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不完全ですけど、何か?〜私たち人間は、なぜ幸福のための手段に苦しむのか〜

今から10年ほど前の話のこと。
私が心理カウンセラーと名乗り始めた頃に
こんなことを言ったことがあります。
不完全ですけど、何か?」


特段、意味を深く考えたわけでもありません。
けれど周囲は私が「心理カウンセラー」と名乗った途端に、
なんでも穏やかに解決できる人かのように見始めたのです。
単に一個人である私が「心理を学んだ」だけの話。
その肩書きとして「心理カウンセラー」と名乗っただけの話。
そんな一つの学びだけで、
私が完全無欠になるわけもなく、
そんな時ふと口から出た言葉が
「不完全ですけど、何か?」でした。

この言葉を無意識に発し、10年ほど経った今、
まさか自分に戻ってくるとは思ってもいませんでした。



ジャッジの現場


あれから私は、11年以上、人の不安や生きづらさに関わってきました。
私自身がパニック症やうつに悩まされた13年があったため、
最初はカウンセラーになるつもりは全くなかった。
私さえ良くなれば良かったのです。
けれど、なんの因果なのか…
その話をブログで書くたびに人が集まり始め、
気づけば11年もの間カウンセラーと名乗ることになりました。


かつての私のようなパニック症やうつの人から
人間関係や家族関係に悩む人、
それ以外にも
動けない人もいれば
逆に止まれない人もいました。

悩みというものは不思議なもので、
すべての人が自分と同じような現象を及ぼしていると
勘違いをし、
「この場合はこう!」だというノウハウや正解のようなものが存在すると、
渦中の時には思いがち。
だから、「あなたのように解決したい」と言われたところで
全く同じ反応とはなり得ないため、
その後観察していく過程で、
考え続ける人や逃げる人、
ただ話を聞いて欲しいだけの人から怒る人
もっと言えば、黙り込む人まで同じ現象と思われるものも
反応は千差万別でした。
こうした何百、何千という会話の中で、
私はずっと人間を見てきたように思います。


そして、実はその前にも10数年、
人の悩みの現場を見てきた経験があります。
そこは法律事務所で、
家庭の事情から、当時は大卒しかいないような場所でしたが、
私は高校卒業と同時に法律にも興味なく働くことになりました。
そんなきっかけで働くこととなった場所ではありましたが、
これもまた気づけば10数年現場に携わることとなります。

こうして今振り返れば
私は20年以上まったく違う二つの現場から
人間の苦悩という場面を見てきたことになるのでしょうか。


一方は、時にジャッジが必要な世界。
もう一方は、簡単にはジャッジをしない世界。


いずれも「悩みを解決したい人」が来る場という認識のもと
存在する場所ではあるけれど、
ツールも何もかもが異なる場所です。


その両者を見てきて、
改めて今、私には分からないことがあるのです。

私たち人間は、一体、何を目指しているのだろう
そんな、途轍もなくシンプルな問いに
今ほど真っ向勝負している気分になることはありません。
究極的な位置付けとしては
多くの人は「幸福に暮らしたい」ところを目指し
両者の「悩みの解決場」は存在するのでしょう。

安心したい。
大切な人と穏やかに暮らしたい。
できることなら傷つきたくない。
誰かを傷つけたいわけでもない。

そんな、誰もがみんな抱くであろうこと。

そのために私たち人間は、
先人から辿っても法律や社会の規範、ルールや感情の扱い、
司法や行政といった規範のようなものもあれば
心理や哲学などさまざまなものを作ったのだろうと思います。


けれど今、私は時々分からなくなるのです。
私たちは、本当に幸福へ近づいているのだろうか…
と。
私は、その構造が知りたくてたまらないのです。


私が見た世界だけの話になるのかも知れませんが、
例えば裁判や調停などに勝った人が幸せになったのかと言えば、
そう言い切れるものではありません。
もちろん、法律の世界では、
人間同士が感情だけでは解決できなくなった物事を
法律という一定のルールのもとジャッジする世界。
簡単に言えば、勝つことが勝者の証。
そんな世界です。


ただ、夫婦関係、親子関係、親族争いといった
人間関係も
会社、お金、裏切りや契約、約束といった
物質的なことや行為的なことも
それぞれには常に言い分があり、
けれど、当事者同士ではもうどうにもならず
解決できない時に、法律という一つのルールを使う。

