女に石を投げつける男たち
ヨハネ福音書8章に「姦淫の罪を犯した女性」のエピソードがある。姦淫の罪を現行犯で捉えられた女が広場の前に引き立てられてきた。そして「このような女は石で打ち殺せと律法に書かれているが、どうすべきか」と律法学者がイエスに問うのだ。
しかしこの話にはおかしな点がある。本来この律法は女性だけに適用されるべきものではなく、男性にも当然適用されるべきものである。だがそこに連行されているのは一人の女性だけであった。現行犯であるというのであれば男も連行されるべきではないか。なぜそうではなかったのか。
彼らは律法学者だと言いながら、実際のところは当時は数にさえ入れられていなかった女という存在のことなど、イエスを陥れるための道具だとしか思っていなかったということなのだろう。現代の言葉でいえば「ミソジニー」というヤツなのかもしれない。有名人の不倫が発覚した時に、なぜか女性の方が負わされるべき社会的制裁が重い気がするのは気のせいだろうか。
この箇所を説教したことのない牧師はいないだろう。偏見の誹りを覚悟でいうが、なぜこのことを指摘しない牧師が存在するのだろうか。
一方でイエスはこの女性を確かに罪に定めることをしなかった。だが最後に「これかはもう、罪を犯してはならない」という宣言をしている。このととを「これはキリストの十字架の贖いのゆえにゆるされているのだ」と説教するのは、教理的は正解なのだろう。だが私はこう思う。彼女はこれから姦淫の罪を一切犯さずに生きられたのか。そんな簡単な話ではないだろう。おそらくは何度も何度も同じ過ちを繰り返してしまい、後悔と苦しみの日々を生きたのではないか。それでもこの出来事は彼女の人生に大きな意味をもたらしたことは間違いない。やがて彼女も知ることになるのだろう。この時に自分を解放し、罪からの解放を信じた、あのナザレのイエスがエルサレムで十字架につけられて死んだことを。その時にようやく彼女の本格的な生きなおしが始まった…私はそんな風に彼女のその後を推測するのである。
(このテキストを巡る、ある説教を読んで感じた違和感をエッセイにさせていただきました)
