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「哲学」って?・・井上忠から考える

「哲学は、全体としての、根拠を、ここに、作品として、刻みとる、途である。
 事実は根拠ではない。日常のいはゆる事実、経験の所与としての事実、検証可能性の担ひ手として、なにものよりも真理の証人と考へられがちな事実、それは根拠ではない。
 事実はfact, factum であり、πραγμα であって、為されたこと、作された結果である。根拠とは、かく作さしめるもの自身の謂にほかならない。」
                井上忠「イデアイ-プラトンの場合」

 ここで言われている「哲学」は、"philo-sophia" であって、所謂「哲学」ではないのではないでしょうか?
「哲学」という、"philo-sophia" の訳語は、誤訳だと思います。

 まぁ、「哲学」という言葉(語訳)で、「哲学は、全体としての、根拠を、ここに、作品として、刻みとる、途である。」という行為が行われることがあることはあるのでしょう。日本語の「哲学」という言葉で、この意味で使われている場合は、寧ろ、特殊な場合なのかもしれません。ある種のアーチスト、ある種の詩人、ある種の宗教家、ある種のスピリチュアルのひとに限られているかもしれません。例えば、アカデミーでは、どの程度、この井上忠の定義に該当するのでしょうか?アカデミーの人間ではないので、分かりませんが。

 「事実は根拠ではない。日常のいはゆる事実、経験の所与としての事実、検証可能性の担ひ手として、なにものよりも真理の証人と考へられがちな事実、それは根拠ではない。 事実はfact, factum であり、πραγμα であって、為されたこと、作された結果である。根拠とは、かく作さしめるもの自身の謂にほかならない。」となると、「哲学」の「専門家」でも、議論が起きそうですね。(井上忠氏も、大森荘蔵氏から質問を受けたことを報告されております。)ましてや、「科学者」となると、「これだから、『哲学者』は・・・!」と、深い溜息を吐かれそうですね(*^o^*)

 ニュートリノ、あるいは、物質の窮極の姿が解明されたとしても、ブラックホールの姿が解明されたとしても、ビッグバンの「初まり」が科学的に解明されたとしても、井上忠氏の、この定義だと、「根拠ではない」と一刀両断されるのでしょう。まぁ、科学的「事実」、科学的「真理」は、あくまでも「仮説」を超えることはないのでしょうから。これが、「哲学」との決定的相違点と言ってもいいのではないでしょうか。「じゃ、「哲学」とやらは、「仮説」を超える「事実」「真理」を解明できるのかい?・・と、問われたら・・少なくとも、「仮説」を超える「事実」「真理」を『愛する』ことはできる・・・なんて答えたら、「科学者」あるいは「哲学者」からも「プーッ!」と大笑いされるでしょうか(噴飯もの?!)。あるいは、文字通り「メタ・フィジックス」として、両者の関係を「メタ」の視点で、理性で認識しようとする試みはできるのかもしれません。
 少なくとも、科学者の理性が発言を許さない、謂わば、科学の地平を超える特権は、「哲学」は持っていると言っていいのかもしれませんが。科学者からすると、「非科学的」と一刀両断されてしまうかもしれませんが。

 この問題は、科学と哲学との境界問題と呼べるのかもしれません。

 もうひとつの道として、「科学」が拠って立つ「科学的認識」の構造自体(科学者が大前提としている『常識』自体)を「再吟味」(ソクラテスの言い方を意識してます(^_^)ゞ)することは "philo-sophia" の仕事と言ってもいいのかもしれません。まぁ、「哲学」の仕事と呼びたい方が大多数でしょうから、「哲学」の仕事と言ってもいいですが。所謂「科学の哲学」「メタサイエンス」「科学哲学」というのでしょうか?!

 あるいは、「哲学」という言葉を、「エピステーメー」に限定する語法だとすれば、冒頭の井上忠氏の定義の問題は回避されるのでしょうか?!
 その場合、アリストテレスも認めている「タレス」は、「エピステーメー」という「哲学」ということになるのでしょうか?!

12.Mar.2025 ・・井上忠から考える
(写真は、ボスポラス海峡 撮影  大塚櫻)





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