もちろん、法律も機械的に答えを出すものではなく、
条文や判例があり、事実をどう解釈するのかという解釈論や
法律家たちの主観や手腕という経験則まで入ります。
だから、どこに重きを置くかで主張も判断も異なることとなる。
(と言わざるを得ない)

それでも最終的には、
「誰に権利があるのか」「誰に責任があるのか」
「どちらの主張が認められるのか」
そのように、争いに一つの答えや区切りをつけていく。

もちろん、その必要性も知っていますし、
誰かを守るために、線を引かなければならない場面があるから
人類が創り上げたシステムだということも重々承知の上です。
そのため、
解釈もしながら権利を守るために、
勝ち負けをつけなければならないことも当然にあることも
理解していますし、
極端に「ジャッジしないことが正しい」とは思っていません。

けれど、その現場で別の景色も見てきました。

裁判に勝ったり、調停が成立したり、慰謝料を受け取ったり
一定の決着が法的にはついたとしても
その当事者自身が幸せになるとは限らなかった。

特に、もともと近しい関係にあった人たちの争いでは、
俯瞰して見ていても、
胸が締め付けられるほどの苦しさだろうと思う場面も
何度も見てきました。

夫婦や親子の争いなんて正にそれで、
かつては同じ食卓を囲み、名前を呼び合っていた人たち。

でもそれぞれの主張に正負が下され、
裁判では勝ち、お金も受け取り…幸福へ。
とはいかずに、時間とともに別の不幸へ向かう人も多くいました。

お金や権利、補償や慰謝料が、
その人の人生を回復する意味を持つこともある。
けれど、
「勝ったのだから幸せでしょう」
とはならない事実。
日頃は「お金があれば幸せ」と思っている人でさえ、
実際にお金を受け取った時、100%満たされるとは限らず、
決着がつくこと=幸福になること
は、往々にしてイコールにはならなかったように見えていました。


ジャッジのない現場

私はジャッジの世界に疲れたのだろうと思います。
10数年の引きこもり生活を経て、
その後に出会ったのがジャッジのない心理の世界でした。

けれど、不思議な現象を目の当たりにします。
そこでも「答え」のような正しさを
判別しては求められる場面を見ることになったからです。


心理の現場は、
簡単にはジャッジをしない世界ではありました。

あなたが正しい、相手が間違っていると、
そう簡単には決めないのがある意味心理の現場。

その人には何が見えているのか。
なぜそう感じたのか。
何に傷ついたのか。
何を怖がっているのか。
その人の内側をゆっくりと時間をかけて見ていくような
法律の現場とは、まるで反対側にあるように思ったことも思い出します。


「悩み」というキーワードを重ねれば
ツールが違うだけで「解決したい」という目的は同じはず。
けれど11年以上この現場にいて、
私はまた別の疑問を持つようになったのです。。

ジャッジしないはずの心理の世界でも、
私たちは結局、
「どちらが正しいか」
を探してはいないだろうかという新たな問いです。


心理の現場では表現方法こそ違えど、
親が悪い、夫が悪い、妻が悪い、上司が悪い、会社が悪いと
他責にしたかと思えば、
自分が悪い、原因は何か、
どこで間違えたのか、どうすれば正解だったのかと、
結局のところ「何が正しいのか」を答え合わせしているかのように
見えて仕方ないのです。


もちろん、原因を知ることが必要な時もある。
ある種の答えを見つけ自分を理解することが、
生きる助けになることもあります。
本当に加害と被害を分けなければならない場面もありましたし、
法律の現場を見てきた私としては
そのような事実や場面というものを軽く扱いたくもない。

けれど同時に思うのです。

それで、
私たちは何を目指しているのだろう。



分かっているはず


「分かっているんです」
心理の現場で、私は何度も同じ言葉を聞いてきました。

クライアントたちに聞けば、
考えすぎなのも分かっている。
休んだ方がいいのも分かっている。
回避行動を続けることで、
余計に怖くなることも分かっている。
家族に迷惑をかけていることも分かっている。
それでも、できない。

そして、
どうしたら私はいいのか?
正解を探し続けるのです。

もちろん、法律で言うところの解釈論ではありませんが、
心理というツールの中にもある一定の指針や答えらしきものはあります。
けれど、それでも「これで正しいのか」と答えを探し続ける。

