『沸騰する黙示録』外伝:温室の生贄(いけにえ)
第一章:摂氏六十度の空中庭園
「あまのかぐやま」が消え、太平洋が黒い粘液に染まってから四日目。
東京・渋谷の地上二百メートルに位置する、超高層ビルの最上階『天空植物園』の気温は、すでに摂氏六十二度に達していた。
地球の沸騰化(熱発)は、ガラス張りの温室を本物の地獄へと変えていた。
熱帯の珍しい植物たちは、異常な高熱と、大気中に増え続ける不気味な高濃度酸素によって、狂ったように急成長を遂げていた。見たこともない巨大な花が咲き乱れ、むっとするような甘い芳香と、皮膚を焼くような熱気が満ちている。
「ハァ……ハァ……、もう、水がない……」
植物学者の芹沢(せりざわ)は、干からびた給水タンクの前にへたり込んでいた。
彼の防護服の冷却機能はとっくに停止し、体中の水分が汗となって失われていく。地上はすでに、ビルを飲み込もうとする「黒い肉の泥流」で埋め尽くされ、エレベーターも階段も完全に遮断されていた。
この最上階に残された生存者は、芹沢と、ビルの警備員である梶(かじ)の二人だけだった。
「芹沢先生、見ろよ……これ、おかしいだろ……」
梶が震える手で、温室の中央にある巨大なガジュマルの木を指差した。
その巨木の根元には、数日前、熱中症で亡くなった他の生存者たちの遺体が安置されていたはずだった。
しかし、そこには衣服だけが不自然に散らばっていた。
遺体そのものは、ガジュマルの太い根と「ドロドロに融け合い」、木の一部と化していたのだ。木の表面には、人間の皮膚のような斑点模様が浮かび上がり、まるで脈打つようにゆっくりと上下している。
「地球の免疫システム(黒い粘液)は、大気中の霧となって、すでにこの植物園の植物たちとも融合を始めているんだ……」
芹沢はかすれた声で呟いた。
人間をウイルスとみなし、排除しようとする地球の意思。それは人間だけでなく、植物をも「抗体」へと作り変え、人類を捕食しようとしていた。
パチパチ、パチパチ。
その時、温室の至る所から、あの不気味な気泡が弾けるような音が響き始めた。
ガジュマルの葉の先から、ねっとりとした漆黒の液体が、雨のようにぽたぽたと滴り落ちてくる。
『セリザワ……センセイ……アツイ……アツクナイヨ……』
スピーカーなどない。植物の葉が擦れ合う音が、脳内で直接、死んだ仲間たちの「重なり合った声」に翻訳されて響く。
「うわああああっ! 来るな!」
恐怖に駆られた梶が、警備用の警棒を振り回しながら、ガジュマルの根に向かって殴りかかった。しかし、高濃度酸素で満ちた温室の中で、金属が激しく擦れ合った瞬間、パチリと火花が散った。
「梶、やめろ! 火花を出すな!」
芹沢の絶叫も虚しく、異常な酸素濃度によって、その小さな火花は一瞬で「爆発的な大炎上」へと変わった。
第二章:黒い抱擁、緑の熱帯夜
「ギャあああああっ!」
激しい爆風とともに、温室のガラスが一斉に吹き飛んだ。地上二百メートルの狂った気流が室内に流れ込み、炎は一瞬で植物園全体を包み込んだ。
梶の身体は炎に包まれ、激しくのたうち回る。しかし、異常なのはそこからだった。
普通なら灰になるはずの梶の肉体が、ガジュマルから滴り落ちる「黒い粘液」と触れた瞬間、燃えるのをやめ、衣服ごとドロドロの流体へと変化を始めたのだ。
「冷たい……? 気持ちいい……」
炎の中にいるはずの梶の顔から、すべての苦痛が消え去り、生々しく穏やかな微笑みが浮かぶ。彼の溶けた腕は、ガジュマルの燃え盛る根と完璧に融合し、一つの「炎をまとう異形の樹木」へと姿を変えていった。
「そうか……地球のシステムは、炎すらも取り込むのか……」
芹沢は自分の両足を見た。
吹き飛んだガジュマルの黒い蔦(つた)が、彼の足首に優しく巻き付いていた。蔦の表面からじわりと染み出す黒い霧を吸い込んだ瞬間、彼の肺の奥に、かつてない「涼しさと全能感」が広がった。
皮膚という境界が消え、芹沢の肉体は温室の床一面に広がる緑の苔や、梶だったもの、そして地球全体の意識へと溶け込んでいく。
脳内には、小笠原海溝で溶けていった美咲たちの記憶や、このビルを建てた人々の孤独が、怒涛の津波となって流れ込み、自分という個の境界線を完璧に消し去った。
熱い。いや、もう熱くない。
燃え盛る渋谷の夜空の下、超高層ビルの最上階で、人間と植物が完璧に一つに溶け合った「新世界の庭園」が、パチパチと美しい音を立てながら、静かに、そしてどこまでも優しく脈動していた。
