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50代で知った「7割で動く」という生き方——止まっていた私が、ようやく前に進めた理由

「今日も結局、自分のことは後回しだった」

夜、お風呂から出て、ようやく一人になれる時間。でもそのときにはもう、何かをやり始める気力は残っていない。明日はがんばろう、と心の中でつぶやいて、また布団に入る。

そんな夜を、何年繰り返してきただろう。

私は自営業の事務をしながら、パステル画を描き、地元の女性にCanvaを教え、noteで発信を続けている「きの」と申します。

でも数年前までは、今とは全然違う場所にいました。

不労所得に憧れて、オリジナル商品の特許を取っても売れず、文章を書こうとすれば手が止まり、SNS発信は怖くて、学んでも「まだ準備が足りない」と感じていた。年齢を重ねて、先の見通しを意識するようになってから、ようやく自分に問いかけました。

——いつまで、「整ってから動く」を続けるつもりなんだろう。

気づいたとき、もう50代半ばでした。でもそこから少しずつ、何かが変わり始めました。

同じように感じている方は、きっと少なくないと思います。やりたいことはある。時間もゼロではない。でも、なぜか動けない。「私だけがこんなに不甲斐ないのだろうか」と、落ち込んだ夜が、私にも何度もありました。

この記事では、止まり続けていた私が動き出せた理由を、お話しします。大きな転機でも、特別な才能でもありません。「完璧を手放す」という、たったひとつの選択が、すべてを変えました。

なぜ動けなかったのか——「見たくない自分」との戦い

子育て中、あるコミュニティに参加していました。そこでは自分の行動を10分刻みで書き出す、習慣づくりの課題が出たことがあります。

やってみて最初に気づいたのは、続けることのしんどさではなく、「正直に書けない自分」でした。台所に立っていても、気づくと結構な時間テレビを見ていました。洗濯物を干すだけのつもりが、要領が悪く、思った以上に時間がかかっていました。そんな時間は、「時間を使った」と意識していなかったので、書き出すことができなかったのです。

数字はごまかせても、感覚はごまかせません。「ちゃんと動けていない」という居心地の悪さだけが、じわじわと残りました。

文章を書くときも、同じパターンがありました。書き始めると「この表現で伝わるだろうか」「もっとうまく言えるはずだ」と直し続けて、気づくと何時間も経っている。絵を描くときも、背景の色を何度も重ねては「もう少し」と繰り返し、完成という気がしない。

止まっていたのは、怠けていたからではありません。「納得できるまでやらないと出せない」という気持ちが、動きをふさいでいたのです。

でも、止まっているあいだも時間は流れる。それだけが、どうしようもない事実でした。

自分の行動を直視することへの抵抗は、弱さではなく自然な心の働きだと今は思います。ただ、それに気づかないまま動かずにいると、「やらなかった年月」が静かに積み上がっていく。できない自分を責め、嫌になり、また責める——その繰り返しに気づいたことが、変化の始まりでした。

商品さえあれば広まると信じていた頃の話

40代の頃、主婦の発明で商品開発に取り組みました。オリジナルの買い物かごカバーを作り、特許を申請し、登録が認められたときは本当にうれしかった。

でも、すぐに壁にぶつかりました。

権利を持つことと、届けることは、全然別の話だったのです。誰かに知ってもらうためには、自分で発信する必要がある。ホームページも、SNSも、何もなかった私には、それがとてつもなく高い壁に見えました。

さらに、特許を維持するには毎年費用がかかります。小さな売上では到底まかなえず、最終的に権利を手放すことになりました。

あのときの私が信じていたのは「良いものがあれば、自然と広まる」という思い込みでした。準備さえ完璧なら、あとはうまくいく——そのまま全国展開を目指して、気持ちだけが先走っていた。

今思えば、「完成させること」と「届けること」は全くの別物です。どんなに丁寧に作っても、誰かに知ってもらう努力をしなければ、存在しないのと同じ。その当たり前のことに、ずいぶん遠回りをしてから気づきました。

でも実際には、激戦の市場で見知らぬ人たちと競い合うより、目の前にいる一人に届けることのほうが、ずっと早く、確実に手応えが返ってくることを、ずっと後になって学びました。

