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耳から耳へ、語り継がれる物語(序)

古代史を調べる理由は人それぞれ。古今東西、様々な思惑から古代という時代に焦点が当てられてきました。

例えば、この島で過去に何があったのか?純粋に歴史を探求する人がいます。また、八百万の神々が存在するこの土地で、本当の神とは誰なのか?原初の神を求める人もいます。さらには日本という国の始まりはどこなのか?その発祥地を探す人もいるでしょう。

太古の昔を目指し、辿るプロセスは皆同じ。しかしその目的は人によって異なります。

僕は遺伝子に眠る記憶を思い出すためにこのnoteを書き始めました。
遺伝子とは身体の設計図。そこには祖先から幾代にわたり受け継がれた情報が多分に蓄積されています。何千年、何万年と命を繋ぎ文化を築いてきた「人類の知恵」がきちんと保存されているのです。

15年前の東日本大震災で被災した僕は、そんな遠い祖先から受け継がれてきた叡智に、急に興味を持つようになりました。

当時のことは今でもよくおぼえています。あたり一面に広がる瓦礫に埋もれた街並み、テレビからは津波の映像が流れ、予断を許さない原発の状況が逐一報道されていました。今まで経験したことのない危機的な状況下におかれ、身体の隅に眠る遺伝子が揺り起こされたのかもしれません。
同時に僕は震災を境に未来が見えなくなりました。この先の世界がそれまでと同じように進んでいくとはとても思えなくなったのです。なぜか、漠然とそう感じました。
目の前に広がっていた道のりが崩壊し、先に進めません。途方にくれ、目的地がわからなくなりました。前方には光がない。これから歩んでいくべき行程を失ってしまったのです。しょうがなく、僕は後ろを振り返りました。そうして道中を後戻りし始めました。今思えば、それはまるで旅路の途中で大事な忘れ物に気づいた瞬間だったのかもしれません。
つまり被災の経験から自分とそれを育んだ日本という土壌、両方のルーツを探るべくこの島の過去を振り返っているわけですね。
今現在、世情を見回してみるとあの時の予感はあながち間違いではなかったのかなと思います。
カオス化する世界の中で、先が見えない世界の中で、自分の軸となり支えとなる「柱」を過去に探し求めるように。

ごくごく私的な動機から発せられる僕の古代への探究心。それはあくまで個人的な活動で、ローカルな嗜好にあふれています。だから当然、この島の真の歴史を明らかするというような大それた野心はありません。
自分とは何なのか?自分が一体何者なのか知りたくて古代という時の流れをふらふらと彷徨っているわけですね。遺伝子を羅針盤にしながら。手探りで。
そんな内発的な欲求から過去に想いを馳せる僕にはどうしても避けて通れない古代氏族がいます。
「多氏」という日本最古の皇別氏族。古代を調べていると、この人たちがいつも脳裏をよぎるのです。


神社の原体験

僕の生まれた家は先祖代々同じ土地に住む家系で、関東の東国三社に囲まれた場所に位置しています。鹿島神宮も香取神宮も息栖神社も幼い頃からよく訪れた、とても身近な神社です。でも記憶の原点、神社というものを生まれて初めて体感した場所といえば、実家から一番近い茨城県潮来市にある大生神社でした。

思い出せる限り僕の最初の神社体験は、以前はこの神社で毎年行われていた夏祭りの風景です。鎮守の森を照らす屋台の灯り、香ばしい焼きそばの匂い、境内から聞こえてくる太鼓と笛の音。幼い時分ですから夏の夜に現れる非日常の空間にとてもわくわくしたことを覚えています。僕は毎年この神社のお祭りをとても楽しみにしていました。夏が来るのを心待ちにしていた記憶があります。
しかしながら、祭りはとてもにぎやかで楽しいのですが、同時になんともいえない恐怖感を幼心に抱いていました。なんとなくおどろおどろしいような、不穏な感覚を祭りの最中、ふとした瞬間に感じていたように思います。
鎮守の森から視線を感じる。誰かに見られている感覚。でもそれは人ではなくもっと巨大な存在で、空間をまるごと包み込む影のような、霧のような。とにかく土地を覆い尽くす幻影がこちらに何かを訴えかけている。でも、何を言っているのかわからない。ただただ、その圧倒的な気配を祭りの端々で体感していたのです。  
僕は毎年夏が来るたび祭りに赴き、境内でりんご飴を舐めながら、高揚感とおぞましさが同居する、不思議な気持ちになっていました。でも大人になり古代史に興味を持つようになってから、幼い頃に境内で感じたあの違和感、その理由がちょっとわかった気がします。神社や神様のことを多少なりとも理解するようになったからでしょう。

