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嫉妬の教科書 〜3つの型と、泥沼から抜け出すための処方箋〜

はじめに

私は今、猛烈に嫉妬している。

一年中、息を吐くように嫉妬をするタイプだが、それでも、今回のこの嫉妬は近年まれに見る強烈な嫉妬でとても辛い。

2024年に念願のエッセイ本を出版したが思うように売れていない。
1年が経ち、思ってたんとだいぶ違う状況に焦り、イベント、対談、動画、ポッドキャストなど思いつくものは手当たりしだい全部やった。それなのに上手くいかない。なんで……!

そんな泥臭くあがいている私の横を、ある知り合いのエッセイストが軽々と超え、大活躍している様子を目にしてしまったのだ。

ドクン……! と自分の大きな鼓動が聞こえ、頭が真っ白になり、みぞおちにドロリと何かが落ちた。
「まじか……」

『次世代を担う若き才能』と世界的に有名な雑誌で賞賛されている。
「重版しました!」「Amazonランキング○位!」
キラキラとした報告が、スマホの画面から次々と機関銃のように追加で撃ち込まれる。もう体中、ボッコボコ。

コメント欄に届きまくっている称賛の声。スマホをスクロールする親指が、自分の意志ではなく自傷行為を繰り返すマシーンのように動いている。止めて止めて!

「おめでとう」と言わなきゃいけない。大人なんだから。知り合いなんだから。応援しているはずなんだから。スマホを握りしめたまま、吐き気を催した。いいねを押せない。そっと画面を閉じる。見なかったことにする。 そんな器の小さい自分にまた落ち込み、叫び出したくなる。

くっそぅー、悔しい! 悔しい、悔しい、悔しいっ!!
この冊数ならきっとすぐ重版だろう、これでようやく私も作家だ! なんて調子に乗っていた自分が惨めで恥ずかしすぎる。

若いあの子に比べて私はもう40代。みんなが「斉藤ナミってそういえば居たなあ? 今どうしてるんだろう? プププ」と笑っている気がする。

泥臭くあがいてきたつもりのこれまでの努力だって、すべて無駄だったんだ。自分が臭くて古い薄汚れた汚物のように思える。私の文章なんてやっぱり面白くないよね……。
ごめんね、出版社さん。ご期待に添えなくて。

今では彼女のSNSで名前やアイコンを見かけるだけで、ズーンと気持ちが落ち込み、お腹が痛くなる。

嫉妬は、物理的に痛い。みぞおちのあたりがキリキリと痛く、ジンジンと熱い。視界が狭くなり、悪い妄想ばかりが膨らみ、「どうせ私なんて……」という真っ暗な深い穴へと吸い込まれていく。

人に認められたい、評価されたい、愛されたいと欲望まみれの私は、いつも誰かに嫉妬をしている。家族に恵まれ、健康な身体で、仕事も順調。もう十分足りているはずなのに、幸せなはずなのに、どうしてもっと欲しくなってしまうんだろう? どうしてこんなに人と比べてしまうんだろう? 

相手は相手、私は私。比べる必要なんてない。このままで満たされていると思えたなら、私の毎日はどんなに幸せなものになるだろう? いつも考えている。

なんとかこの醜い心を直そうと、嫉妬心が沸きおころうとする瞬間に全力で押さえ込もうとしてみても、その強くて激しい感情はどうしても心の隙間から形を歪ませて出てきてしまう。

でも、この苦しみを感じているのは私だけじゃないはずだ。 誰かと比べて自分が劣っているように感じて、焦って、妬んで、自己嫌悪に陥る。

嫉妬は醜い。恥ずかしい。消してしまいたい。誰もがそう思う。

この「嫉妬」という感情の正体を知らないまま、ただただ翻弄され、心をすり減らしている人はこの世に五万といるはずだ。

だから私は、このやり場のないドロドロとした感情を徹底的に解剖してみることにした。もう嫉妬に振り回されたくない……!

これは私が嫉妬にまみれた人生をかけて編み出した生存戦略の記録だ。

嫉妬をなくすことはできない。でも、正体を知り、飼い慣らし、あわよくば自分の燃料にすることならできる。この記事を読み終える頃には、あなたは自分の嫉妬心が少しだけ愛おしくなり、明日へのエネルギーに変わっている……かも。

さあ、始めよう。嫉妬という名の猛獣使いになるための、教科書を。


【第1章】 なぜ、私たちは嫉妬するのか?(メカニズムの解明)

嫉妬の正体 それは「資源」をめぐる生存競争

私はなぜこんなに他人が気になってしまうんだろうか?  自分より評価されている知人、美味しいものを食べている誰か、高級な家に住むあの人、自分より愛されている(ように見える)友人。若さ、美貌、地位、人気者。

これらの対象はバラバラに見えるけれど、実はその本質は一つ。 嫉妬とは、自分にとって価値のある「資源」を他人に独占されたり、奪われたりすることへの猛烈な防衛反応だ。

あの人が持っているものが羨ましい。本来なら私が持っているべきものじゃないの?
あの子は愛されていて羨ましい。私も愛されたい。褒められたい。あの子ばっかり、許せない。

私がこの醜い感情を捨てられないのは、性格が悪いからじゃない。(たぶん)
嫉妬は、人類が生き延びるために必要不可欠な「生存のアラート」だからだ。

数万年前、人類は小さな集団で暮らしていた。この時、生き延びるためにはより豊かな資源を蓄えることが自分や子どもたちの生命に直結した。より多くの肉や果実や木の実を獲得でき、より良い寝床を確保できる「能力の高い男」が、他の集団の女に独占されているとしたら、それは死活問題だ。

「あいつが資源を独占している」「このままでは自分や自分の子供が飢える、子孫を残せなくなる」

この危機を察知し、「あいつばっかズルい、自分ももっと手に入れなきゃ!」と焦り、相手を監視して、その優位性を崩そうと動く個体。そんな「嫉妬深い個体」だけが過酷な自然界で淘汰されずに生き残ってきた。

嫉妬とは、自分の生存領域(ナワバリ)が侵されたことをいち早く知らせる生存本能の警報だ。

警戒せよーーー!!

物理的な資源「肉や金」であっても、心理的な資源「愛や評価」であっても、どちらも生き残るために獲得しなければならない重要な「資源」だ。だからこそ、誰かがそれを手に入れているのを見ると、自分の生存が脅かされると思い込んでしまう。

現代でその警報は「社会からの評価」や「恋人の浮気相手」や「友人の新築マイホーム」に対して鳴り響く。脳はそれらをすべて「自分の生存権を脅かす敵」だと認識し、全力でジェラシーのアラートを鳴らすのだ。

今これだけ嫉妬しまくっている私は、狩猟時代ではめちゃくちゃ幸せに生きられたのかもしれない。生まれる時代を間違えた。

距離の法則

ただ、さすがの私も、手当たり次第、誰も彼も目につく人全員に嫉妬しまくっているわけではない。嫉妬は相手までの距離が重要だ。

イーロンマスクやレディガガ、大谷翔平選手に嫉妬する人はそんなに多くはいないだろう。私も同じエッセイストでも大先輩である向田邦子さんやさくらももこさんには嫉妬しない。なぜなら彼らはすごすぎるから。

雲の上の存在の人に対しては悔しさが入り込む隙間がない。圧倒的な差は嫉妬を通り越して「尊敬」や「エンタメ」に変わる。

つまり、嫉妬の火がつくのは自分の射程圏内にいる人間のみが対象ということだ。

この真理は紀元前の昔から何も変わってない。古代ギリシャの詩人ヘシオドスは『仕事と日』の一節で『陶工は陶工に嫉妬し、大工は大工に、乞食は乞食に、歌うたいは歌うたいに嫉妬する』と残している。

鍛冶屋が王様に嫉妬することはない。鍛冶屋が嫉妬するのはいつだって「隣の鍛冶屋」だ。なぜなら、同じ道具を持ち、同じような技術を持ち、同じ客を取り合っているからだ。
そして隣の鍛冶屋が自分より儲かったり評価されたりすると、途端にこちらが劣っている気がして、強烈なストレスを感じる。

私もつい先日それを感じた。Xのアルゴリズムが変わって、他のサイトで公開しているエッセイのリンクを貼るより、長い文章をそのままXに投稿する方がインプレッションが爆発的に伸びるようになった。それをきっかけに、たくさんのエッセイストがXに長文投稿をし始めた。

その中で、バコーン! とバズった人がいたのだ。素晴らしいエッセイで、瞬く間に2000万ビュー以上を叩き出し、フォロワーも一晩で1万人以上増えていた。あっという間に私のフォロワー数は抜き去られ、さらにどんどんと膨らんでいく。

数秒ごとにアカウントを更新し、増えていく数字を見続けていた私は、心臓から血が流れ、胃が削られていくような嫉妬の感情を味わった。なんで見続けるん? 私。アホなのか。
更新ボタンを押す私の指は、自分をいたぶるためのスイッチを連打しているようなものだ。

古代ギリシャの陶工も、隣の工房から聞こえるろくろの回転音を、こんなふうに自分の胃を削る音として聞いていたのだろうか。

私のものを奪われているわけでもないのに、あの人の数字が膨らむにつれて、私のエッセイの面白さも、いつも応援してくれている読者も、私の存在意義までもが、どんどん削られて奪われていくような気持ちになる。

ぐふうううぅっっ!! これ以上、これ以上もっていかないで……!!!