遠くを見すぎると、近くにあるものが見えなくなる。そのことに気づくのに、ずいぶん時間がかかりました。

「7割で出す」——この感覚が、私を動かした

あるとき、こんな言葉に出会いました。

「整ってから出すのではなく、動きながら整えていけばいい」

最初に聞いたとき、正直なところ「それができる人は、最初から私とは違う」と思いました。自分の文章は特別に粗い。自分の絵はまだ見せられる段階じゃない。そういう気持ちが、ずっとありました。

でも同時に、心のどこかに「もしかしたら、私にも届くかもしれない」という小さな声もありました。

変わり始めたのは、「7割できたなら、まず出す。残りは動いてから整える」という順番を、頭ではなく体で受け入れたときです。

それは諦めることではありませんでした。むしろ逆です。出してみると、止まっていたときには見えなかったものが見えてきた。「あそこが気になった」「こう直せばよかった」——そういう気づきは、動いてからしか生まれないのだと、初めてわかりました。完璧を目指して止まっていたとき、その気づきはひとつも生まれていませんでした。

考えてみれば、私たちは子育てでも料理でも、最初から完璧にできたわけではありません。やりながら覚えて、失敗しながら上手くなってきた。それと同じことが、文章にも、絵にも、発信にも言えるはずなのに、なぜか大人になると「完璧にしてから人に見せたい」と思ってしまう。その呪縛から抜け出せたとき、ずっと閉まっていた扉が、静かに開いた気がしました。

絵を描くときも、まず全体の雰囲気をざっと置いてから細かく手を入れる順番にしたら、ぐっと完成までが早くなりました。文章も、最後まで一気に書いてから磨く流れに変えたら、途中で詰まることが減りました。

「まず動く、後で整える」——この順番だけで、長年止まっていた時間が動き始めたのです。

夜をあきらめたら、朝が変わった

もう一つ、大きな転換点がありました。

それは「夜にがんばるのをやめる」という決断です。

以前は、日中の仕事が片付いたあとの夜こそ、やっと自分に向き合える——そう信じていました。ここから一踏ん張りしよう、と。

でも実際には、夜になると集中力はすっかり落ちていました。同じ文章を何度も読み返して進まない。資料を開いてもぼんやりする。ドラマを「少しだけ」と見始めると、そのまま眠くなる。

夜に踏ん張ろうとすればするほど、翌朝の体が重くなる。それに気づいたとき、思い切って「夜は何もしない」と決めました。

かわりに、朝を使い始めました。年齢のせいか、朝は自然に早く目が覚めるようになっていました。それを「あとで寝直そう」とうつらうつらするのではなく、そのまま机に向かう習慣にしたのです。

誰も起きていない静かな時間に、昨日の続きを少し進める。たった30分でも、「今日も触れた」という感覚が積み重なっていきます。

熟睡した後の頭は、夜とまるで違います。迷っていたことが、あっさり決まることがある。ぼやけていたものが、すっきり見える。同じ自分でも、時間帯で質がこんなに変わるのかと驚きました。

最初は「たった30分で何が変わるんだろう」と半信半疑でした。でも「ゼロの日をつくらない」——その意識だけで、続けることがずいぶん楽になりました。

「毎日やらなければ」と思うより、「今日も少し触れた」と思えるほうが、長く続くのだと気づきました。義務感で続けるより、習慣として体に馴染ませる。そのためには、無理のない小さな量でいい。朝の30分は、私にとってちょうどいい「触れる量」でした。

全国より、目の前の一人へ

開発商品も、パステル画も、Canva講座も、最初はオンラインで全国の人に届けようと考えていました。

でも実際にやってみると、思っていた難しさとは別の難しさがありました。画面越しの説明では、相手がどこで詰まっているかが見えにくい。操作の説明が「次の画面へ」と進むたびに、ついてきてもらえているか確認できない。

思い切って地元での対面講座に切り替えてみると、何かが変わりました。隣に座って一緒に画面を触りながら、「ここが難しいですか?」と聞ける。表情を見ながらペースを合わせられる。その安心感が相手に伝わるようで、講座後に「またお願いしたい」という声をいただくようになりました。

印象に残っている方がいます。最初の講座で「デジタルは苦手で、覚えるのが遅くて……」とおっしゃっていた方が、数か月後にご自分の講座のためのチラシを仕上げ、それを使って地元でお片づけ講座を開催されました。

