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過去の下書きや書き残しを読み返して気づいたこと

最近、以前に書いた下書きや考察メモ、書き残していた文章を整理していました。

「今読み返すと恥ずかしい内容もあるだろうな」と思いながら読み始めたのですが、意外な発見がありました。

それは、問いそのものは、以前からほとんど変わっていなかったということです。

当時の私は、「経験的所有」や「主体性の事後形成」、「位相的自己」といった言葉をまだ持っていませんでした。

その代わりに、「ワンネス」や「エネルギー」、「生成」といった言葉を使いながら考えていました。

AIが生み出した文章や音楽に心を動かされたとき、

「なぜクオリアを持たないはずのAIの出力が、人の心を震わせるのだろう。」

そんな問いを何度も書き残していました。

また別の下書きには、

「思考とは、自分が作るものではなく、どこかから湧き上がってくるものではないか。」

という一文もありました。

当時は直感的な感覚として書いていたものですが、今読み返してみると、この問いは現在研究している「行為が先、私は後」という考え方につながっているように感じます。

現在、私は

  • Experience generation(体験成立)

  • Qualia formation(クオリア形成)

  • Qualia acquisition(クオリア獲得)

という三段階モデルで主体性を説明しています。

主体は最初から存在する原因ではなく、経験を取得する過程で結果として立ち上がる。

そのように考えるようになりました。

さらにAIについても、

「AIと人間は似ている。」

という漠然とした理解から、

「生成までは似ている。しかし経験的所有の構造が存在しないため、主体位相は生じない。」

という、より構造的な説明へと考えが整理されてきました。

こうして振り返ると、私の考察は方向転換したわけではありません。

問いは以前から変わっていませんでした。

変わったのは、それを説明するための言葉です。

以前は「エネルギー」や「ワンネス」と表現していたものを、現在では「構造」「位相」「経験的所有」「事後性」といった概念で記述するようになりました。

新しい考えは、ある日突然思いつくものだと思っていました。

しかし、自分自身の書き残しを読み返してみると、そうではないようです。

同じ問いを長く抱え続け、何度も言葉を探し、少しずつ概念を磨いていくこと。

その積み重ねが、ようやく一つの理論の形になり始めているのかもしれません。

だから最近は、以前の下書きや書き残しを捨てられなくなりました。

完成していないから価値がないのではありません。

むしろ、その時々の自分が何に引っかかり、何を見ようとしていたのかが、そのまま残っています。

遠回りを繰り返しながらも、同じ問いを見失わずに歩んできた軌跡そのものが、自分にとっては何より大切なのだと感じています。

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