現代の社会学では、この現象を「相対的剥奪そうたいてきはくだつ」という言葉で説明している。
他者と比較して、「あちら側にあって、こちら側にない」という格差を突きつけられた時、自分は何かを失ったわけでもないのに、損をしたように感じてしまう脳の仕組み。それが、この苦しみの正体だ。

同じマンションに住むママ友が、自分より裕福な暮らしをしている。同期のあの子、SNSで見かける同世代のライバルが、自分より大活躍している。自分のパートナーが、自分以外の誰かに好意を向けている。
同業者、同期、同級生。自分に距離が近いほど、比較の解像度が上がり、猛烈に不幸を感じ、痛みも羨ましさも増す。

古代ギリシャ人と一緒なんだ! 人類はまったく成長していない。
(ほな、しょうがないかあ……ともちょっと思える。)

「自分だって、そこにいたはず」 「あの人にできるなら、自分にだってできるはず」

そう思える距離感こそが嫉妬のガソリンになる。本能が「あいつから奪え。負けるな」と警報を鳴らすのは、私の脳が「自分もあの資源を手に入れる資格と可能性がある」と判断しているからだ。

つまり、嫉妬している時点で『手が届く』と脳が判断しているのだ。

私が嫉妬で苦しいのは、まだ何も諦めていない何よりの証拠だ。頑張れ、私! 
私たちは、自分と「地続き」の相手にだけ牙を剥く。

上方嫉妬と下方嫉妬

そして、その牙の向きには2種類ある。

この違いについては、以前『嫉妬論ー民主社会に渦巻く情念を解剖する』(光文社新書)の著者である政治学者の山本圭先生と対談した際に、非常にクリアな定義をいただいた。

山本先生は、嫉妬を「上方嫉妬」と「下方嫉妬」の2つに分類している。
まずは上方嫉妬。これは、自分より上だと感じる、優れたもの、富めるものなどへ向ける眼差しだ。

問題なのはもう一つ、下方嫉妬だ。自分より劣位にある人、若手や駆け出しに向ける嫉妬心だ。
アリストテレスもこれを「自分が苦労して得たものを他人が簡単に手に入れる時に芽生える感情」と言っている。

対談の中で山本先生は
「厄介で、社会において邪悪とされるのは『下方嫉妬』の方です。」
「僕らは氷河期世代の出口あたりで、若い人たちが売り手市場でひょいっといい就職をすると『えー』と思ってしまう。この『下方嫉妬』はかなりめんどくさい感情です」
とおっしゃっていた。

うん。もう思い当たる節しかない。

以前こんなことがあった。
市役所勤めを辞めて、夢だった本屋さんを始めた人が「念願だった自費出版をしてみました」と小さな本を作ったのだ。
読んでみるとなかなか面白く、最初は「めっちゃ面白かった!」「大応援します!」なんてSNSで盛大に応援をした。

「どうだ? 私ってば、こんなふうに面白い人を発掘しちゃう才能もありますよ。すごいだろう?」と周りに評価されたい気持ち、それから、本人にも「斉藤ナミさんはいい人だ」と思われたい気持ちもあった。

この時、私はどこかで「自分よりは下だ」と安心していたのだ。最低だ。
「文章の世界はそんなに甘くないけど、頑張ってね」と、安全な高みから手を振る先輩というポジションで見下ろしていた。

ところが、その投稿が想定外に拡散され、めちゃくちゃバズってしまった。ソレをきっかけにかどうかはわからないが、複数のメディアから取材を受けるようになり、果ては商業出版の声までかかったようだ。私の余裕は一気に吹き飛び、ドス黒い感情が生まれる。

「いやいやいや、待て待て。調子に乗るなって。もうこれ以上、拡がらないで」
焦って応援の投稿を削除した。器が小さすぎる。しかも、もう遅すぎる。さらには、しばらく「この投稿は削除しました」と出ているので、「うわ、こいつ嫉妬して消してる、プププ」と100倍ダサいさらし首状態だ。消すんじゃなかった……!

私がこれまでどれだけ努力したと思ってんだ。そんな簡単にうまくいかれてたまるか。頼むから、みんなもう見ないで! 買わないで。売れないで。私より有名にならないで!

面白い本だと思っていたのに、心から応援したいと思っていたのに、そんな思いは吹き飛んでしまったのだ。本当に情けなく、みっともない。

「私の優位を奪わないで」「追い抜かないで」「地位をおびやかさないで」。
自分の優位性が脅かされた時、その恐怖は防衛本能という名のハンマーに変わり、容赦なく「出る杭」を打ちにかかる。

私が感じたあの醜い感情の正体は、紛れもなく「下方嫉妬」だった。この下方嫉妬の正体は既得権益の死守だ。自分が苦労して耕した畑から、後から来た人が楽をして果実をもぎ取っていく(ように見える)。それが許せない。

山本先生のおっしゃるように、下方嫉妬はあまりにも「邪悪」で、救いようがなくダサい。

日本人は同調圧力が強い。真面目で協調性があり、空気を読む力に長けてはいるけれど、それは裏を返せば周りを出し抜こうとするものを許さないということでもある。「あいつだけいい思いしやがって」と村八分にされる、独特のジメジメ感がある。

また、人間は自分が損をしてでも相手の利益を減らそうとする「スパイト(いじわる)行動」と呼ばれる、めちゃくちゃ生産性のない行為をすることもある。

我が家の子どもたちも、しょっちゅうやっている。
「次男に勝たせるくらいならここで自滅してやる!(ゲームの話)」
「次男が買ってもらうなら俺もこれ買って」
「は? 長男が得するなら俺それ要らん、我慢する」
なんていじわるなんだ。誰に似たんだ? 私だ。

自分の利益(すごい人、良い人だと思われることや、インプレッションによる数万円の収益)を捨ててでも、相手の得(バズること)を阻止したい。

逆に、ライバルだと思っている誰かが、渾身の企画で大スベリしていたり、炎上していたりすると、私の脳内にはドーパミンが放出される。いわゆる「他人の不幸は蜜の味」。
「あらあら。大変だ」とか言いつつ心の奥底ではニヤニヤしている。本当に最低だ。(2回目)

相手が転落することで、脅かされていた自分の安全が確保されたと脳が錯覚し、歪んだ安堵感を覚えるのだ。

最低ニヤニヤ……

下方嫉妬が醜いのは、自分の安心のために「相手の不幸」を望む行為だからだ。
保身のために若手の足を引っ張るなんて、カッコ悪すぎる。

追い抜かれ、みんなに忘れられるのが怖い。でも、その恐怖に負けて、隠し持ったハンマーを振り下ろすことだけはしたくない。あまりにも情けなすぎる。

……いや、情けないのは下方嫉妬に限らない。嫉妬なんて、上を向こうが下を向こうが、いつだって情けなくて、惨めで、どうしようもなくカッコ悪い。

同業者の活躍を見て、お祝いの言葉より先に「なんで私じゃないの」と唇を噛む夜。好きな人の視線が自分以外の誰かに向いている気がして不安になりスマホを覗き見たくなる衝動。自分より良い家に住み、賢い子どもを持つママ友の家の前を通るたび、胸の奥がチクリとする瞬間。

どんな嫉妬も、胸が張り裂けそうに熱くて、痛くて、不安で、自分が惨めでちっぽけな存在に思えて悲しくなる。私はこれまで、ありとあらゆる種類の嫉妬に焼かれ、そのたびに「自分はなんて性格が悪いんだ」と自己嫌悪に陥ってきた。

けれど。そうやっていろんな嫉妬に取り憑かれ、のたうち回り、泥沼の中で「なんでこんなに苦しいんだ」と自問自答を繰り返しているうちに、ある一つの事実に気づいた。

「あれ? この苦しみ、前のやつと『味』が違う?」

全部まとめて「嫉妬」というラベルを貼っていたけれど、その中身をよくよく観察してみると、明確に成分の違うものが混ざっている。痛みの種類が違うのだ。

風邪だと思っていたら、実は骨折だったり、食あたりだったりするように。 病名が違えば、処方箋も違うはずだ。

私が泥沼の中で見つけ出した、3つの異なる「嫉妬の型」。

次章では、その解剖結果をお見せしよう。ドロドロドロ……。

【第2章】 嫉妬の3つの型 〜その痛みには名前がある〜

私が長年、七転八倒しながら集めた嫉妬のデータを並べ、顕微鏡で覗き込んでみたところ、驚くべき事実が判明した。ひとくくりに「嫉妬」と呼んでいたあのドロドロとした感情は、実はまったく性質の異なる「3つの物質」が混ざり合ってできていたのだ。