大生神社は市街地から離れたとても辺鄙な場所にある神社です。周りは田畑に囲まれ民家もまばら。でも、あの鹿島神宮の元宮とされている神社なんです。
大同元年(806年)頃に大生神社から今の鹿島神宮へ遷座されたと地元に残る古文書が伝えています。
鹿島神宮の元宮と言われる神社ですから祭神はもちろん建御雷之男神(タケミカヅチ)。出雲の国譲りの際、活躍した神様ですね。
常陸国一宮の元宮でありながら、現在はひっそりと静まり返り、参拝客もほとんど見られません。ただただ人知れずこの地にただずんでいます。しかしながら僕はこの神社に特別な感情を持っています。それは幼心に感じたあの不思議な気持ち、自分の体験からくるものです。そしていつかnoteで記事にしたいとずっと思っていたんです。

かつてこの地を支配していた古代氏族「大生(おおう)氏(多氏)」は、もともと鹿島神宮の祭祀を司る家系でした。だから鹿島神宮のタケミカヅチが現在の鹿島神宮へ遷る前に、この地で祀られていたという伝承もあるんです。多氏が常陸国にやってきた際、氏神としてタケミカヅチを祀ったのですね。そのため大生神社は「鹿島神宮の元宮」や「元鹿島」と呼ばれ、鹿島神宮と対になる重要な存在とされています。昔は大礼祭に鹿島神宮の女性祭主「物忌」(ものいみ)が、わざわざ船に乗ってやって来て奉仕を行なっていたそうです。神宮もそれくらいこの神社を特別視していたんですね。

物忌とは
物忌はその名の通り、忌み籠って不浄を避け、神側に仕えて毎年正月7日の御扉開きの夜、本殿の御内陣に入って古い幣物を出し、新しい幣物を納める出納であるが、唯一人女人の身でもって神側に仕えるため、神の妃とも解される面があった。
伊勢の神宮、加茂、春日、鹿島、香取、平野、松尾といった大社に置かれた。
初代を普雷女あまくらめといって、神功皇后の一の姫と伝えられるが不詳であり、初代の先にもあったというが名は明されていない。
当禰宜家が物忌後見職として交代に関与したが、亀卜による選定は丁重に行われた。一生独身で奉仕するため、長くは90年もつとめ、初代から明治まで27名の女性が奉仕した。きわめて神秘的な奉仕で想像を絶するのである。

『図説 鹿嶋の歴史』11 鹿島神宮と社家/図説 鹿嶋の歴史 中世・近世編 P107

神の妃と言われるくらいですから、物忌は神と意思疎通のできるシャーマン的な存在だったのかもしれません。
また神社周辺は「大生古墳群」という、100基以上からなる古墳地帯です。これは茨城県内でも屈指の数を誇ります。3世紀、古墳時代の昔からこの地は聖域として大切にされてきたのでしょう。境内そのものが古墳の上に建っているとも言われています。

もっとも古いの皇別氏族

それでは古代この地で活躍した多氏とはいったいどのような氏族だったのでしょう。

多氏は、天皇家の血を引く「皇別氏族」の中でも最古・最大級の勢力を誇った名門氏族です。歴史資料における表記も多彩で「多・太・大・意富」などと記されます。一族の中での有名人といえば古事記を編纂した太安万侶がいますね。そしてこの多氏、祭祀を司る一族としての性格を強く持っています。太安万侶が古事記を編纂したことも、神々の系譜や儀式の由来を文字として固定し、後世に残すという広い意味での祭祀活動といえるでしょう。鹿島神宮も中臣(後の藤原)氏が台頭するまでは多氏が祭祀を担当していたと言われています。
僕の「遺伝子をめぐる旅」とも言える古代史考察は、言ってみればこの多氏の痕跡を追うだけの活動なのかもしれません。そのくらい東国三社のある千葉・茨城は彼らの伝承にあふれています。いや、このへんだけではありません。全国各地にその血筋が広がっており、その活躍は地方豪族の組織化にも大きな役割を果たしました。本拠地の奈良を始め、肥後(熊本)の阿蘇氏、信濃(長野)の科野国造、阿波国(徳島)の粟国造などが多氏の系譜とされています。

