見出し画像

しぐれうい個展の50万円「グッズ」が高すぎると怒ってる人に読んでほしい

しぐれうい先生の個展「Uitopia」における作品販売について、先日一つの考察を記した。価格の是非を巡る表層的な議論を避け、作品を純粋にアートとして扱う視点から綴ったつもりだった。しかしその後、ふとした疑問が頭をよぎった。私自身、美術館を訪れることは好きだが、基礎的な美術史の知識は極めて浅い。心の奥底では、アートとイラストレーターの作品を無意識に区別し、「萌え絵」と呼ばれる表現をアートとして認めることに、どこか既存の美術への侮辱めいた違和感を抱いていたのである。お恥ずかしながら、そうした極端な思い込みが、静かに浮かび上がってきた。

こうした疑念を放置するのも無粋に思われ、改めて調べてみることにした。芸術家とイラストレーターの違い、絵画とイラストの区分、そして「萌え絵はアートか」という問いについて、美術史的な観点から整理してみたい。無論、私のような素人が一朝一夕に解き明かせるものではないが、せめて自らの浅はかさを自覚する契機としたい。

まず、芸術家とイラストレーターの区別である。これは職業や作風ではなく、作品の「自律性」に依拠する。芸術家は、思想や表現そのものを目的とし、作品を独立した存在として提示する。一方、イラストレーターは、商業的な目的――広告、書籍、メディアへの付属物――のために画像を制作する職業を指す。換言すれば、前者は「作品のために存在する」ものであり、後者は「目的のために存在する」ものである。ただし、両者は排他的ではない。イラストレーターが自らの表現を追求し、展覧会で独立した作品として発表すれば芸術家たり得るし、逆もまた然りである。

実際、日本の美術界にはその好例が少なくない。横尾忠則氏は、1960年代にグラフィックデザイナー・イラストレーターとして頂点を極めた後、1981年に「画家宣言」を行い、絵画の道へと転身した。ニューヨーク近代美術館でのピカソ展に衝撃を受け、クライアントの要望に応える仕事から、自己の内的な衝動に忠実な創作へとシフトしたのである。以来、古今東西の美術史や神話、身体性をテーマにした力強い絵画を生み出し、今日では紛れもない芸術家として国内外で高く評価されている。

同様に、村上隆氏は日本画の博士号を取得しながら、現代のアニメ・マンガ文化と伝統美術の平面性を接続する「スーパーフラット」理論を提唱した。浮世絵や琳派の装飾性と、戦後日本のポップカルチャーを同一平面上に位置づけ、ハイアートとロウアートの境界を意図的に溶解させた。その活動は、商業的なキャラクター表現を基盤としつつ、美術館で独立したアート作品として提示される点で、イラストレーター的出自から芸術家への移行を体現していると言える。

こうした事例を踏まえれば、絵画とイラストの違いも、作品の文脈によって整理できる。絵画は鑑賞自体を目的とした自律的な造形物であり、イラストは特定の機能に奉仕する。作風やタッチ――油彩かデジタルか、アニメ調か写実的か――は本質的な基準ではない。

では「萌え絵」と称される表現はどうか。これも同じ論理で整理できる。キャラクターの可愛らしさや二次元的な平坦性といった表層的な特徴は、分類の決め手とはならない。重要なのは、その作品が商業的な付属物として機能しているか、それとも作家の内的な表現として独立しているか、という一点のみである。タッチが「萌え」系であろうと、伝統的な具象画であろうと、美術史的に見て本質は変わらない。

こうした誤解が生じやすい背景には、日本の美術教育の構造がある。美術大学とデザイン学科が明確に分かれ、作風によって「美術」と「商業美術」を峻別する風潮が根強い。私自身、どこかで「アニメ絵は低俗、伝統的な具象画は高尚」との無意識の物差しを当てはめていた節がある。恥ずかしい限りである。

しかし世界的な美術史の流れを俯瞰すれば、そうした二元論は既に過去のものとなっている。横尾氏や村上氏の歩みは、その象徴だ。日本国内の美術界だけを見ても、こうした認識が常識となりつつある。

こうした知見を踏まえ、しぐれうい先生の立ち位置を再考する。先生はイラストレーターとして卓越した活動を続けつつ、個展では作品を目的使用から解放し、独立した造形物として提示している。展示される限定複製画群――大型アクリル仕様、直筆サイン入り証明書付きで数量限定――は、単独の鑑賞に堪える仕様だ。すなわち、先生はイラストレーターであると同時に、紛れもない芸術家であり、作品は人物画――自画像的側面すら持つ――としてアート作品たり得る。

ここで前回の記事に対するお詫びと訂正を記したい。あの際、先生の作品を現代社会の芸術という思いで「現代アート」と表現したが、これは美術史的な文脈で誤解を招く恐れがあった。キュビスム以降の「現代アート」が概念や問いを重視するのに対し、先生の作風は精緻な写実性と想像力の融合に重きを置き、むしろデジタル時代における新たな写実的表現、あるいはポスト印象派的な延長線上にあると言える。インターネット上で生まれた表現が、現実の物理的オブジェクトとして結実する点は、現代的な試みとして興味深い。

長々と自らの無知を晒す形となったが、こうした振り返りは、私にとって有益な機会だった。しぐれうい先生の今後のアート活動が、さらなる表現の地平を拓くことを心より楽しみにしている。