初登の再発生
いやー、
だんだんブログの文章に力が入りすぎていたなと思いまして。「ちゃんと書こう」「綺麗に書くようにしよう」って、なっていたなと。
それはそれで間違ってはいないし、書いてて手応えや納得感みたいなものはあったんだけど、
でも普段一緒に登っている人たちが読んだら
「内容や思想は完全にあなただけど、喋ってる時と違いすぎじゃない?」ってなるよなと。

会話じゃ出さないような言葉や言い回しで綺麗にまとめられるのが文章であって、それが文章の良さだとは思うんだけどさ。
話し言葉でそのまま書いた場合の「体温」みたいなものを確かめてみたくなったので、今回はこんな感じで書いてみることにした。
初登について
前から考えてはいたけど最近よく考えるのが
「初登」について。

【non-style】
「初登」は多くの場合は過去のことを指すと思う。
誰かが最初に登って名前をつけ、記録に残した時点でそのラインは歴史の側に回収される感じ。
それ以降そのラインを登る行為は再登、追随であって既知のルートをなぞる行為とも言えるんじゃないかな。
でも岩場を散策しているとその理解が揺らぐ瞬間がちょいちょいある。
長い間誰にも触られずに放置された岩だったり、苔や土に覆われてホールドかどうかも分からない突起だけが残るライン。トポにも記録にも残らずに人の営みから切り離されたボルダーが各地に静かに転がってる。

それらは本当に一度も登られていない岩なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
そんな岩を見つけてラインを想像し、必要に応じて掃除をして登る。
その過程で起きている体験は「再登」なのかな。
なんかちょっと違う気もする。
事実としては、かつて誰かが登っていたかもしれないという事は否定できなくて、自分が二番手、三番手である可能性は常にあるけど、それでもそこに付随する体験は、体感として完全に初登のそれだと思う。
・ライン取りやホールド、ムーブの選択
・グラウンドアップやノーマットといったスタイルとの葛藤
・ホールドの強度を含めた未知との駆け引き
などなど

【苔玉】
そんなことから「初登」と「再登」の決定的な違いは、称号や順序じゃなく「未知か既知か」の一点に尽きると個人的には考えるようになった。
(言い過ぎかも、あくまで個人的な感想)
再登では「登られている」という事実そのものが精神的補助としてかなり強力にはたらく。安全マージンにゆとりが生まれるし、人が岩上に立ったという情報だけでホールドは持てそうに見え、ムーブは成立するように感じる。
これらは全部「成功が前提の動き」だと言えるんじゃないかな。
そんなことを考えていた矢先、
最近印象的な出来事があった。

昔登られていた とあるライン。
(今は岩が祀られていて登ったら怒られそうな岩)
それをフィッシャーマンが観察していた時のこと。
「これは絶対に使われてただろうな」というカチに指をかけた瞬間、驚くほどあっさり吹き飛んだ。
かつて人の荷重に耐えていた頑丈なホールドが、長い年月による風化でそんなにも脆くなるのかと驚いた。
これまで自分は、ホールドの状態や岩の“使われ具合”を、初登かどうかを判断する一つの根拠として見ていたけど、その考えはこの一件で結構揺らいだ。
苔が生え、風化が進んで、植生が広がって、
そうしているうちに自然は人の営みそのものを
“なかったこと”にしていく。

そう考えると初登という行為は、たった一度きりの出来事ではないのかもしれない。
記録や記憶から切り離された瞬間に、初登に限りなく近い行為は何度でも立ち上がってくるように感じる。
もちろん事実としての順番は変わらない。
最初に登った人がいるなら、それは覆らない。
でも未知として岩に向き合って、判断を自分で引き受けて、緊張しながら一手一手を積み重ねていく体験は、自分の中で確かな「初登の体験」として残るような気がする。
あ、今更だけど
自分が初登者でありたいからこんなこと書いてるとかそういうわけではなくて、それに準ずる素晴らしい体験ってあるよなあ。
という話ね、これ。
だから最近は、初登か再登かを厳密に分けたいという気持ちはあまりない。
それよりも、どれだけ未知として岩に向き合えているか。
どんなスタイルを選び、何を怖がり、何を信じて動いたのか。
そういう体験ができれば、もうそれ以上のものはないなと感じる。

これは誰かに共有するとか、唱いたいとかそういうものではなく、今の自分なりの整理に近い。
またどこかで誰にも触られていないように見える岩に出会ったら、自分にとってはちゃんと意味のある一本になる気がしている。
ワクワクするなあ。
岩登りてー。