多氏は、初代・神武天皇の皇子である神八井耳(カムヤイミミ)を始祖としています。
伝説では、神八井耳は本来なら皇位を継ぐべき長兄でしたが、弟(後の綏靖天皇)にその座を譲り、自らは神を祀り、天皇を助ける道を選んだのです。このため、多氏は「皇別氏族(天皇から分かれた氏族)の筆頭」とみなされてきました。

僕はこのカムヤイミミにとても惹かれるんです。まあ、そもそも多氏の始祖ですから当然ですね。とにかく地元の先住民の源流を知るにはまずこの祖先神を調べねばなりません。

カムヤイミミ兄弟が古事記・日本書紀に登場するのは皇位継承権を巡り異母兄弟から命を狙われるタギシミミの反逆というエピソードです。

この事件以降、カムヤイミミが歴史に描かれることはありません。
弟である綏靖天皇も欠史八代と言われ、古事記・日本書紀に具体的な歴史情報が記述されない第二代から第九代までの最初の天皇です。しかし「正史は語らなくとも地方は語る」この島の古代史でありがちな、それでいて僕の好きな展開が待っていました。特に兄のカムヤイミミの伝承がちらちらと各地に残っているのです。

カムヤイミミに流れる出雲の血

まずは正史におけるカムヤイミミの系図を追ってみましょう。
父親は神武天皇、母親は古事記では比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)、日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)。
表記は違いますが同一人物とされています。

このヒメタタライスズヒメの父親もまた厄介で文献によって大物主であったり事代主であったりします。まあ、細かいことは置いといてとりあえず父親は国津神であり出雲系の人物だということです。つまりカムヤイミミの母親は出雲の血を引く女神だったというわけですね。
母親が出雲系。ここにヒントがある気がしてなりません。なぜならカムヤイミミの人物像を探っていくと、どうしても出雲というキーワードがその背後にチラつくからです。

出雲といえば天孫族が来る前に大国主が治めていた地上の王国ですね。その出雲国の祖神というべき存在にテナヅチ・アシナヅチという夫婦神がいます。日本書紀ではオオナムチ(大国主)の祖父母となります。

太古の昔、出雲国にいたテナヅチ・アシナヅチは毎年毎年山から降りてきては娘をさらっていくヤマタノオロチという怪物に心底困り果てていました。八人いた二人の娘もついに最後の末娘、クシナダヒメを残すのみ。今年ももうじきその怪物はやってきます。
そこに現れたのは高天原を追放されたスサノオです。夫婦の話を聞き、哀れに思うと同時に、美しいクシナダヒメが愛しくなったスサノオは、彼女との結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出ます。
夫婦は喜んでその申し出を承諾し、結果スサノオはヤマタノオロチに勝利。クシナダヒメを娶ります。そしてこの二人の間にできたのが日本書紀ではオオナムチ(大国主)となるのです。古事記でも大国主はスサノオの6代後の子孫とされます。
スサノオは高天原から出雲に来て地上を統治しました。もともと出雲にいたわけではないのです。つまりスサノオは出雲国の地主神、その娘と結婚したから地上を統治できたわけです。であればこのテナヅチ・アシナヅチが元来の出雲国王だったんじゃないでしょうか?そんな推論が成り立ちます。
出雲口伝によれば出雲族の源流は古代インド・ドラヴィダ族であるとされていますが、そのドラヴィダ族の特徴が背が低く手足が長い。テナヅチ(手名椎)・アシナヅチ(足名椎)という名前がしっくりきますね。二人を主祭神として祀る神社に手長神社足長神社なんてのもありますし。
とにかくテナヅチ・アシナヅチは初期出雲王国を統治していた存在なのではないかと僕は考えています。そして何より興味深いのがその別名です。テナヅチ・アシナヅチ、別名を稲田宮主須賀之八耳神とか稲田宮主簀狭之八箇耳とか言うんです。カムヤイミミ(神八井耳)と非常によく似ていませんか?
八と耳。まるで母方の祖先をもじってつけられたような神八井耳という名前。これは偶然似ているとか、そういう話ではないと思います。
両方の名前に共通している「八と耳」。八は神道において無限とか神聖さを表す数字です。八百万の神だったり、八咫鏡、八尺瓊勾玉なんかもそうですね。いっぽう耳はそのまま神託を聞く力、いわゆる霊的な感性を意味します。またミという音は御霊(ミタマ)であったり命・尊(ミコト)、やっぱり神聖な言葉に用いられ、時には霊そのものをミと発音したりします。
八耳神・八箇耳・神八井耳。どう考えても特別な名前ですよね。この八と耳の名を持つ神様に、僕は天孫族到来以前の古代王権の存在をどうしても感じてしまうのです。

