徹底した『捨棄』は「世界」と「自分」の見え方を変える
去年の早春、徹底した捨棄(断捨離)をして、海外非定住生活者になりました。結構、大事なものたちも、たくさん居なくなりました。
某国エージェントさんに、残しておきたい必要最小限不可欠なグッズ(登山靴、用品など)、本(ギリシャ語の、ソクラテス以前の基本テキストや、トルコの友人にもらったコーランの基本テキストなど)、語学テキスト(古典/現代ギリシャ語など)たちを預けていたのですが、それらも、事情があって(タイムリミット)居なくなってしまいました😂️
今、実は、茫然自失の状態なのです😒️
ヨーロッパの某国を拠点にした或る計画があったのですが、消失してしまいました。つまり、「夢」が潰えてしまったのです。
文字通り、「ミニマリスト」になってしまいました(夢も含めて)。
人生って、思い通りにいかないものですね😢️
ただ、最近少し気付き始めたことがあるのです。
これは、誰かに助けられているんじゃないかって。
そもそも、徹底した捨棄(断捨離)を決断したのは、自分のPTSD survivor & cancer survivor でした。
よく観ると、この病も含めて一連の出来事は全てつながっているのです!全部、自分が選んだ人生の選択の結果だったのです。
それは、一歩違っていたら、とっくの昔に私自身、居なくなっていても不思議でなかった筈です。
誰かに生かされている!
誰かに道をリードされている!
・・・じゃ、何のため?
今、手元に残っている紙の本は二冊(井上忠)と現代ギリシャ語のテキストだけ・・。
これは、自分の選択であり、しかし、同レベルあるいは、それ以上に重要だったかもしれない本たちが離れてしまったのですから、自分の選択以外の要因もあるのでしょう。
なにかしらの「(思索)テーマ」というのは、自分自身の選択のみならず、なにかしら、別の意思が働いているのかもしれません。
「ミニマリスト」である不自由さ、限られた選択範囲故、自分の人生の選択以外の要因に因って自分の人生が道引かれて(導かれて)いることに気付かされました。
では、どうすればよいのでしょう?
自暴自棄になる程若くはありませんし・・。
しかし、自分の選択・力ではどうしようもないことには、抗っても仕方ない・・じゃないですか。
なにかしら、別の意思に任せつつ、自分の選択・意思を、その、なにかしら、別の意思にお伺いを立てながら、生かされている時間を全うする・・。
あ!
何故か、コーランを想起しました。ギリシャ神話を想起しました。カタカムナを想起しました。
こうやって、徹底した『捨棄』は「世界」と「自分」の見え方を変えていっているのかもしれません。
8.Aug.2025 MY.KL
写真は、パレスチナ自治区から飛んで来る鳥 大塚櫻 撮影