そして、答えさえあればできるはずと思っていたのにも関わらず、
それでも動けない。できない。
そんな状況に陥る人は少なくありません。

私たち人間は、正しいことを知れば、
その通りに動く生き物ではなかった。


分かっていてもできないのです。
頭では理解していても体が固まるのです。
大丈夫だと聞いていても逃げたくなるのです。

私は心理の現場にいる間、
「動けない人」を見ているものと思っていました。

けれど、今になり、違ったのかも知れない…と、
また問いが私の中に残るのです。

私はずっと、
動けない人を見ているのではなく、
反応している私たち人間を見ていたのだ。


手段は、
いつ目的になるのだろう


私はパニック症の支援で、ある構造を何度も見てきました。
本来、電車は移動するための手段ですよね。
行きたいところに行くための手段。
そのための移動手段の一つに、公共の交通機関、電車があります。

けれど、いつの間にかクライアントの多くは
「電車に乗れるようになること」
そのものが人生の目的になるのです。

今日乗れたか。
何駅乗れたか。
そんな確認の日々を送ってカウンセリングに来られます。
不安は何点だったか。
また乗れるか。
昨日よりできたか。
時間が経てば経つほどそこに囚われていくのです。


移動するための手段だった電車が、
いつの間にか、その人の人生を測る目的になる。

だから、その度に私は支援の場で
「手段を目的にしない」という
至極当たり前のことを伝え続けてきました。


電車に乗ることが人生の目的ではありません。
こうして文章に書くと、
さらに当たり前すぎて読むに足らぬと思うかも知れませんが、
この当たり前を人は失ってしまうのです。

その電車に乗って誰に会いたいのか。
どこへ行きたいのか。何をしたいのか。
目的を見失い、電車に乗ることが人生の目的のように
錯覚が始まる。


けれど最近、この現象は
これはパニック症の人だけに起きることなのだろうか?
と疑問に思うのです。


これまで見てきた法律で勝つことも然り。
心理で自分を理解することや原因を特定すること。
正しい言葉を知ることや間違えないこと。

それらも本来、
私たち人間が少しでも「幸福に生きるための手段」
だったのではありませんか。


けれど、いつの間にか勝つことが目的になる。
答えを見つけることが目的になる。
自分を完全に理解することが目的になる。
間違えないことが目的になる。

幸福になるためにつくった手段の中で、
こうして私たちはまた苦しくなる。

だから今更ながら何度も思うのです。

私たち人間は一体、
何を目指しているのだろう。
って。



不完全ですけど、何か?



10年ほど前、カウンセラーになったばかりの私は、
「不完全ですけど、何か?」
と話していました。
今思えば、ずいぶん開き直った言葉にも聞こえますが、
10数年の歳月を経て
私は、今、もう一度この言葉に戻ってきています。。


そもそも私たち人間は、
不完全な生き物なのです。



間違えますし、いつも感情も行動も揺れる。
言葉を選び損ねることもありますし、
良かれと思って、余計なこともしてしまう。

他者に目を向けたところで
相手の気持ちを読み違えることも多くあり、
昨日と今日で考えが変わることも多くあります。

自分自身のことさえ、一生完全に分かる日なんて来ないでしょうし、
たとえ分かっていてもできないことも多くある。
もちろん、突如としてフリーズして
動けなくなることも数えきれないほどあるでしょう。

そんな生き物が、私たち人間という生物。

それなのに私たちは、
いつから人間を
完成品のように扱うようになったのでしょうか。


正しい上司。
正しい社員。
正しい経営者。
正しい妻。
正しい夫。
正しい母親。
正しい父親。

人を傷つけない人。
配慮できる人。
理解のある人。
…キリなく完成品の一覧は出てきます。

もちろん、誰かを傷つけていいわけではありません。
立場の強い人が、弱い立場の人を追い詰めていいわけでもない。

明確な加害には線引きが必要だから、
人類のシステムの中で様々な仕組みの一つとして
ジャッジの現場すら必要だと思っています。


けれど同時に思うことがあります。


私たち人間は、
どこで不完全でいればいいのだろう。

私たちは間違える余地すら

失ったのではないだろうか。

そして、気づけば
人を守るために私たちは
言葉を増やしてきたのではないだろうか。


パワハラ。
モラハラ。
セクハラ。
カスハラ。
加害者。
被害者。

その言葉によって救われた人は確かにいます。
「自分が悪かったのではない」と知ることができた人もいる。
これら言葉によって声を上げられた人も言わずもがなです。

だから、その言葉を無くせばいいとは言いません。


けれど、人が間違えるたびに、
「それは不正だ」
「それはハラスメントだ」
と確定される社会になった時、
不完全な私たち人間は、
どこで間違えればいいのでしょうか。



