鉛筆という物がある。鉛筆の意味「何を表しているか)は何かと問うたことがあるだろうか。
鉛筆の使い方や何でできているか、ならあるだろう。


そもそも「生きる」の意味を真剣に問うているのではなく、本当は「生きていることが面白くない」と思っているだけではないだろうか。

さらに言えば「どうせ死ぬのに生きていても無駄だ」と漠然とした思いではないか。

「死がないとしたら生きる意味は何なのか」と問う方が健全だと思うのだがなぜか問わない。

私たちの心は何でもかんでも推論する。「生きる意味とは」というのは推論ではない。
そのもっともらしい質問に私たちは戸惑うのである。これは悪い質問である。

「私はこんな問題を抱えている。それについてどう考えたらいいだろうか」という問いが推論を働かす良い質問なのではないだろうか。

漠然と「生きる意味は?」と問われて「死の手前にあるものだ」とか「死とは反対のことだ」と答えても納得しないのは問うている意味が違うからだろう。

的外れな質問には的外れな答えとなることは珍しくない。

たとえば、
「自力で生きられない自分に生きる意味があるのか」
「他人の力なしで生きられない人を生かしていて、その人に生きる意味はあるのか」
と問い、考えるなら、推論はうまく働き、値打ちのある問いと答えになるかもしれない。

通常で問われる「生きる意味」には推論は働かず、答えようがないものだ。だから悩みのようになるのではないか。
間違った問いなのかもしれない。