敢えて今『シャカリキ!』を猛烈に語る
あなたには好きなものがありますか?
「自転車にのれるから地上|《ここ》にいようと思う」
「この乗り物がなけりゃ」
「生きてみたいとも思わない―――!!!」
これは、自転車競技を題材にした曽田正人作のマンガ『シャカリキ!』のワンシーンだ。
人間には好きなもの、好きなことがある。誰にだって。
でも、これほどの熱量の「好き」を捧げられるものごとがあるだろうか。
幸いなことに私にはない。
本気でそういうものを持った人間の世界を覗きみることができるマンガ、それが『シャカリキ!』だ。
好きなものがあるのはいいことじゃないか、そう思うかもしれない。
好きなことをやれるのは幸せでしょ、そう思うかもしれない。
しかし、ものごとには万事適量というものがあり、それは「好き」という感情にも当てはまることだと『シャカリキ!』を読めば気づくだろう。適量を超えた本気の「好き」の意味するもの、もたらすものは何か?
冒頭紹介したセリフはまさに自転車や自転車競技への愛の告白であるが、このセリフを発する際の表情は苦悶に満ち、汗は滝のように流れ、筋肉はオーバーヒートし身体は悲鳴をあげている。自分をこうまで苦しめ、痛めつけるものが「好き」?
好きなことをしている最中の人間が、そんな状態になるものだろうか。そんな状態にあるのに「好き」だと言えるものだろうか。
『シャカリキ!』をWEB検索してみると、1992年連載開始の作品にも関わらず、現在に至るまでコンスタントにレビューが書かれていることがわかる。時代を超えて人の心を揺さぶるものが、この作品には確かにあるのだと思う。しかし、先人たちにケチを付けたいわけではないが、『シャカリキ!』を語る歳によく用いられる「熱い」という形容詞にはいささか疑問を感じないでもない。
作者である曽田正人先生の意味する本気の「好き」を勝手に読み解いていき、それを端緒にして私なりに解釈するこのマンガの素晴らしさを紹介してみたいと思う。
*一部ネタバレありなのは許してほしい、決定的なことは書かないよう注意する…
なぜいま『シャカリキ!』なのか?
それは、曽田正人的エッセンスを感じると勝手に断定して評した『メダリスト』のnoteがちょっと好評だったから。曽田正人的な見方から『メダリスト』が好きな人はもしかしたら『シャカリキ!』も刺さるのではないか、刺さってしまうのではないかと思ってこんな駄文を書く決意をした。
そのほかにもいろんな理由があるけれど
暑苦しくて切なくて、狂っていて、自分には理解し得ないものに酔いしれる…そんなドラマが世にウケる時代なら、ではその大家たる曽田正人先生の作品を読んでほしいと切に願ったからだ。
汗と土埃と破滅的栄光の物語は何度も不死鳥のように「あなた」に働きかけ、突き動かすであろうと信じてこのnoteを書く。
「好き」 それは狂気
物語は主人公・テル(野々村輝)が、父親の仕事の都合で関西のとある町に引っ越してきた場面から始まる。そこはいわゆる坂の町で、車ですらそのアップダウンの連続に難儀するようなところであった。そんな町なので、自然と自転車に乗る人はほとんどいない。ましてや長い急勾配の坂を、自転車で登って行こうとする者は皆無である。
しかし、テルは両親にダダをこねてまで買ってもらった自転車を、意地でも坂の町で乗ろうとする。小学生(8歳)のテルは当然急勾配の坂を登ることは出来ないのだが、テルは諦めたりしない、失神してぶっ倒れるまで漕ぎ続けた。疲労の限界だから自転車を降りる、という常識的行動を取ることはない。この最初期のエピソードからしてタガが外れていて、象徴的だ。テルはその後、町で一番長く急な坂をも自転車で登り切り自信を得たのち、ライバルとの邂逅を経て自転車競技を本格的に志し、名門高校の自転車部の門を叩くことになる。
諦めないという一種の美徳のあらわれも、どんどんエスカレートしていき、美徳とはかけ離れて周囲を本気で心配させ、ゾッとさせることになる。テルは「好き」なこと、自転車で一番になるためならば、肉体や精神の限界を超えてなお動き続けるのだ。