連絡をもらったとき、メッセージを読みながら胸が熱くなりました。できあがったのはチラシだけじゃない。「やってみたらできた」という体験が、その方の中に生まれたのだと思ったから。

私は大勢の前に出ることが得意ではありません。でも、一人に向き合うことなら、落ち着いてできる。その「得意なこと」を活かす場所を選んだら、むしろ信頼が生まれやすくなりました。参加してくれた方が知人を連れてきてくださり、その知人がまた次の方を紹介してくださる。広げようとしたわけではないのに、静かにつながっていく感覚がありました。

全国の誰かより、今目の前にいる一人。その人に丁寧に届けることが、紹介という形で少しずつ広がっていく。遠回りに見えて、それが一番確かな道でした。

継続が、才能の差を埋めてくれた

正直に言います。私には特別な才能がありません。

文章を書くのも、人前で話すのも、もともと得意ではありませんでした。「うまい人は最初から違う」という気持ちが、どこかにずっとありました。

でも、朝の時間に少しずつ積み上げていくうちに、気づいたことがあります。

うまくなるより先に、怖くなくなる。これは予想外の変化でした。

書き続けるうちに、「出すこと」への抵抗が薄れていきました。操作を繰り返すうちに、「迷う時間」が短くなっていきました。一度経験したことは、次にやるとき少しだけ楽になっている。その「少しだけ」が、重なっていきます。

若いころは体力で乗り越えていた部分が、今は経験と判断力に置き換わっている。全部やらなくていい。優先順位をつければいい。完璧じゃなくても前に進める——そうした気づきは、経験を積んだ今だからこそ見えてきたものだと思っています。

止まらなかったこと、それだけでした。

よく「続けるコツは何ですか」と聞かれます。そのたびに考えるのですが、コツらしいコツはないのです。ただ、「やめる理由を探すより、触れる口実を探す」という癖がついてきた気がします。5分しかなくてもいい、完成しなくてもいい、下手でもいい——そうやってハードルを下げていくと、「今日はもうやめよう」という気持ちが起きにくくなりました。

特別なことは何もしていません。ただ、昨日と同じように今日も触れた。その積み重ねだけが、ここまで連れてきてくれました。

人生後半は、「選ぶ」ことで軽くなる

若いころ、前に進むとは「増やすこと」だと思っていました。できることを増やす、届ける範囲を広げる、関わる人を多くする。

でも人生の後半に入って、その感覚が変わってきました。

増やすより、選ぶ。

夜に無理しないことを選ぶ。全国より目の前を選ぶ。完璧より7割を選ぶ。朝の静かな時間を自分に割くことを選ぶ。

そうやって「やらないこと」を決めていくと、不思議と身が軽くなります。残ったものに集中できる。届けたい人に届けられる。止まっていた時間が、少しずつ動き始める。

もし今、「いつかやろう」と思い続けていることがあるなら——大きく踏み出さなくていい。ただ今日、5分だけ。こっそり、誰にも言わずに、触れてみる。

SNSに投稿しなくてもいい。誰かに報告しなくてもいい。下書きを一行書いた、それだけでもいい。「今日、触れた」という事実が残れば、それで十分です。

小さく始めると、怖さも小さい。だから続く。続くから、積み重なる。

完璧な準備が整う日を待つのをやめて、今日の自分に渡してあげる。それが、人生後半を自分らしく動かしていく、いちばん確かな方法だと、今の私は思っています。

「いつかやろう」と思いながら動かずにいた時間は、無駄ではなかったと今は思えます。あのとき止まっていたからこそ、「動くとはどういうことか」を自分の体で学べた。遠回りに見えて、それが自分に合った道を教えてくれました。

人生は、思っているよりずっと、やり直しがきく。60代になった今も、まだ新しいことを始められる。そのことを、自分の経験から信じています。

この記事を最後まで読んでくださったこと、ありがとうございます。同じように迷いながら動き始めた一人の話が、あなたの「小さな一歩」のきっかけになれたなら、これ以上うれしいことはありません。


著者:きの 1962年生まれ、岡山県在住。「7割で動く」を実践中のパステル画家・Canvaアドバイザー。

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