私はこれを、以下の3つに分類した。モヤモヤした感情に「名前」をつけるだけで、人間は冷静になれる。

1. 不可侵領域型ふかしんりょういきがた(運命への絶望)
2. ゼロサムゲーム型(椅子の奪い合い)
3. 自己理想型(なりたい私への渇望)

私がこれまで嫉妬に苦しみ続けてきたのは、この3つをごちゃ混ぜにし、すべてに同じ対処法(とにかく我慢するとか、見ないフリをするとか)を取ろうとしていたからだ。

相手によって戦い方は変えなければならない。ここからは、それぞれの嫉妬の「症状」と、私が実践して効果のあった「処方箋」を公開していく。どれも私が血反吐を吐きながら人体実験してきた結果だ。とくとご覧あれ。

あなたのその胸の痛みは、どのタイプ? (風邪薬のCMみたい)

1. 不可侵領域型 「運命への絶望」

まず一つ目は、最も重たく、冷たく、そして虚しい嫉妬だ。名付けて不可侵領域型ふかしんりょういきがた」嫉妬。
これは、努力ではどうにもならない「生まれ持ったもの」に対する嫉妬である。

例えば、わかりやすいのが「親ガチャ」や「容姿」だ。

親ガチャ

「親ガチャ」とは、人生がどのような親のもとに生まれるかによって決まるという考え方を、何が出るかわからないカプセルトイの「ガチャガチャ」になぞらえたものだ。
裕福な家庭に生まれ、良い教育を受けられることは人生において有利だ。一方、貧しい家庭や問題を抱えた親のもとに生まれた場合、大きなハンデとなる。

私はかつて、父のギャンブル依存症のせいで極貧生活を送っていた。高校生の頃にはとうとうその父も行方不明になり、学校も中退せざるを得なかった。大人になり貧乏を脱した今でも、脊髄まで貧乏性が染み付いていて、お金を使うたびに罪悪感が襲ってくる。

夏は暑くても本当に我慢できなくなるまでは罪悪感でエアコンをつけられないし、家族でたまの外食をするのも、また貧乏になってしまうんじゃないかと怖い。

夫がトイレットペーパーを使うたび、一度に「ガラガラガラーっ!」とたくさん使いまくっているであろう音が気になってしょうがないし(食べてんのか? といつも思う)、1袋19円のもやしと27円のもやしを、かなりの時間をかけてどっちがいいか吟味してしまうし、ユニクロのヒートテックは生地の向こう側が見えるくらい透けても「いや。ギリもう1回着られる……!」と捨てられない。

そんな私の横で、裕福な家庭に生まれ育ち、親からの援助で何の苦労もなく学校へ通い、いい会社へ入り、いい結婚をし、子どもに高額な習い事をさせている友人を見ると、胸の奥が冷たくなる。
別に贅沢な暮らしがしたいわけじゃない。罪悪感なく普通にお金を使える感覚が欲しかった。それが子どもたちに影響するかと思うと悲しい。スタートラインが違いすぎる。不公平だ。

高学歴への嫉妬も、私の場合、半分は不可侵領域型と言ってもいいかもしれない。学歴なんて人間の中身に関係ないと頭ではわかっていても、高学歴の人がふと見せる余裕や、社会からの「信頼」のようなものを目の当たりにすると卑屈な自分が顔を出す。

美人が羨ましい

美人は得をする。ルッキズムだのなんだのと、見た目の話をすることが多少は憚られる時代にはなったけれど、どう考えても美人は「得」だ。誰もが気づいている、この世の身も蓋もない真実。
天性の美貌という最強の初期装備を持つ彼女たちもまた、当然のように私の嫉妬の対象のど真ん中にいる。

彼女たちは存在しているだけで優遇され、愛され、イージーモードで人生をクリアしていく(ように見える)。

OL時代の話。営業の美人の先輩がミスをして「ごめんなさい、うっかりしてました」とテヘッと笑うと、50代の男性の支店長がいつも「しょうがないなぁ、ドジっ子だなあ」といい、なぜか場が和んでいた。

どどど、ドジっ子だとぉ!? この時代にまさかそんな昭和の懐かし再現VTRでしかお目にかかれないような死語を聞かされるとは。
美人を前に理性が崩壊したおじさんの狂態も相まって、現場はもはや不祥事の謝罪ではなく、一種の祭のような空気に包まれていた。職場の空気を良くしてくれてありがとう、的な空気が社員たちの間にも漂っていた。      

美人の「テヘッ」

一方、私が同じミスをして「申し訳ありませんでした」と謝れば、「たるんでるんじゃないか?」と冷ややかな視線が飛んでくる。どういうことや。
同じミス、同じ謝罪なのに、美人の謝罪は「愛嬌」になり、私の謝罪はただの「失態」になる。この差は一体なんなのか。

経済学者のダニエル・S. ハマーメッシュ氏は、著書『美貌格差ー生まれつき不平等の経済学』(東洋経済新報社)にて、容姿が美しいと人生で実際にどのくらいお得なのかを述べている。

見た目だけで生涯年収になんと2700万円の差が出るとのこと。ナンテコッタ

美貌がどんな風に収入に影響するのか、人付き合いや結婚、生まれてくる子どもにどう影響するのか、職業ごとの容姿による影響の違い、年齢や性別、人種ごとによる違いなど、あらゆる面から20年以上研究し、結論として「容姿の美しい人はそうでない人に比べて非常に得をしている」という結果を導き出しているのだ。

なんとなく「そりゃそうだろうなあ」とは思うが、実際に算出されるとその金額にぶっ飛ぶ。
2700万円。これが、私たちが生まれ落ちた瞬間に決定されている「初期装備」の差額なのだとしたら、嫉妬しない方が無理というものだろう。ずるすぎるっ!

もちろん、容姿は努力で変えられる部分もある。私自身、必死でヘアメイクやファッションを研究し、トレーニングをし、時には美容医療の力も借りて、見た目を磨いてきた。努力すれば周りの扱いは確実に変わる。それは実体験として知っている。
いや。むしろ、美しさが自分に自信を与えることや、人の見る目や態度が変わることを実際に体験したからこそ、なおさら周りの美人が羨ましく思えるのかもしれない。(あと、巨乳も羨ましい)

「もしも、もっと恵まれた家に生まれていたら」 「もっと頭が良かったら」 「もっと美人(巨乳)だったら」

この嫉妬の特徴は、相手への攻撃性よりも運命への絶望感が強いことだ。スタートラインが違う理不尽さ。
「あの子から奪ってやりたい」というよりも、「どうして私は私なんだろう」という神への呪いに近い。

いくら必死でレベル上げして装備を揃えても、最強装備でニューゲームしてるあいつらには到底叶わない。「ズルい」。その一言に尽きる。その理不尽さ(不可侵領域)には、どうしたって嫉妬してしまう。


「母親である」という愛の重し

このタイプの嫉妬で、私が静かに抱えているドス黒い感情がある。 それは「自由に動ける人」への嫉妬だ。

「飲んでるから来ない?」 「◯月◯日、トークイベントを開催します!」
急な誘いや東京でのイベントに「行きます!」と即答できる人が羨ましい。 彼らの判断は、カレンダーの空きを確認する数秒の作業だろう。

私は中学生と小学生の息子を持つ母親で、そう簡単に身動きが取れない。山ほど家を空ける準備をして、どれだけ完璧に段取りをつけても、出かけてる間中、心はドロリと重たい。
「母親なのに家を空けるの?」
家族を置いて外の世界へ繋がろうとすることへの罪悪感が、澱のようにずっとへばりついている。

数年前のあの日を、今でも鮮明に覚えている。

調整に調整を重ね、仕事で東京の出版社を訪れていた日曜日。渋谷の高層ビルで編集者と打ち合わせをしていた最中、夫からLINEが入った。

「長男が急に発熱。インフルエンザかも」

頭が真っ白になった。長男は明日からの修学旅行をあんなに楽しみにしていたのに。私のせいだ。母親のくせに自分だけ勝手なことをしているから、罰が当たったんだ。
「もう薬飲んで寝てるから、気にせず仕事を頑張って」という夫の優しさが、かえって私の内臓をぎゅううっと潰した。

その後の予定をキャンセルして新幹線に飛び乗ったが、愛知に着いたのは2時間後。高熱で寝ている長男を見て、ただ自分の無力さに打ちひしがれるしかなかった。

私が出かけなくても感染していたはず、と頭では理解しているけれど、それでもなお、母親なのに家を空けて東京へ出かけたことへの罰のように思えて仕方なく、ずっと大きな重石になっている。

