クライミングと、承認欲求
誰に言われたわけでもなく、
中立主義を登って最初に思い浮かんだのは
「これは未知のままにするべきだ」という直感。

グラウンドアップで一手ずつ組み立てていく過程。
ブラインドホールドを高所で探る時間。
失敗すればただでは済まない状況の中で次の一手を出すか、戻るかを何度も天秤にかける。
中立主義の価値はそうした精神戦そのものに詰まっていると感じた。もちろんラインそのものの美しさや構成は言わずもがな。
そのため動画や写真でムーブを明らかにしてしまうことには強い抵抗があった。
それは、これからこのラインに向き合うクライマーから体験そのものを奪ってしまう行為に近いと感じたからだ。
未知であること、不確かであることこそがこの一本を成立させている、そう思えたのだ。

それでも、どうしても誰かと話したくなった。
高所で感じたあの緊張や葛藤。
覚悟を決めて身体を預けた瞬間の感覚。
ホールドを掴んだときのあの手応え。
中立主義というラインがもたらした充実感は、一人で抱え込むには僕にとってあまりにも濃かった。
正直に言えば、どんな岩であっても映像や詳しい写真は載せない方が、絶対にクライミングの本質に沿っていると、そう以前から思っている。
にもかかわらず自分は普段SNSに動画や画像を上げている。
ここには明確な矛盾がある。

なぜそんな矛盾が生まれるのか。
考えてみると理由はいくつか思い浮かぶ。
手元の記録媒体の容量を空けるため。
仲間との交流や、新しい出会いのきっかけ。
それはどれも嘘ではないし実際に多くの恩恵も受けてきた。
けれど、それだけが理由なら他のやり方はいくらでもある。
記録先としてSNSを選び続けている理由を突き詰めていくと、「誰かに見てほしい」「認められたい」という感情を避けて通ることはできなかった。
承認欲求という言葉は、どこか扱いづらい。
それ自体が目的化しているように見えると揶揄の対象にもなりやすい。
だからこそ自分の中でも少し距離を取ってきた言葉でもあったと思う。

だが、承認欲求そのものは特別なものではない。
人が人として生きる以上、誰の内側にもある。
自分のために登りたいという純粋な衝動と、誰かに見てほしいという気持ちは、互いに打ち消し合うものではなく、矛盾したまま共存してしまう。
少なくとも僕自身はそうだと今回確信した。
クライミングという行為は、もともとそうした性質を強く孕んでいるのかもしれない。
(ごめん、ただの正当化かもしれん)
中立主義を登って、ふと思った。
もしこの世界に自分1人しか人間がいなかったとして、それでも自分は岩を登るだろうかと。
もしかしたら、登らないかもしれない。
少なくとも今ほど情熱的に向き合えないかもしれない。
確かに自分は自分のために登っている。
それは間違いない。
だが同時に、そこで生まれた感動や熱を誰かと共有したいという欲求が自分の中に確かに存在していることもはっきりと自覚した。
人は結局、コミュニティの中で生きる生き物なのだと思う。
感動や情動を分かち合える仲間がいることが、どれほど恵まれたことかを、この一本は教えてくれた。
そんな複雑な感情の揺れを、少しでも落ち着かせたくて酒の席を設けた。
中立主義を登ったクライマーと。
あの精神戦を知っている者同士で言葉を交わすために。

未知を守りたい気持ちと、共有したい衝動。
その間で揺れ動いた末に辿り着いたのが、このささやかな集まりだった。(あくまで僕にとっては)
もしこのブログを読んだ人がいれば一度考えてみてほしい。
もしこの世界に自分以外の人間がいなかったとしても今と同じ熱量で岩登りができますか?
最後にマズローの欲求段階説を置いとく
1生理的欲求
生命維持に必要な欲求
→呼吸、食事、睡眠、体温調節
2安全欲求
身体的、経済的な安全への欲求
3所属と愛の欲求
家族、友人、集団など、人との親密な関係を
求める欲求
4承認欲求
他者から認められたい欲求
5自己実現欲求
自分の能力や可能性を最大限発揮したいという
成長志向の欲求
思うにクライミングは4と5の間で揺れ動く活動のように感じる。
あとがき
もちろん「共有」と「承認」は別のものだと思っている。
ただ、SNSという場に置いた瞬間、それは「評価可能な形」になる。これは限られた人同士で完結するオフラインの共有との決定的な違いだと感じている。
また、ここで言う承認は、「強さ」や「凄さ」を基準にしたものだけを指しているわけではない。
そもそもクライマー以外の人たちも当然、日常の写真や考え、出来事をSNSに置いている。
そこにあるのは競争や優劣だけではなく、
「見てほしい」「知ってほしい」という欲求が少なからずあるのではなかろうか。
共有しようとした行為が、結果として承認の土俵に乗る。
SNSという場にはそうした性質が組み込まれているように感じる。
おしまい。