私は今も日々たくさん言葉を選び損ねます。
相手の気持ちを読み違えることなんて日常茶飯事で、
頭では分かっていても、
やっぱり良かれと思って余計なことをしてしまいます。

そして、
「あ、そう見えたのか」と、
やってしまった後に気づくことも多い。

先に完璧に100%分かる能力でもあればいいのでしょうが、
「不完全ですが、何か?」という人間をやっている以上、
こうした人間自分を忘れたくもないとも思っています。



本来、私たち人間は
やってみて、間違え、また修正し…
そうやって生きてきたのではないでしょうか。

けれど、
間違えた瞬間にラベルが貼られるとしたら…
人は、間違えなくなるのか?

少なくとも私は、そうは思いません。

おそらく私たちは、
人を避けるかのように話さなくなり、関わらなくなるでしょう。
きっと、失敗が許されないのであれば挑戦もしなくなる。

もちろん、他者との関わりどころか、本音も言わなくなり、
それぞれが一人一人個別に
せっせと正解を先に探す日々になるのだろうと想像しています。

そして、
本来なら無意味な争いも始まるのではないでしょうか。
ラベルを貼られる前に、相手へラベルを貼る。
そんな風にしか自分を守れなくなると
怯え始めるのではないでしょうか。


なぜなら私たち人間は、
危険を感じれば反応する生き物だからです。

間違えてはいけない場所であれば、自ずと自由に動けなくなる。

それは意志が弱いからではなく、
ある意味、とても人間らしい反応なのかもしれません。




『変な講師だったね』から
始まっていい



先日、防災に関わる講座の話をしていた時、
私はこんなことを伝えました。

「防災メンタルアドバイザーの講座には、答えがありません」
最初は、意味が不明のようでしたが、それでもこう続けました。

「私のような講師が帰った後に、今日の講師は答えもなくて変な講座だったね、とぜひ話してください。」

講師なら普通、
「学びになりました」
「役に立ちました」
と言ってもらいたいのかも知れません。

けれど私は、「変な講師だったね」でいいと思っています。
そこから話が始まるなら大成功。
むしろそれでいい。

なぜなら、その瞬間、普段は違う立場にいる人たちが、
同じものを見聞きした人になり、
上司と部下、経営者と社員、地域の役員と住民、
さまざまな立場を超えて、
一つのコミュニケーションが始まるからです。

それぞれの立場には、それぞれの利害関係がありますよね。

普段なら、
「あなたが悪い」
「そちらが分かっていない」
「こちらにも事情がある」
と、自分たちの関係の中で話すことになる。


けれど、私のような普段の生活にも売り上げにも
日常的に全く関係のない利害関係のない第三者の話を、
同じ場所で同じ時間に一緒に聞くことで、
私が帰った後に「あれ、どう思った?」と話すことができる。
むしろ、共通言語のような「変な講師」という置き土産があれば、
なお会話も弾むことでしょう。