「子どもがいなければ、もっと遠くまでいけるのに」
口が裂けても言ってはいけないタブーが脳裏をよぎる。

母親になったことを後悔しているわけではない。彼らは、自分以外の誰かを愛するという体験をさせてくれて、やっと私を少しはまともな人間にしてくれた。子どもたちと会えなかった人生なんて考えられない。
だが、子どもたちを愛しているからこそ、その物理的な重みが呪わしい。

同じ才能、同じ努力なら、身軽で自分の時間をすべて自由に使えるあんたの方が絶対に勝つじゃん! そうやって自由に動ける人を妬み、そんなふうに思ってしまう自分を自己嫌悪する夜を何度も繰り返してきた。

「お母さん」であることを脱ぎ捨てて生きることは、もはや私にはできない。この事実は変えられない。

これこそが、努力や気合いではどうにもならない「不可侵領域」の正体だ。 私がどんなに睡眠時間を削っても、最強のライフハックを駆使しても、身軽な彼らと同じ条件にはなれない。

それは私の能力不足のせいではない。私が背負うこと選んだ「環境」という、絶対的な前提条件への絶望なのだ。スタートラインが違う。ルールが違う。その構造的な不平等に対して、私は地団駄を踏んでいる。

出かけている間中、子どもらを心配し、何かあればうろたえる。そのどうしようもなさも含めて、今の私なのだ。

私は、なんて強欲なんだろう。子どもたちの柔らかい頬を撫でる幸せも、作家として評価される高揚感も、その両方が欲しい。

【処方箋】 降参する

では、この「どうにもならないこと」への嫉妬に、どう対処すればいいのか。私がたどり着いた答えは一つ。降参だ。しょうもないけど、まあ聞いてほしい。

戦いようがない。なぜなら、これは「事実」だからだ。親も、過去も、容姿も、子供がいる事実も、変えられない。変えられないものと戦い続けるのは、重力に逆らって空を飛ぼうとするようなもの。疲弊し、落ちて、怪我をするだけだ。

だからこの嫉妬には白旗を上げるしかない。
「はい、降参降参。私は美人じゃないし、生まれが裕福じゃないし、中卒だし、子供がいて行動力には制限がある。でも羨ましい!」
声に出して言ってみる。不思議なことに、「負け」を認めると楽になる。

配られたカードは変えられない。ポーカーで言えば、私の手札に「ロイヤルストレートフラッシュ」は入っていなかった。でも、手札が悪いからといってゲームに参加できないわけじゃない。

ブタ(役なし)ならブタなりの、ツーペアならツーペアなりの戦い方がある。「あの子のカード、いいなあ」と横目で見ていても、私の手札は変わらない。
嫉妬における「降参」とは、諦めることではない。

「私の手札はこれだ」と直視し、そのカードでどう戦うかを考え始めるための儀式なのだ。

「私はこの手持ちのカードで、あいつらに勝つ」
愛する重り(家族、過去、変えられないもの、)を引きずったまま、それすらも推進力に変えて、ずっと高く、遠くへ行ってやる。

そう腹を括った瞬間、運命への呪いは、執念という名のエネルギーに変わる。
シャー!!(猫の威嚇)

2. ゼロサムゲーム型 「椅子の奪い合い」

二つ目は最も原始的で、最も攻撃性が高い嫉妬だ。名付けて「ゼロサムゲーム型」嫉妬。
これは「誰かが勝てば、私は負ける」という、有限なパイの奪い合いから生まれる嫉妬の感情だ。

数万年前の狩猟時代。食料も、安全な寝床も、強いパートナーも、限られた資源だ。隣の男がマンモスの肉を独占すれば、自分は餓死するかもしれない。隣の女が群れのリーダーの愛を得れば、自分の子供は守ってもらえなくなるかもしれない。

限りある資源を他人に獲得されることが、直結して自分の死を意味するからこそ、この嫉妬の感情は凄まじいのだ。


親の愛の奪い合い

人生最初のライバルは「弟」だった。

私が人生で初めて嫉妬を覚えたのは、いつだっただろう? と記憶をたどると、それは物心ついた頃、弟が生まれた瞬間に遡る。

それまで私は、家庭という王国のプリンセスだった。母の愛も、父の関心も、お菓子も、おもちゃも、すべては私だけのものだった。しかし、弟が現れた瞬間、その平和は崩れ去った。

地黒で活発で男の子みたいだった私とは反対に、白くて柔らかくて薔薇色のほっぺを持つかわいい容姿の弟。

母は弟にかかりきりになった。「お姉ちゃんでしょ」という呪いの言葉とともに、私の取り分だったはずの「母の愛」が目の前で弟に奪われていく。子供にとって親の庇護は生存そのものだ。愛を失うことは死を意味する。だから私は必死で抵抗した。

ある日、ギャーギャーと泣く弟の顔を見て無性に腹が立ち、気づけば私は弟の泣き顔を枕でぎゅうううっと塞いでいた。
「こいつさえいなければお母さんを独り占めできるのに」
無意識の本能がそう叫んでいたのだ。

あるいは、赤ちゃん返り。
「ギャー」と泣けば母が飛んでくる弟を見て、私は学習する。「なるほど、無力さをアピールすればリソース(愛)を獲得できるのか」と。
私も一緒になって「ギャー」と泣いて叫んで幼児退行してみせる。鬼のように放置されてすぐ辞めたが、あれもまた限られたパイを奪い返すための、必死の生存戦略だった。

私は大人になっても、職場、家庭、学校、コミュニティ、恋人との関係、いろんな場所で、この「弟」の幻影を追いかけているのかもしれない。
会社の後輩、恋人の知人、有能なクリエイター、目立つ友人。
彼らが現れるたびに、あの頃のように「私の場所が奪われる!」という緊急アラートが鳴り響き、嫉妬の感情に狂うのだ。


浮気相手を本気で「消そう」とした夜

あれは、長男が3歳、次男がお腹にいるときだった。夫に浮気疑惑が持ち上がった。相手は夫の会社の後輩だった。

その時、最初に私の脳裏をよぎったのは悲しみではない。純度100%の「殺意」。
冗談ではなく、相手の女をこの世から社会的に抹殺する方法を本気で考えた。

なぜそこまで狂ったのか。それは「愛」なんて言葉では説明がつかない。もっと動物的な「生存本能」だ。夫という「資源(生活の糧、安心、子供の父)」を、どこの馬の骨とも知らん女にかっさらわれるわけにはいかない。 あれは、私の生存領域を侵犯されたことへの緊急警報アラートだったのだ。

「私の座っている椅子に、誰かが座ろうとしている」
そう感じた瞬間、人は鬼になる。もしあの時、息子たちがいなければ、私は今頃ここにはいなかったかもしれない。息子たちの存在が、ギリギリのところで私を人間界に引き止めてくれた。


男の嫉妬は「ポスト」をめぐる戦争

この「椅子の奪い合い」は、男女関係だけではない。むしろ、社会的な場所、特に男社会でこそ激化する。私は会社員時代、ある男性の先輩から執拗な嫌がらせを受けたことがある。

私が成果を出し上司に褒められ、もしや次期主任候補か? と噂がたつと、彼は露骨に不機嫌になり、陰で「部長とデキてる」と言いふらした。デキてるわけないだろ。
ていうかこんなドラマみたいなベタな流れあるのか、と思った。

結局、私が主任になることはなかったため、いざこざも有耶無耶になったが、彼にとって会社は「限られた役職(ポスト)」を奪い合う椅子取りゲームの会場なのだろう。後輩の女ごときに自分の椅子を脅かされる恐怖。それが、あの粘着質な嫉妬の正体だったのかもしれない。

歴史を振り返っても、戦争や政変の裏にはいつだって男たちの権力を巡る嫉妬が渦巻いている。世界の歴史は、男たちの嫉妬で動いてきたと言っても過言ではないのではないだろうか?


恋も仕事も物欲も。人が欲しがるから、欲しくなる。「欲望の三角形」

ゼロサムゲーム型嫉妬に限った理論ではないが、ここでフランスの哲学者ルネ・ジラールが提唱した「欲望の三角形」という理論を紹介したい。(先述した山本先生の『嫉妬論』でも触れられている)

人間は、自発的に何かを欲するのではない。他者が欲しているものを模倣して、欲するようになるという理論だ。

私はかつて、この三角形理論にまんまとハマり、見事に自爆したことがある。
ある時私は、SNSで巨乳の女子大生「リョウコ」という架空の女性を作り上げ、自分の恋人にDMを送ったのだ。

りょうこイメージ

当時、私の彼氏「Eくん」の周りには「マキ」という女性の影がちらついていた。
「元カノで、今はただのツレ」らしいマキ。

夜に電話するとマキの働いている居酒屋にいつもいるし、2人で撮ったプリクラも出てきた。モヤモヤしながら過ごしていると、なんだか他にも女性の影が見え隠れしているような気がしてきた。
そういえばあの時も、あの時も、見知らぬ女の子が居た気がする。怪しい。
……まさか、マキ以外にもいる?