さて、そんな特殊な名を持つカムヤイミミですが、三重県にある太神社というこれまた多氏ゆかりの神社に面白い伝承が残っています。
この神社は主祭神がカムヤイミミ、合祀として大山祇、天目一箇、應神天皇を祀っているのですが、地元では別名諏訪明神と呼ばれているようなんです。諏訪明神といえば大国主の息子であるタケミナカタのはずです。出雲の国譲り神話でおなじみですね。カムヤイミミを主祭神としている太神社が諏訪明神と称される。これは一体どういうことなのでしょう?いずれにせよここでもカムヤイミミに出雲の影がちらつきます。

地方に残るカムヤイミミの痕跡はこれだけではありません。全国至る所でその子孫が活躍していますから、各地に散った末裔の伝承にカムヤイミミにまつわる話がちらほらと出てきます。

健磐龍(タケイワタツ)と石龍比古(イワタツヒコ)

さきほど多氏の血脈は肥後(熊本)にも広がっていると書きましたが、阿蘇神社の宮司を代々務める阿蘇氏が多氏から枝分かれした一族です。この一族は阿蘇の開拓神である健磐龍(タケイワタツ)を始祖とする人々なのですが、そもそも健磐龍の父親がカムヤイミミとされているんです。なので阿蘇氏と多氏は同族というわけですね。多氏という氏族は少々厄介で他の有名氏族、たとえば物部氏や蘇我氏と違い、名前を変えて全国に散っていくというある種独特な広がり方をします。だから調べるのに苦労するんです。でもまあ、自分のルーツですからそのへんの手間は惜しみません。

カムヤイミミの息子であり阿蘇氏の始祖である健磐龍は現在の熊本という土地の開拓に尽力しました。その物語が彼を主人公にした「阿蘇神話」にまとめられています。かつて湖だった阿蘇カルデラの水を抜いて田畑にしたとか、高さ比べでズルをした山を叩き割ったりとか、健磐龍の話はとにかくパワフルです。でも彼が出てくる話は「阿蘇神話」だけではないのです。熊本から遠く離れた関西地方、兵庫に残る「播磨国風土記」。なぜかここにも彼が登場するのです。
「播磨国風土記」には石龍比古(イワタツヒコ)という神が出てきます。あきらかに阿蘇の健磐龍(タケイワタツ)を連想させる名前です。古代の播磨国(兵庫)にも揖保郡に右の里(おほのさと)讃容郡に邑寶里(おほのさと)という地名があり多氏が居住していた事実は明白です。多氏の進出した熊本の開拓神がイワタツですから兵庫のイワタツも同様に多氏の崇敬する神でしょう。であれば石龍比古=健磐龍と見て間違い無い。石龍比古も風土記に地元の開拓神として登場します。しかし播磨国には伊和大神(イワノオオカミ)という播磨という土地そのものを作り上げた国土開拓の祖神が出てきます。この伊和大神が播磨国風土記の主役と言ってもいいでしょう。
「播磨国風土記」揖保郡(いぼのこおり)の条に記されている美奈志川(みなしかわ)の伝承によれば石龍比古は伊和大神の子とされています。