「私はよく分からなかった」
「私はあそこが気になった」
「私はちょっと面白かった」
「いや、私は変な講座だと思った」

こうしたこの会話こそが、
正しさを探すでもなんでもない会話であり、
誰かが正しいかを決めなくてもいい関係性や
人間関係再構築のスタートになると思っています。

意見を一つにしなくてもいい。
答えを出さなくてもいい。
ただ話す。


私は、そこに大きな意味があると思っています。



同じ答えになることが、共通認識ではない



私は、共通認識をつくることが大切だと考えています。

けれど、共通認識とは、
全員が同じ答えになることではありません。

私たち人間は
同じものを見ても違って見える



その事実を、一緒に知ることでもあるものと考えています。

「あなたにはそう見えたんだね」
「私はこう見えた」
そこで終わる会話があっていい。
結論が出なくてもいいんです。

マウントの取り合いにもなる必要はありませんし、
誰かを悪者にしなくてもいい。



法律の現場では、決着が必要な場面を見てきました。
心理の現場では、理解が必要な場面を見てきました。
だからこそ今、私は思うのです。

私たち人間のすべてのズレに、
ジャッジは必要なのだろうか。

そして、こうした違いやズレを知ることは、
何かが壊れてから出なければならないのでしょうか。



心理を『未病』より、もっと前へ


私たちは多くの場合、問題が起きてから学ぶのではないかと思います。
現代の心理も正にそうで、
心が限界になってから学ぶ人の方が圧倒的に多いように感じます。

人間関係が壊れてから対話を学ぶ。
ハラスメントが起きてから研修をする。
子どもが学校に行けなくなってから親子関係を見直す。
社員が休職してから職場環境を考える。
災害が起きてから備えを考える。

私は、ここに違和感があるのです。


なぜ、問題が起きた人だけが学ぶのだろう。
なぜ、苦しくなった人だけが心理を学ぶのだろう。
なぜ、壊れてから初めて人間を理解しようとするのだろう。


例えば、災害には「避難訓練」があります。
火事が起きる前に避難経路を確認をし、
地震が起きる前に備蓄をするよう指導もあります。

もちろんこれは、
私たちのこれまでの経験則にもあり、
非常時に突然できるものではないとの考えからの行為です。


それなら、
心(感情、心理)も同じではありませんか。


私は最近、『心の備蓄』という言葉を使っているのですが、
私がしたいのは、
心理を「未病」にすることではありません。


もっと手前の手前の手前の段階の話で、
何も起きていない平時の日常、
人が元気に過ごし、普通に話家族で笑い、
何事もなく学校に通えているような時。
そんな平時に、
私たち人間同士が反応する生き物だと知っておくことが
いざという時、普段の平時の自分に戻れる力になると考えています。



それだって、平穏無事な日常を過ごしていても、
私たちは分かっていて動けないこともあります。
同じものを見ても、違って見えるのです。

そして、やっぱり間違えますし、心も年中揺れますし、
誤解することもあれば、さまざまな反応もします。

そんな自分のトリセツのような
自分の特性や扱いを平時に知っておくのです。



それ、何のためでしたっけ?


私は20年以上、法律と心理という二つの現場から人間を見てきて、
それでも、私たち人間が何を目指しているのか
今も分かりません。


幸福になりたいはずなのに、
幸福になるためにつくった手段の中で、
また苦しくなる現代社会を見ていて、
現代社会の一員である自分も含めて
不可思議に思うことばかりです。


守るためにつくった言葉によって話せなくなる。
理解するために心理を学び正しい自分を探し続ける。
移動するための電車がいつの間にか人生の目的になる。

こんな当たり前のことにすら疑問を持たず
自分の首を絞めているようにも思えてくるのです。


だから私は、
答えを出す前に一度立ち返りませんか
と叫んでいるのだろうと思います。
それ、何のためでしたっけ?
と。


私たち人間は不完全です。
分かっていても動けないこともあります。
年がら年中、間違えることもあり、ズレることもあるのが人間。
こんな至極当然のことほど
今一度、私たち一人一人が立ち返りませんか
と叫ぶことが、
今必要なのだと思えてなりません。

不完全ですけど、何か?


そのくらいのところまで、
一度、私たち人間そのものに立ち返ってもいいのではないでしょうか。


私は今、
人間を正しくする仕組みを創りたいのでもありませんし、
答えを持っている人が、
答えを持っていない人に教える社会を創りたいのでもありません。


ただ、立ち返り、
不完全な人間同士が、不完全なまま
「あなたにはどう見えた?」
と話せる文化をつくりたいと願っています。


誰かが倒れてからでも関係が壊れてからでもなく。
何も起きていない、平時から。



10年ほど前、
カウンセラーになったばかりの私は言っていました。

「不完全ですけど、何か?」

あれから10年以上。

法律と心理の二つの現場を通り、
私は今、もう一度、同じ場所に戻ってきたのでしょう。

私たち人間はやっぱり不完全だという至極当たり前の場所。

だからこそ何も起きていない時に互いを知っておく。

私は、そのための取り組みを『心の備蓄』と呼んでいます。



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実際の講演をご覧になりたい方へ

この記事で書いた内容は、
保護者・先生・地域の方を対象とした
小学校の公開講座でもお話ししました。

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