「生まれ変わっても一緒にいたい。ナミさえいれば他に何もいらない」
って言ってたくせにぃー! ギリギリギリ……!

他の女性に取られるかもしれないと思うと、俄然、彼が魅力的に見えてきてすっかり夢中になってしまった。

不安になった私は、彼が「私以外からの誘い」を断るかどうか、どうしても確かめたくて仕方がなくなった。
そこで生まれたのが、私と正反対のスペックを持つ仮想女子大生「リョウコ」だ。

「はじめまして。リョウコといいます。Eくん、めっちゃタイプで……」
泣きながら自作自演のお誘いメッセージを送った。
リョウコを無視してほしい、彼の愛を信じたいという願いと、まんまと引っかかったところを見て「ほらね!」と本性を暴きたい、もう楽になりたいという両方の想いを抱え、ぐちゃぐちゃな気持ちで画面を見つめた。
すると……

「メッセージ嬉しい! いいよ。とりあえず飲みに行く? 今夜とかどう? 急すぎるか!(テヘ、みたいな顔文字)」

すぐキターーーーーーー!!!!

私には何時間も返事をしないくせに、巨乳のリョウコには即レスだった。テヘ、みたいな顔文字が死ぬほどムカついた。その絵文字と、鼻の下を伸ばして浮かれている彼の顔が重なってカッとなり、握りしめていたスマホをベッドに力いっぱい叩きつけた。ボフンッ!!

ほらね。やっぱり!!
壮絶な怒りの後、頭から血がサーっと引いていく感覚がして、悲しさと虚しさが胸いっぱいに広がった。ああ、もう最悪じゃん……。
リョウコもナミ(私)もすぐに彼をブロック。その恋は終わった。

自分が生み出した架空のキャラクターに彼氏を寝取られる(未遂)。この、誰にも救いのない自作自演の悲劇を、私は深夜の布団の中でたった一人で完結させたのだ。

エッセイストとしての文章力をよりによって自分の精神をズタズタにするために活用してしまった自分を今すぐ往復ビンタしてやりたい。これほど「誰が得するんだ」というわけのわからん執念もそうそうないだろう。

もしかしたらあの日、元カノとのプリクラを見つけなければ、私は彼を取られたくないなんて思わなかったかもしれない。先に嫉妬が生まれたからこそ、彼を好きだと感じたのかもしれない。

この「恋しい、欲しい、離したくない」という想いは、嫉妬なのか、執着なのか、独占欲なのか、愛なのか? 

マキが彼を狙っている。マキという第三者が欲しがる彼には、価値がある。絶対に渡したくない。その焦りが、私を狂わせた。

ルネ・ジラールの「欲望の三角形」論は、なるほど人々の欲望の仕組みをよく表していると思う。

ブランド品が欲しくなるのも、SNSでバズっている店に行きたくなるのにも、この作用が働いていることがあるだろう。
「みんなが欲しがっているから、欲しい」。
私たちは自分の欲望さえも、誰かの真似(模倣)をしているに過ぎないのかもしれない。


嫉妬・独占欲・依存・愛の「成分分析表」

結局、自分が恋人を嫉妬や執着を除いた純粋な愛情で想っているのかどうかは、いつもよくわからない。
ルネ・ジラールの言う通り、「欲望は第三者の眼差しなしには完結しない」、純粋な愛や欲望なんて存在しないんじゃないだろうか?

私の脳内では常にいろんな感情がごちゃ混ぜになっている。嫉妬、独占欲、所有欲、依存、執着。そして、愛。
これらは切っても切り離せない関係にあり、ドロドロに溶け合って巨大な一つの塊になっている。

「どこまでが愛で、どこからが執着なのか?」 「どれが最初に生まれるのか?」  

執着……!

私の恋愛のすべての土台にあるのは「依存」なのかもしれない。
「誰かに必要とされなければ、私には価値がない」「誰かが評価してくれなければ、自信が持てない」
この強烈な自己欠損感が、すべての始まりなんじゃないだろうか。

自分に自信がないから、土台がグラグラだから、自分の価値を確認するために相手を自分のそばに縛り付けて固定したくなる。これが私の「独占欲(所有欲)」だ。
人間を「モノ」のように扱い、「私の所有物だから、勝手にどこかに行くな」と檻に閉じ込める。

その檻に誰かが近づいたり、所有物がどこかへ逃げ出したりしそうな時に、けたたましく鳴り響く警報アラート。それが「嫉妬」だ。

つまり、順番としてはこうだ。

依存(私の価値を保証して!)
独占欲(私だけのものでいて!)
嫉妬(誰にも渡さない、奪う奴は敵だ!)

私はこのドス黒い三層構造のケーキに綺麗なホイップクリームを塗りたくり、イチゴを乗せて、こう呼んでいるんじゃないだろうか? 「愛」と。

「嫉妬するのは、愛しているから」「束縛するのは、好きだから」
その正体のほとんどは相手を愛しているからではなく、相手を失うと空っぽになってしまいそうな自分を必死で守ろうとする「生存本能」なのではないだろうか。

私は彼を愛しているのではなく「彼に愛されている自分(=価値のある自分)」を守ることに必死なだけなのかもしれない。
となると、これは相手との戦いではない。自分の「孤独」や「無価値感」との戦いなのだ。

話が逸れて申し訳ない。
いつかは私も、誰にも必要とされなくても存在価値があると、自分で認められるようになるんだろうか。

その時が来たら、本当の意味で、誰かを愛することができるようになるんだろうか。

【処方箋】  「そのパイは本当に有限か?」と疑う

この「ゼロサムゲーム型」の嫉妬に焼かれている時、私たちは視野が極端に狭くなっている。
「愛も、役職も、評価も、人気も、すべて数に限りがある」と思い込んでいるのだ。

誰かが幸せになると、自分の分の幸せが減ったような気がして焦る。あの子が愛されたら、褒められたら、私は愛されない気がする。あの人が仕事で評価されたら、私の居場所がなくなる気がする。

でも、冷静になって考えてみてほしい。そのパイは、本当に有限なのだろうか?

あの子が幸せになったからといって、私の幸せが減るわけではない。友人の子どもが優秀だからといって、私の子どもの価値が下がるわけではない。同業者の本が売れたからって、私の本の価値や面白さが損なわれて売れなくなるわけではない。

処方箋は「認知の修正」だ。嫉妬の炎が燃え上がった瞬間、呪文のように唱えるのだ。
「他人の成功は、私の失敗ではない」「あの子が光っていても、私の光が消えるわけではない」

世界は広い。椅子は一つじゃない。もしここの椅子が埋まっていても、自分で新しい椅子を作ればいいし、別のテーブルに行ってもいい。
「奪い合い」という狭いリングから降りた時、初めて私たちは、他人の幸せを(少しだけ)許せるようになる。……と、いいな。

ただ、そんなことは頭ではわかっているけれど、理性が追いつかないことも事実だ。
一番凄まじい嫉妬心が湧き起こるのがこの種類の嫉妬だ。

感情はいつも理性を簡単に超えて突っ走る。ああ、苦しい。

3. 自己理想型 「なりたい私への渇望」

最後の三つ目は、少し毛色が違う。
相手を憎いと思う心の奥底に「自分への期待」が隠れている嫉妬だ。名付けて「自己理想型」嫉妬。

これは「本来なら、私がそこにいるはずだったのに」という、理想の自分(IFの自分)を体現している相手への苛立ちである。

正直に白状しよう。私の嫉妬のほとんどは、このタイプに分類される。書き出してみると、キリがない。

なりたい姿

いくらでも出るぞ、ホイ!

面白い文章が書ける人が羨ましい。本がたくさん売れている人が羨ましい。友達が多くていつも予定が埋まっている人が羨ましい。楽しそうにみんなでお茶しているママ友が羨ましい。人気者が羨ましい。フォロワーが多い人が羨ましい。東京のど真ん中で洗練された生活を送る都会人が羨ましい。悩みなんてなさそうに楽しそうに笑う陽キャが羨ましい。行列に平気で割り込めるほど神経が図太い、図々しいおばちゃんが羨ましい。高学歴という「信頼のラベル」を持っている人が羨ましい。美人が羨ましい。巨乳が羨ましい。若い子が羨ましい。お金持ちが羨ましい。自由に動ける人が羨ましい。老若男女にとにかくモテたい。モテる人が羨ましい。もっと評価されたい、褒められたい、評価されている人が羨ましい。

どうだ。きっとドン引きしていることだろう。

この嫉妬の対象は「生まれつき(不可侵領域)」の要素がある程度含まれていることもあるけれど、基本的には自分次第で手に入れられる可能性があるものだ。

もっと頑張れば成功していたかもしれない。理想の私が目に浮かぶ。これが、めちゃくちゃ心がざわつく。いてもたってもいられなくなってくる。

私は、私が選ばなかった、あるいは選べなかったすべての可能性に未練たらしく嫉妬し続けている。

「東京」という名の呪い

その象徴の1つに「東京」がある。私は現在、愛知県に住んでいる。住みやすく食べ物も美味しく、愛すべき故郷だ。

しかし、東京で活躍する同業者や、キラキラした東京の街並みがSNSで流れてくると胸がざわつく。「東京コンプレックス」だ。    

都会うらやましい!

