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不可逆の掃除

以前「しおり」というラインを初登した。
そのラインを見出したとき、そばに生える木から一本の枝が伸びていたのだが、それは登る動線にかけて伸びていたため、悩んだ末にラインを成立させるために折って除去した。

左膝から左手のあたりにかけて枝が伸びていた


枝を折る→枝折り→しおり
というのが名前の由来。

人間の身勝手な都合で、なかなか立派な太さの枝を折ってまで成立させたこの登攀。それが今も名の通り「栞」として自分の中に機能していて、以来「掃除とは、最小限の自然破壊であるべき」という信条をもたらした。

枝を折ればラインは成立する。それは間違いないが、同時にその瞬間に岩の状態は不可逆的に変化する。
そこにあったはずの自然の抵抗や制約みたいなものが失われて全く別の岩になる。
その事実に対峙して、掃除は登るための準備ではなく介入そのものだと実感した。

木に枝を折った形跡がある


植生を除去して岩を丸裸にすることは誰にでもできるし簡単だが、それでは岩がもともと持っていた形状や、そこに内在していた動線を、次に対峙する者が知る術はもう無くなる。
個人がそんな小難しいことを考えたところで自然は驚異的な速さで再生して、翌年には何事もなかったかのように人の営みを消してしまうかもしれない。
それでも僕はこの信条を大切にしたいと思っている。


なぜならば、
いつ再登者が現れるか分からないからだ。


仮に、掃除の痕跡が消えないものであるとした場合、その痕跡には初登者の判断と解釈がそのまま残ることになる。つまり掃除の痕には初登者のセンスが残るという考えだ。
そしてそれは同時に、未来にこの岩に対峙する者の体験を決定づけてしまうということでもある。

掃除しながら初登した【non-style】


岩を探して登る行為は「岩と自分」だけの関係のようでいて、実際には「他者(再登者)」と「自然」と「時間」の中に位置している行為だと思う。
だから、自然への配慮だけでなく、その岩に次に対峙する人のために“岩が語る余白”みたいなものを残したいと自分は考えている。

岩は登攀対象であると同時に、自分の判断そのものが残る媒体でもあるのではないだろうか。
自分、そして他者が開拓した岩を見てそんなことを感じる時がある。


そんな中で昨年夏から目をつけていたのが、
今回【岩のすゝめ】と名付けたこのラインだ。

綺麗


全面を覆う美しい苔とわずかに露出した起伏。
これらの形状を読み、ピンポイントでホールドを掘り当てた掃除とムーブとが合致し成立した登攀は、自分の中では理想的で完璧だった。
「しおり」の経験からここに至ったことは、とても感慨深い。

上部の悪さに少したじろいだ

足繁く通うこの谷は、湿度が高く快適なボルダリングを拒む性質を孕む一方で、だからこそアウトドアアクティビティに熱中する意味や理由を何度も思い出させてくれる。


また来ます。



おしまい。

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