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社会という戦場を生き延びるために⑥ー発達障害とその境界線

最近、SNSを眺めていると、「あの人はADHDだよな」とか、「最近って発達障害の人が増えたよね」といった言葉が、当たり前のように飛び交っているのを目にします。

ただ、そういった「語る人たち」は、たいてい医師でもなければ、専門家でもありません。精神医療に関する本さえ読んだことがない、ただの素人であることがほとんどです。私の印象では、ちょっとした言動や雰囲気から「なんとなくそんな気がする」と勝手にラベリングしてしまっているように見えます。

そもそも論、ADHDやASDのジャッジには下記の条件があります。

・ADHDやASDなどの発達障害の診断は、医師(精神科・児童精神科)にしかできない。

・医師であっても、本人の話を聞いただけで診断を下すことはできない。

・ 診断には、知能検査・心理士との面談・生活歴など多面的な評価が必要になる。

・そして何より、診断は「本人が希望している」ことが原則です。無理に進めるものではない。

つまり、精神科医でもなく、相手の同意も得ていない素人が「この人はADHDだよ」などと口にしてしまうのは、それだけで軽率であり、時に深く相手を傷つける危険な行為でもあるのです。

なぜなら、そのような「診断もどき」の言葉には、しばしば「悪口」のエッセンスが混じっていることがあるからです。

「あいつはADHD」
「空気読めなすぎてASDでしょ」

こういった表現には、
「変な人」
「迷惑な人」
「一緒にいたくない人」といった評価のニュアンスが、うっすらと漂っています。

どこかで聞いたことがありませんか?

「あいつはアホ」
「使えない」
「どうしようもない」

まるでそれと同じようなリズムで、ADHDやASDという言葉が使われているのです。

集中力が続かない。気持ちの切り替えが苦手。時間の流れ方が他人と違う。落ち込みやすい。過集中になってしまう。時間の感覚がうまくつかめない。

それらの特徴は、ただの“傾向”であって、“人としての価値”とはまったく関係のないことだと、私は思っています。

もちろん、そのような傾向が学業や仕事に支障をきたしている場合には、周囲との情報共有やサポートが必要になることもあるでしょう。

ただ、本人にほかの長所や得意分野があり、社会のなかに居場所を見つけているのであれば、わざわざ周囲が「問題のある人」としてレッテルを貼る必要はありません。

目に見える障害は、比較的理解されやすい。見た目から「困っていそう」と伝わるからこそ、自然と手助けが入りやすいのです。

たとえば、今の私。右足を骨折してギプスを巻いていますが、電車に乗れば席を譲ってもらえるし、道を歩いていれば声をかけてもらえる。ある日、整形外科の待合室で立っていたとき、白髪のおばあさんが「あなた、ここに座りなさい」と、わざわざ席を立ってくれました。

そのときの優しさに感謝すると同時に、ふと、こんなことを思いました。
「もしも、これが“見えない痛み”だったら、誰かは気づいてくれるのだろうか」と。

個人的な見解にはなりますが、ADHDやASDといった「目に見えない困難」を抱えている人は、外から見れば「健常者」にしか見えません。一方で、ADHDやASDの診断が下るような人であっても、本人が心理検査や医師の診断を望まず、社会で居場所があれば、ADHDやASDの人とは言い切れなくなります。

ADHDやASDの問題は極めてセンシティブで、その人が社会で居場所があるかどうかで大きく判断が異なる特性だと私は思っています。

だからこそ、順調なときと上手くいかないときの差が明確であり、上手くいかないときにまわりは気づきにくい。気づかないまま、「なんでこれもできないの?」「なにその態度」などと当事者を責めてしまうことさえあります。

その小さな積み重ねが、本人の生きづらさに直結し、やがて自己否定や鬱症状などの二次障害へとつながっていくケースすらあります。

私は思います。

診断されていない人を、勝手に「あの人はADHDだから」「ASDっぽいよね」と決めつけてしまうのは、たとえ悪意がなかったとしても──いや、むしろ“善意のつもり”であっても、それは「差別」であり「偏見」であると。

ほんとうの優しさとは、「その人を決めつけないこと」から始まるのかもしれない、と思った今日この頃でした。

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