かつて私は「東京にさえ行けば何者かになれる!」と信じて上京したことがある。
だが現実は厳しかった。何者にもなれず、東京のスピードの速さや孤独に打ちのめされ、たった1年で逃げるように愛知に帰ってきた。

東京で活躍している人を見ると、傷が疼く。
「もしあの時、歯を食いしばって東京に残っていたら……」

東京のあちこちの出版社で(見晴らしのいい高層ビルの窓から眼下を見下ろしながら)打ち合わせをし、週末は下北沢のおしゃれな本屋さんでトークイベントをしてキャーキャー言われている売れっ子エッセイストの私の姿が目に浮かぶ。

東京は私にとってただの都市ではない。自分が手に入れ損ねた「究極の承認装置」なのだ。


苦手なあの人は、「なりたかった私」

この嫉妬は、性格や生き方に対しても向く。私は根暗で、陰キャで、人の顔色ばかり伺ってしまう性格だ。だからこそ、行列に平気で割り込む図々しいおばちゃんや、こちらの都合もお構いなしにグイグイ距離を詰めてくる図太い人を見ると、イラっとするのと同時に猛烈に羨ましくなる。

「あんなふうに他人の目なんて気にせず、欲望のままに生きられたらどんなに楽だろう」「あんなふうに『私はこうしたい!』と大声で言いたい」

苦手なはずのその図太さが、実は喉から手が出るほど欲しい「自由」に見える。

また、そのドス黒い感情は、圧倒的な存在感を持つ陽キャな友人へも向かう。

いつもみんなの輪の中心にいて、天性のスターのようで、息をするように皆から愛される友人。その明るく大雑把な振る舞いは、神経質で気難しい私からすると、時に無神経で図々しく映る。

そんな彼女を見て、私は心の安全を守るためにこう毒づく。
「生まれつき陽キャで、能天気でいいね」「あなたと私は住む世界が違う」

けれど本当は違う。住む世界を分けたいのは私の方だ。同じ土俵に乗ってしまえば自分の惨めさが際立つから。本当は私もその引力が欲しい。暗くてジメジメした自意識の檻から抜け出して、誰からも愛される太陽として、世界の真ん中で笑いたいのだ。

正義という名の「合法的な嫉妬」

「あんなふうに愛されたかった」「太陽になりたかった」
そんな切実な「なりたい私」への渇望が、最も醜い形で噴出する瞬間がある。それは、憧れていた他者の転落を目撃した時だ。

ドイツ語で「シャーデンフロイデ(他人の不幸は蜜の味)」と呼ばれるこの感情は、現代のSNS社会で「正義の鉄槌」として可視化されている。

たとえば、清純派女優の不倫スキャンダルが報じられたとき。キラキラしていた起業家が犯罪を犯して逮捕されたとき。

ワイドショーやネットニュースで、不倫をした女優が袋叩きに遭っているのを見ると私も石を投げたくてソワソワしてくる。
「裏切られた」「清純派だと思っていたのに」「子供がかわいそう」
もっともらしい正義の言葉を並べているけれど、その本音は違う。

私たちは道徳的だから怒っているのではない。こんな若くてかわいい子に自分のパートナーを盗られたら……という恐怖や、自由に生きられる彼女のことが羨ましくて叩くのだ。

彼女たちは、美貌も、富も、名声も持っている。それなのに、さらに「禁断の愛」という快楽まで手に入れようとした。
「こっちは日々、安売りスーパーで節約して、夫への不満も飲み込んで、常識という檻の中で我慢して生きているのに!」「お前だけ全部手に入れるなんてズルい!」
その「ズルい」という嫉妬心が、相手がミスをした瞬間に「正義」という名の鉄槌に変わり徹底的な制裁へと変わる。

これは「上方嫉妬」の反転でもある。私たちは無意識に、有名人に「私のなれない理想の人間」という夢を託している(自己理想の委託)。

だからこそ、その偶像が泥臭い欲望(不倫)を見せた瞬間、「私の理想を汚した」「お前も結局、欲まみれの人間だったのか」という勝手な失望も混ざり、「今まで散々いい思いしやがって」「もっと落ちぶれろ!」と爆発し、百倍の憎悪へと反転するのだ。

正義の鉄槌の正体。それは「私が羨ましいと思っていたことを、やってのけた人間」への合法的な復讐に他ならない。

才能という名の「絶望」

私にとって最も苦しく、最も逃げ場のない地獄。それが、才能への嫉妬だ。

冒頭で書いた、知人の作家に対する嫉妬。それがなぜあんなに苦しいのか。それは「活躍している作家」こそが、私が一番なりたい「私の理想像」だからだ。

書店でふと手に取ったエッセイ。何気なく開いた1ページ目。そこに書かれていた一行が、あまりにも鮮やかで、本質を突いていて、そして面白かった時。私は感嘆するよりも先に、絶望する。

全身の血が逆流するような敗北感。素晴らしい作品に出会った喜びなど微塵もない。あるのは、その才能に対するドス黒い殺意と、自分の無力さへの嘆きだけだ。

映画『アマデウス』で、宮廷音楽家サリエリは天才モーツァルトに狂おしいほどの嫉妬を燃やした。サリエリの不幸は、自分もまた一流であるがゆえに、モーツァルトという異次元の才能と同じ時代に生きてしまったこと。そして、その圧倒的な差を残酷なほど正確に理解できてしまう耳を持っていたことだ。

違いがわからなければ幸せだったのに。私も同じだ。「この表現の何がどう素晴らしいのか」が痛いほどわかってしまうからこそ、自分との埋めようのない距離を突きつけられて、のたうち回る。

なぜこうも苦しいのか。それは、私が書くことに自分の全人生を賭けているからだ。

美貌やお金への嫉妬はまだいい。「あったらいいな」というアクセサリーのようなものだから。でも、才能への嫉妬は違う。これは私の存在の問題だ。「書くこと」は私が私であるための唯一の証明だ。

それなのに、私よりも深く、美しく、多くの人に届く言葉で世界を切り取っている人がいる。それはまるで「お前は要らない」と宣告されているようなものだ。

私が書きたいテーマ、私が魅せたい世界、私が笑わせたかった誰か。それら全てを私より才能のある誰かが軽々とさらっていく。私がその場に立っていたかったのに……!

この「自己理想(こうありたい私)」への渇望こそが、クリエイターを突き動かす原動力であり、同時に私たちを焼き尽くす業火なのだと思う。

まったくジャンルの違う人が売れていてもそこまで嫉妬しない。
「私と同じ土俵で、私が欲しかった称号を、知人が手に入れている」
その事実が私の心をズタズタに引き裂く。

「なんで私じゃないの?」「私の方が面白いはずなのに!」「こんなに頑張ってるのに!」
その叫びは、裏を返せば「私はそこに行けるはずの人間だ」という、肥大化した自尊心の裏返しでもある。

SNSは嫉妬の増幅装置 〜数字で可視化される「人間の価値」〜

Amazonのランキングを見るのが怖い。書店の棚で、自分の本よりも大きく平積みされている同業者の本を見るのが怖い。
「売れているものが良いものとは限らない」そんな負け惜しみを言ってみても、数字という現実は残酷に私の価値をジャッジしてくる。

この「なりたい自分」への渇望が最も暴走しやすいのが「数字」だ。私たちは資本主義と承認欲求の荒野に生きている。

「フォロワー数」「PV数」「Amazonランキング」「重版出来」。
これらはただの数字ではない。「あなたには価値がある」という社会からの評価だ(と脳が錯覚している)。

その理想への渇望が強すぎて、私は過去に一度、禁断の果実に手を出したことがある。SNSのフォロワーを買ったのだ。

まだXがTwitterだったころ。フォロワーが900人くらいだった私は、どうしても早く1000人の大台に乗せたいと思っていた。フォロワーという「数」が欲しかった。中身なんて伴っていなくていい。ただ「フォロワー数が多いアカウント(=影響力のある私)」という理想のガワだけが欲しかった。

「外国人フォロワー100人」という商品をカゴに入れポチッと購入すると「ご注文ありがとうございます。24時間以内に徐々に増加します」と表示された。

フォロワー購入がバレるとアカウントが凍結されるらしいと聞いていた私はドキドキしながら増えるのを待った。すると、徐々にと書かれていたのに数分で一気に増えた。

「うわ、まじで増えてる! やばいやばいやばい!」
増えたフォロワーを見ると、ほぼ全員がどう発音していいかわからないようなアルファベットの名前にアニメキャラのアイコンだった。

数十分のうちにあっという間に、夢にまで見たフォロワー1000人に到達した。しかし、こんなに短期間で大量に増え、どう見ても日本人じゃないインチキくさいアカウントがずらりと並んでいる。これでは一発で買ったことがバレる!
「こいつフォロワー買ったな。クスクス」と蔑まれてSNS人生は終わりだ。あー、最悪だ。もうこのアカウントを削除するしかない!