テルはある時期にレース中の落車事故で、選手生命どころか日常生活に困難を来すことになるかもしれないほどの大怪我を負ってしまう。周囲の沈痛な面持ちをよそに、テルは早期の競技復帰を諦めない。本人の懸命なリハビリもあり、結果として自転車競技に復帰できるようになったのだが、それほどまでの大怪我をレース中に負った場合、肉体と同じく精神的なダメ―ジが残ってしまうのではないかと心配する周囲の人たちに
「落車は…もうこわくなくなった」
「ビョーインに行けば治してくれることがわかったさかい」
テルは真顔でこう言い放ち、心配を吹き飛ばすどころか周囲を心底戦慄させる。つまり彼は、必要とあればまたアクシデントに見舞われることになっても、その結果大怪我を負うことも受け入れているのだ。彼はプロスポーツ選手ではない、プロになりたいと思ってもいない、金銭的な報酬も名誉も眼中になくただ「好き」なもののために、肉体や精神がいくら壊れても構わないと言っているのだ。極論、死んでもいいと思っているのではないかとさえ思わされる。
序文で【自分をこうまで痛めつけるものが「好き」?】と疑問を呈したところだが「スポーツマンガとは過酷な訓練や、試合の描写があるものではないか」と逆に疑問を感じた方に、またまた逆に問い直したい。これほどまでの「好き」が、これが狂気でなくてなんだろうか。
「抵抗すべきモノがある時、あいつは最大の力を発揮するんだ!!」
これはテルの師匠が彼を語る際のセリフであるが、テルのキャラクターとしての核を見事に表している。(*曽田正人先生の主人公に共通するテーマでもある。常識や秩序への抵抗者であり、反逆者であり、そして破壊者。)
そして気づくのだ。理解ある両親や家族に育てられ、思い切りやりたいことをやらせてもらえて、自分の個性を受け入れてくれる友人にも応援してくれる人にも恵まれたテルにとって、何に抗う必要があるのかと。答えは必要だからではなく、抗うことが「好き」だから。負けることが、何より自分自身に負けること、諦めることが嫌いだから。こんなシンプル極まりない理由で自転車に肉体も精神も全て捧げるテルを「熱い」とはとても表現できない、狂っている。
「シャカリキ!」で描かれる「好き」とは、狂気である。
「好き」 それは欠落
テルは感情表現が苦手だ。ついでに勉強も、人付き合いも、身なりに気を使うことも、恋愛も、とにかく自転車に乗ること以外のおよそ全てが不得手である。主人公として多くのコマに登場するものの、セリフが極端に少ないのも特徴的で、特に他者とのコミュニケーションにおいては絶望的なまでに資質が欠けている。家族とも友人とも、まともに会話を交わすシーンはない。
「この子――― 自転車に乗れなくなったらどうなっちゃうんだろう!?」
テルが自転車のない世界でまともに生きていけるとイメージすることは私には出来ない。引用のセリフにあるように、テルの周囲の人間も彼のそのパーソナリティをよく理解している、というか規格外の行動を見せつけられることで理解させられている。彼がサイコパスやソシオパスであると言いたいのではない。観衆の歓声に心が猛ることもある、応援してくれる人への感謝の気持ちも持っている、決してテルの感受性は乏しくないが、にもかかわらず彼のモチベーションはそこにはないのだ。他者を理解できないのではなく、理解した上で切り離すことができるというのがかえってテルの人間としての欠落を強調している。
彼を構成するものの中に、余人の思いが入り込む余地がない。あまりにも自転車への「好き」が大きすぎて、「好き」に満たされすぎていていて、それ以外のものに構っていられないのだ。
テルは物語を通じて自転車競技の選手として飛躍的に成長していくものの、人間的な成長は殆どといっていいほど見られない。自己表現の手段を自転車以外に持てないまま、「好き」の奔流の中を、ただひたすら脇目も振らず、才能を煌めかせながら全力で走り抜けていく。
「もう今まで以上にまともな人間としてくらせないさ…きっと…自転車乗り以外の…!」
このような歪なキャラクターを主人公に据えるところに「シャカリキ!」の醍醐味があり、作品としての主題性があるのではないだろうか。 何かを本気で「好き」になってしまったものは、それ以外のことはどうでもよくなってしまう。