そしてこの伊和大神、風土記の中で大己貴(オオナムチ)という名前で語られることが多いんです。大己貴といえば言わずもがな、出雲の大国主の別名ですね。つまり石龍比古の父は大国主。出雲の国王です。いっぽう健磐龍の父はカムヤイミミ。
「石龍比古=健磐龍」であれば当然「大国主=カムヤイミミ」も成り立ちます。こじつけだと指摘されるかもしれませんが、僕はこの説、案外的を得ているように思います。なぜなら大国主とは個人名ではなく役職名だと、前々からそんな発想を持っているからです。たぶん現代で言えば「総理大臣」のような官職名のようなものでしょう。つまり大国主には歴代の、それぞれの人物が就任し、その時代の国づくりに邁進した。そう考えるといろいろな話がしっくりと腑に落ちるのです。
カムヤイミミは何代目かの大国主だった。たぶんそうでしょう。そもそも彼の母親は事代主の娘で出雲出身の女神です。事代主は大国主の子ですからつまり彼の母方の祖父は大国主になるのです。
出雲国の祖神であるテナヅチ・アシナヅチ。日本書紀ではオオナムチの祖父母にあたります。彼らは八耳神・八箇耳という別名を持っていました。
「八と耳」。テナヅチ・アシナヅチの名を受け継ぐカムヤイミミ。彼は国の統治権を弟である綏靖天皇に譲りました。これはある意味、神話における大国主の代表的なエピソード、「国譲り」と同様の行為です。
おそらくテナヅチ・アシナヅチも初代に近い大国主だったのでしょう。であれば子孫であり名を受け継ぐカムヤイミミも祖先と同じくこの島の国土開発に尽力した人物なのではないでしょうか?
彼を主祭神として祀る三重の太神社。ここが諏訪明神と称される理由も彼が大国主であれば納得できます。諏訪明神のタケミナカタは大国主の息子ですから。さらに言えばカムヤイミミの末裔が多氏(オオ)と呼ばれるのも出雲王家の血を引いているからでは?と、そんな発想も湧いてきます。古代のある時期までは神事や軍事といった朝廷の要職についていた多氏の経歴を見る限り、彼らが出雲王家の末裔だという考察を立てずにはいられないんです。どうしても。
ようするに多氏=王氏というわけですね。

東国に残る大国主の足跡

大国主はこの葦原中国を巡り歩き、他の神々と力を合わせながら土地を拓きました。そうして歴代の何人もの大国主が技術と知恵を各地に授けていったのです。
僕が住んでいる千葉や出身地の茨城にもかつて大国主がやってきました。彼が創建した神社は今もなお地元の人々に大切に維持され、袖ヶ浦の森の中、街を見下ろす高台にひっそりと厳かに佇んでいます。

千葉県袖ケ浦市 飽富神社
資料的にも貴重な日本の神様のみで構成された七福神図

 紀記と呼ばれる正史にはほぼ描かれることのない、権力を放棄し祭祀を選んだ王家の子。しかし彼の大国主としての功績は各地域で末代まで語り継がれ、物語として残っています。文字で記録された書物の中で姿を消しても、口伝えに語られた民話の中では在りし日の彼の輪郭が鮮明さを増すのです。

神の声を、そして自然の声を聞いたカムヤイミミ。

耳を象徴する神ならば、むしろその後の経緯を喜んでいるのかもしれません。なぜなら人の口から語られる物語こそ、受け手の記憶に深く刻まれるからです。声という音は文字という記号より人の感情を揺さぶり、心の奥深くに届くのです。
人類は文字という記号が発明されるずっとずっと前から声という音でコミュニケーションを図ってきました。つまり僕たちの脳は、長い歴史の大半を「音」を使って情報をやり取りしてきたのです。だから視覚的な記号となる文字よりも、音声言語の方が本来脳にとって馴染みのある形式なんです。
古事記で読んだ天孫降臨の話は忘れても、おばあちゃんから聞いた浦島太郎は覚えてる。それが人間というものです。

神託を聞き、それを民に広めたカムヤイミミ。まだ文字のない時代。いや、あったのかもしれません。しかし彼の教えや功績は令和の時代に至るまで口承により伝わりました。おそらくこれからも耳から耳へと物語は語り継がれていくでしょう。

祖先の想いを現代まで引き継ぐ末裔たち

「音の記憶」それは嘘の入り込む隙のない、純粋でピュアな心の響き。
僕が民話や昔話、そして音楽が好きなのも、多氏が開拓した土地に生まれたからかもしれません。これらはすべて音の文化です。
音は感情を伝えます。記号が並ぶ紙の上では消されてしまう人の想いや情動、つまり心そのものを相手に贈る機能を持っています。

音を介した記憶の伝承。耳の名を持つ神の末裔は現代に至るまで繁栄し、彼らは祖神が残した素晴らしき叡智をきちんと継承し、今もなお、人々に伝えています。
1300年ものあいだ、形式を何ひとつ変えない、世界的にみても極めて特殊な演奏で。
本来人間とは何を志向する存在だったのか。僕たちがとうの昔に忘れてしまった感覚を現代に再び蘇生するために。

「たとえ朝廷の祭祀権は奪われても、祖であるカムヤイミミの哲学だけは譲らない」

どこからか、そんな声が聞こえてきます。
彼らの音楽は「福音」となりこの世の真理を伝えるでしょう。

「音」という調和を介して、耳から耳へと。

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