そう思っていたところ、一瞬到達した1000というフォロワー数がポロリポロリと減っていった。あれ、どんどん減ってる?

3日もすると怪しいアカウントは全員消え、元の900人に戻ってしまった。
「なんだこれ、詐欺じゃないか!!」

理想の自分を金で買っても中身の私は何ひとつ変わらなかった。むしろ、ハリボテの鎧を着込んだことで、余計に自分が惨めでちっぽけな存在に思えた。あれは焦りすぎた私の「自己理想」が起こした悲しい暴走事故だった。

ただ、今でもSNSの数字に一喜一憂していることに変わりはない。

私は、なぜこんなに評価に飢えているのだろう? 「承認欲求」という言葉で片付けるのは簡単だ。
けれど、これは「自分が何者であるか」を、他人のモノサシで測ろうとしているからではないかと思う。

「たくさんの人が『いいね』と言ってくれたから、私の文章は面白い」
「本が売れたから、私には価値がある」
逆に言えば、数字がなければ自分を信じられないのだ。

自分の価値を他人に委ねている限り、この「評価への嫉妬」は終わらない。 もっと上の人が現れるたび、ランキングが下がるたび、私は何度でも「自分は無価値だ」と絶望することになる。

もはや私の指は、無意識にライバルの名前を検索窓に打ち込むマシーンと化している。この執念を別の何かに活かせれば、今頃もっと何らかの実績を残せていたんじゃないだろうか。本当に無駄すぎる。

SNSなんて見なきゃいいのに

この「自己理想型嫉妬」の最終的なゴールは、数字を追いかけることではない。
他人の評価(数字)を介さずに、「私はこれでいい」と自分で自分にハンコを押せるようになること。それがこの渇望地獄から抜け出す方法なのだろう。

まあ、それができれば苦労はしない。私が一番SNSなんて見るのをやめたい。

今この瞬間だって本の売れ行きは気になるし、バズってるエッセイの投稿を見ると嫉妬で胃がムカムカする。人間だもの。ふん!

【処方箋】 それは「なれる」という証明書

この「自己理想型」の嫉妬は、苦しいけれど、実は一番「希望」に近い場所にいる。なぜなら、脳は「自分にも手が届く可能性がある」と判断した相手にしかこのタイプの嫉妬信号を送らないからだ。
私は空を飛ぶ鳥に嫉妬しない。道端の石ころにも嫉妬しない。

「自分もそうなれる可能性がある」「そうなりたい」と深い部分で信じているからこそ、「なんでそこにいるのが自分じゃないんだ!」と腹が立つのだ。

この嫉妬を感じたら処方箋は一つ。「燃料にする」ことだ。
嫉妬は「理想」の裏返しであり、ガソリンになることの証明。

「悔しい」と感じるのは、まだ諦めていない証拠だ。東京コンプレックスを感じるなら、地方に住んだままでも東京の人たちを驚かせるような仕事をすればいい。
フォロワーがたくさん欲しいなら、増やす努力を少しでもしてみればいい。

この嫉妬は、コンパスだ。「あなたの行きたい場所はあっちですよ」と、痛みを伴って教えてくれているのだ。

苦しくて、辛くて、虚しくて、時に溺れて死にそうにもなるけれど、そこは両足でグッと踏ん張って堪え、このドロドロとした感情をガソリンに変えてエンジンをふかしている。
「もうこれでいいや」と諦めることができないのならば、前に進むための推進力にするしかない。本当にしんどいけれども。


こうして「3つの嫉妬」を解剖してみると、対処法がまったく違うことがわかるだろう。

1. 不可侵領域型(運命・過去) → 「降参」して、手持ちのカードで戦う。

2. ゼロサムゲーム型(奪い合い) → 「認知修正」して、別の椅子を探すか、パイは無限だと知る。

3. 自己理想型(未来・可能性) → 「燃料」にして、進む力に変える。

得体の知れないバケモノに振り回されるより、構造やメカニズムを知り、解像度を上げて名前をつけてやると、恐怖心はずいぶんと和らぐのではないだろうか。

とはいえ、嫉妬は嫉妬。どんなに理屈で武装しても、夜中にSNSを見て胸が張り裂けそうになる瞬間はゼロにはならない。
「あーあ、できれば人と比較なんてしない、もっと穏やかな自分になりたいなあ」
本音を言えば、それが一番だ。こんなドロドロした感情、持たずに済むならその方がいいに決まっている。

そんな「嫉妬を捨てて楽になりたい」と願う私の前に、ある日、一人の女性が現れた。
「私、嫉妬したことないんです」

そう語る、信じられない人種との対話について、次章では記そうと思う。

【第3章】 転換 「燃料化」〜嫉妬は人生の推進力〜

ここまで、嫉妬がいかに苦しく、醜く、厄介なものであるかを散々書いてきた。
読者のあなたは、こう思っているかもしれない。
「わかったから、早くこの苦しみから解放してくれ」 「どうすれば嫉妬しない穏やかな心になれるんだ」と。

なんなら途中を全然読まずに、一気にここまで飛ばしている人もいるかもしれない。できればもうちょっと読んでほしい。

世の中には「嫉妬しないための本」や「足るを知る」ための教えが溢れている。私もかつてはそれを目指していた。
もっともっと頑張って、自分に自信を持てるようになれたなら。
誰かと比較する必要がなくなれば、今のままで十分幸せ、自分はありのままで素晴らしいと思うことができる、と思っていた。

けれど、ある女性との対話が、私の考えを根底から覆した。

「嫉妬を捨てること」は、本当に正解なのだろうか?

「嫉妬しない人」に会ってみた

嫉妬について書き続けている私の元に、こんなメッセージが届いた。
「私は人に嫉妬しません。斉藤さんはどうしてそんなに嫉妬できるんですか?」

これは……ディスられてるのか? 

エッセイを公開するたび無数の「傲慢な女だな」「足るを知れ」系のコメントが届く。これもその類かもしれない。

あるいは、本当に嫉妬しない人はこの世に存在して、本当に私がいつでもどこでも嫉妬している様子を、心底、不思議に思っているということもあるのかもしれない。

気になってしかたがない私は、送り主のSさん(30代前半・都内在住の母親)に話を聞いてみることにした。(若くて東京に住んでいるという時点で、すでに嫉妬!)

Sさんはこう言った。
「他人に興味がないんです。人に勝ちたいとか羨ましいとか思えないんです。他人が自分よりすごいのは当たり前で、自分には敵うはずがないので、負けて当然、みたいな感じです」

私は食い下がった。
「好きな人を独り占めしたいとか、これだけは勝ちたいとか、少しはありませんか?」

「ないかも。何かに失敗すると落ち込むだけだし、頑張るのは疲れるので。やれることだけやって、必要とされれば応えます。どうしても手に入れたいものとかもなくて、今日はあったかいなとか、このケーキ美味しいなとか、そういうので満足してしまいます」

「今日はあったかいな」で満足……? え、それだけでいいの!?  他者の評価は? 札束は!?

まるで中国の思想家・老子が説いた「足るを知る者は富む」を地で行くような、穏やかで美しい生き方だ。
「もっともっと」と欲しがり続け、のたうち回っている私より、彼女の人生は明らかに豊かで幸せそうに見える。

けれど、話を聞いているうちに私の心に疑問が広がっていった。Sさんはこう続けた。
「いいことだとは思えないんです。疲れることはなるべく避けたいけれど、このままでいいのか不安になるし、逃げているような気もして焦ります。焦ったところで、5秒くらいで、私にはやっぱ無理だ、仕方ない、と思って終わってしまいます。だから私はナミさんはすごいなと思うんです」

嫉妬喪失=エンジンの停止

嫉妬をするのはとにかく疲れるということか。確かにそれはそうかもしれない。そして彼女の言葉を聞いて、こう思った。

彼女は、傷つくのを恐れて土俵に上がることを回避しているだけなのではないか?