「シャカリキ!」で描かれる「好き」とは、人間性の欠落である。
「好き」 それは暴力
マンガ世界を豊かに彩る個性豊かなライバル選手たち、高校自転車部のチームメイト、そして応援してくれる家族や友人、観客たち。彼らはみなテルのことが好きだ。人間関係を構築する資質におおいに欠けるテルを、それでもそれぞれの形で愛している。
しかしテルが練習や競技の最中にみせる異常なまでの勝利へのこだわり、勝負に生命まで懸けているのではないかという熱量に、彼らは圧倒され、壊されていく。
ライバル選手たちはテルのアタックに自信を喪失したり、ペースを乱して途中棄権を余儀なくされたり、チームメイトはテルのことが理解できず混乱し、応援していた友人や観客たちも「頑張れ」という言葉すら出なくなり、もう危険だやめてくれと懇願する。まるで荒れ狂う暴風のように、周りの人間をなぎ倒し破壊していく。
「万人から愛される選手にはならない」
「文字通り"生命を削るような"―――お前のその刹那的な走り」
「常軌を逸してやがる、クレイジーすぎる」
「両手あげて"ブラボー"とさけぶ気にはとてもなれないね」
テルを評したライバル選手の言葉だ。
テルの走り、生き方は多くの人を傷つける。テルはそれをわかっていて、なお進み続ける。彼にはそれしか、「好き」なものを狂気的に追い求めることしか出来ないから。
「シャカリキ!」で描かれる「好き」とは、暴力である。
「好き」 それは引力
好きなことで一番になること、それだけを目指して生きる。スポ根の王道であるかのように見えて、その王道パターンのように、チームメイトの助けや周囲の応援に応えるために力を発揮したりはしない。途中それらしき何かが芽生えかけるものの、結局は「好き」の暴力の前に周囲の人間は破壊されていく。
それでも、テルはその姿を見たものに強烈な印象を与え、心を掴み、揺ぶる。悪魔的なまでの才能の煌めき、偏執的な努力、諦めない心(常識の欠落)…そういったものにどうしようもなく人間は惹きつけられてしまうのだ。応援したくなってしまうのだ。おそらくは、自分にはないものだから。
これほどの「好き」が誰を幸せにするのだろうか、ということをこれまで書いてきたわけであるが、それでも惹かれる人間は確実に存在することをも『シャカリキ!』の世界で曽田正人先生は丹念に描写している。どうしようもないのだ。凡人には考えの及ばない、理解し得ない人間というのは、凡人にとって蠱惑的すぎるのだ。テルは対人関係に致命的なまでの欠陥を抱えつつも、自身の才能・狂気によって、周囲の人間を惹き付けて離さない。どれだけ周囲の人間を心配させ、戦慄させてもそれでも目を離せない。
誰もがテルを放っておけない。
「シャカリキ!」で描かれる「好き」とは、引力である。
あなたはシャカリキになったことがありますか
「きっと驚くほど早いぜ…最後の瞬間は…!」
テルのような、一瞬一瞬にすべてを捧げ燃やす選手を評するに、これ以上の警句はないだろう。そんな走り方をしていると、長くは保たないということだ。そして先に紹介したように、万人に愛される選手にもならないという。これはプロスポーツ選手として致命的な欠陥だ。
でもテルはそんなことは気にしない、気にしていられない。だって自転車が「好き」だから。
「ほかの走り方はできへんし、変える気もあらへん!」
「好き」の一念でどれだけ自分の思い描くキャリアを切り開いていけるだろう。冒頭紹介した、氷の上でだけ自分を解放できる不安定な少女を扱った『メダリスト』にも共通する、読者の背筋を寒からしめるテーマのひとつだ。
テルたちの、瞬間的かつ不可逆な決意のその先に待ち受けるものはなんだろうか。明るいものだと確信することは出来ない。
それでもただただ、彼らはシャカリキに今を永遠に生きている。
自分には出来ない生き方を、自分には想像もできない熱量で生きている人間のドラマに、魂が震えないはずがない。
「好き」の暴力、欠落、引力も、そして矛盾も、すべてを内包し消化し昇華している『シャカリキ!』は、是非とも『メダリスト』ファンに読んでほしい珠玉の一作であろうと思う。
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