貧乏人はしょせん貧乏人!
貧乏人はしょせん「貧乏人」ですよ!
「清貧」という美名で飾りたてるのもいいけど・・
実は、自分自身「清貧」という美名で居直ろうとしたのですが、少し考え直しました。
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自分自身、食べる米も何もない状態を経験したことを思い出して・・しかも、幼児~児童の時に。その時、母は幼いわたしを道連れに死のうとまでしたのです。
パレスチナのこどもたちが、パンを奪い合って、亡くなったことを知って、考え直しました。
そんな状態の人間もいるというのに、「清貧」なんて言葉を吐いて、いいのでしょうか?
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貧乏人はしょせん「貧乏人」ですよ!
嘘を付き、他人を蹴落としてでも、モノ・カネにしがみ付く・・・自分のことしか考えられない・・それが貧乏人の実態。
だって、そうしなければ、自分が蹴落とされ、飢え死にするだけなんですから!
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「貧」は、経済的貧と、精神的貧があるのでしょう。
「量が質を決める」(ヘーゲル)・・その通り!
「貧」という極限少の「量」=経済的貧は、精神的貧を決定的にもたらします。
「他人を蹴落としてでも、モノ・カネにしがみ付く・・・自分のことしか考えられない・・それが貧乏人の実態」・・この「モノ・カネ」を「ブランド」「名門大学」「教授職~」「一流会社」「会長職~」「高学歴」「高収入」「ハイレベルの資格」「勲章」等に置き換えると、現代社会の少なからずの実態に近づくのではないでしょうか。
要するに、「ピラミッド型社会構造」の善し悪しを問う段階ではなく、それを大前提にする社会構造自体が、地球上の大多数の人類を「貧」に突き落とし続けているのではないでしょうか。その根本的な差別心理は、人類の深層まで染み込んでいるのでしょう。むしろ、そのピラミッド型の、一層高いレベルに昇ることが『善』であり、『プライド』であるかの如き幻想にしがみ付く・・これが実態なのでは。
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自分自身の中にもあるこの「幻想」!
この「幻想」は超強力である!
人類の「常識」とも化しているほど・・。
貧乏人はしょせん「貧乏人」ですよ!
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それでも、私は宣言しよう!
わたしは「清貧」であろう!
小さくあろう!
「清貧」であることをプライドにしよう!
「清貧」であって、なにがわるい!
小さくて、なにがわるい!
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」
ルカ福音書18章25節、マタイ福音書19章24節、マルコ福音書10章25節
・・のですから。
2.Dec.24 あまりにもあいまいな-レジリエンシ