「自分には敵うはずがない」
その言葉は潔いようでいて実は自分の可能性への「諦め」だ。 嫉妬がない世界は、確かに静かで穏やかだろう。
そこには「悔しいから頑張る」という熱量も「あいつより遠くへ行きたい」という向上心もない。

我が家の次男が小学校2年生の時、運動会の徒競争で負けてものすごく悔しがったことがあった。彼はその日を境に走る練習をはじめ、嫌いなピーマンを「強くなるためだ」と言って食べるようになった。
もし彼がSさんのように「あの子には勝てないから、負けてもいっか」と思っていたら、彼は練習をしなかっただろうしピーマンも食べなかっただろう。

人に勝ちたい。認められたい。あの場所に行きたい。そのドロドロとした渇望は、私たちを突き動かす「人生の推進力(エンジン)」なのだ。嫉妬を捨てるということは、このエンジンを自ら降ろし、海の上でプカプカと漂流することを選ぶのと同義なのかもしれない。

Sさんの言う「5秒で諦める」人生を私は生きたいだろうか?
答えはNOだ。
私はたとえ苦しくても、ピーマンを食べてでも、一等賞を目指して走りたい。

レーダーではなく「羅針盤」を持て

ここで、私が本来目指すべき姿について一つの答えを提示したい。
アメリカの社会学者、デヴィッド・リースマンの理論だ。(こちらも山本先生の『嫉妬論』で触れられている)

リースマンは現代人の多くを「他人指向型」と呼んだ。これは頭に高性能なレーダーをつけている状態だ。
「あの人はどうしているか」「世間では何が流行っているか」「誰が賞賛されているか」。
全方位にレーダーを張り巡らせ、他人の動きに合わせて自分の進路を決めている。
それ、めちゃめちゃ私だ……!

SNSなんて、まさにこのレーダーの増幅装置だ。「いいね」の数や「重版」の文字に一喜一憂し、他人の信号が自分より強いと嫉妬に狂う。
私の頭上にはきっと超ウルトラハイパーギガマックスデラックス高性能レーダーがついているに違いない。

対して、先ほどのSさんはこのレーダーの電源をオフにしている状態だ。他人の信号を受信しないから、嫉妬もしない。その代わり、どこへ向かえばいいかもわからない。

だがリースマンが提唱した理想の生き方は、そのどちらでもない。「ジャイロスコープ(羅針盤)」を持つ生き方だ。

他人の信号(レーダー)ではなく、自分自身の内側にある信念や目標(羅針盤)を頼りに進むこと。
彼はこれを「自律」と呼び、人間としての「真正さ」だと説いた。

明らかに核心っぽい。

真正さへの諦め

リースマンの言う「羅針盤」は、他人の目なんて気にしない、鋼の意志を持った人の生き方だ。本当にかっこいい。

できることなら私もすぐにでも頭上のレーダーの電源を引きちぎってオフにして、他人のことなんて1ミリも気にせず、羅針盤の方向だけを信じて歩きたい。

だがスマホを見て一喜一憂している私は、現状、救いようのないレーダー人間だ。これまで、私の進路はいつだってこの醜い嫉妬が決めてきた。

「重版」に嫉妬するのは、私が「多くの人に本を届けたい」と願っているから。「自由な人」に嫉妬するのは、私が「もっと広い世界を見たい」と渇望しているからだ。

やはり嫉妬は「私がどう生きたいか」を教えてくれる、欲望に正直なナビゲーションシステムだと思えて仕方がない。

私の頭上の超ウルトラハイパーギガマックスデラックス高性能レーダーは、今日も今日とて「あの人のポッドキャストがバズってる」という電波を最高感度でキャッチしてしまっている。
強欲でせっかちで、羅針盤がどこを指しているかを見極めるまで穏やかに静かに待っていられない。

だったらもう私は覚悟を決めて、この「嫉妬」という名の猛獣にまたがって、行けるところまで行くしかないのでは……?

こっちだオラーーー!

もちろんSさんのように他人との競争を避け、諦めることで嫉妬を消し、穏やかな海を漂う生き方もあるだろう。それはそれで一つの完成された幸せの形だ。

しかし私は避けたくも諦めたくもない。いや、正直に言うと何度も諦めようとした。なんとか気にしないようにした。

それでも、無理だった。どうしたって考えてしまう。悔しくて眠れなくなってしまう。諦めたくても諦めきれない。

この嫉妬まみれの社会の中で、他人の成功というノイズに惑わされたくないとは思いつつも、耳を塞ぐことができず「うらやましい! くっそー! 私もそっちに行くんだ!」 と叫びながら、自分の足で進むことしかできなかった。

そして、その嫉妬が、私をここまで連れてきてくれた。

私は、もう諦めることを諦めた。

ありのままの自分に自信を持つとは「ありのままの自分で十分素晴らしい。頑張らなくていい。」と無理に思い込むことではなく、「私は嫉妬深く、強欲で、負けず嫌いな人間だ。それが私だ」と認め、その業を背負って生きていく覚悟を決めることなんじゃないだろうか。

おわりに


痛くて、苦しく、そして少しだけ愛おしい「嫉妬」という感情。私は書きながら嫉妬にとことん向き合ってきたつもりだ。

「生存本能」だと知り、「距離の法則」を知り、「3つの型」に分類し、それぞれの処方箋を手に入れた。そして、嫉妬しない人と話してみて、この感情こそが私を突き動かしてきたガソリンであったことにも気づいた。

けれど、あえて最後にもう一度言おう。やっぱり、嫉妬は苦しい。

明日もきっと、私は誰かに嫉妬する。スマホの画面を見て、自分より売れている誰かの活躍に唇を噛み、みぞおちが熱くなり、「なんで私じゃないの!」と叫びたくなるのだろう。

この教科書を書いたからといって、嫉妬心を容易く飼い慣らせるようになるわけではない。私はきっと死ぬまで、強欲で、負けず嫌いで、カッコ悪いままだろう。

でも、今の私は、この苦しみを少しだけ誇らしく思うことができている。

なぜ、私はこれほどまでに嫉妬するのか? なぜ、他人が羨ましくてたまらないのか? それは、私がまだ「自分」という人間に絶望していないからだ。
「私ならもっとできるはず」「私はもっと幸せになれるはずだ」と、自分の可能性を誰よりも信じているからだ。

本当にダメだと思っているものに期待なんてしない。私がこれほど苦しいのは、私が自分自身を愛して愛して愛しすぎているからだ。

私は、嫉妬するほど「生きたい」のだ。より良く、より高く、より遠くへ。命を燃やしてこの一度きりの人生をしゃぶり尽くしたいと願っているからこそ、心は熱く焼け付く。その熱さを恥じる必要なんてない。

この痛みは私が全力で生きようとしている証拠だ。

だから、私は誓う。これからも堂々と嫉妬し続けてやる。みっともなく足をバタつかせ、泥水でドロドロになりながらも、この「嫉妬」という名の猛獣にまたがって行けるところまで行ってやる。

「あいつが羨ましい!」と叫びながら、そのエネルギーで新しい何かを書き、何かを作り、昨日より少しだけ進んだ場所へ自分を連れて行く。

もし、あなたが今、誰かへの嫉妬で夜も眠れずにいるなら。自分はなんて性格が悪いんだと、暗いトイレの中でうずくまっているなら。どうか、この言葉を思い出してほしい。

大丈夫。その嫉妬は、あなたが諦めていない証拠だ。

さあ、その煮えたぎるようなドロドロの感情をガソリンに変えて、私たちの人生を走ろう。嫉妬深い私たちにしか見られない景色が、きっとこの先には待っているはずだから。

おしまい。


……と、しめる予定だった。

ところが2万8千文字を数ヶ月前に書き終え、自分の醜さと心中するつもりで地獄の底にどっかりと腰を下ろした今、実はちょっとした異変が起きている。

本当にここ数週間のことだ。
いつも通り、自分より評価されている人たちを見て羨ましくなり、それに比べて自分には価値がないと辛くなり、どこで間違えちゃったんだろう? と、クヨクヨしていた。

全部を辞め、SNSアカウントも消去し、もう今後はたまに趣味で日記を書くくらいの、ただのおばさんとして生きていこうかな……と腐っていた(ここまでは平常運転)ところ、スッと光がさしたのだ。

「またこの気持ちか。」「はいはい、またこの辛さね。もうわかってるよ。」
何度も触っている傷がいつもと同じ痛み方をしているので、飽き飽きしながら撫でていたところ、40年間、耳がタコになるほど聞いてきた「人は人、自分は自分」「他人の輝きが自分の何かを削るわけではない」という当たり前の理屈が、これまでと別の温度で私の心をかすめる瞬間があった。
本当に、癪なんだけど。

「私は私で頑張ってきた。私も私なりにすごい。それで、よくない?」
と一瞬思えたのだ。

誰かに言われても、頭で理解していても、まったくピンと来なかった労いの言葉が、何十回もいじくってきた自分の傷から生まれて、一瞬だけフワッと心を緩めた気がした。

「あれ? 気のせいか……?」
まだ感覚の尻尾を掴みかけている程度。すぐにスルリと逃げられてしまうけれど、その手の心地は確かに残っている。
(……もしくは、ただ、疲れただけか?)

もしかしたら、あともう少しで自分のことを自分で認められるようになるのかもしれない。

その先に、いつか、他人の光に頼らなくても自分自身の体温だけで羅針盤を動かせるようになる日が来る! ……ような気もする。

とかいって結局おばあちゃんになっても「隣のばあさんの方が町内会でモテてる」「足腰や歯が丈夫な人が死ぬほど羨ましい!」などとしょうもない嫉妬をしているのかもしれないけれど。


ほんとうに、おしまい。