「時間はない」という物理学者の問い。そして私は「経験」から時間を考えてみたい。
「時間は本当に流れているのだろうか。」
この問いを聞くと、不思議に思う人も多いかもしれません。
物理学者カルロ・ロヴェッリは、「時間は宇宙の根源的な実体ではない」という考えを示し、多くの人に時間を見直すきっかけを与えました。
私も、この考えには強く惹かれています。
ただ、私が時間について考える入口は少し違います。
私が興味を持っているのは、物理法則ではなく「経験」です。
もちろん、「時間はない」と言われると、多くの人はこう思うでしょう。
「でも、朝が来て、昼になり、夜になり、また次の日が来る。それを時間と呼ぶのではないか。」
確かに、そこには規則正しい状態変化があります。
太陽は昇り、沈み、季節は巡り、私たちの身体も変化し続けています。
しかし、そのことだけで、「時間そのもの」が宇宙の根源的な実体であるとは言えません。
私たちは、その規則的な状態変化を整理し、測るために「時間」という概念を使っています。
言い換えれば、自然界に確かに存在するのは状態変化であり、「時間」はその変化を理解するための尺度とも考えられるのです。
ここで、少し変な質問をしてみます。
宇宙さんは、締め切りに追われたり、「急がなきゃ」と焦ったりする存在なのでしょうか。
おそらく、そう考える人はあまりいないでしょう。
焦るのは私たちです。
「時間が足りない」と感じるのも私たちです。
だとすれば、「時間」は宇宙そのものの性質というより、経験世界の中で意味を持つ概念なのかもしれません。
ロヴェッリは、この問題を物理学の側面から問い直しました。
一方で私は、経験の側からも同じ問いを考えられるのではないかと思っています。
私たちは「時間が流れている」と言います。
でも、その時間を感じているのは誰なのでしょうか。
主観を完全に取り除いた世界で、「時間」という概念は本当に必要なのでしょうか。
私はこれまで、行為、クオリア、自我はいずれも、事後的に成立する構造ではないかと考えてきました。
行為が起こり、その後に「私が行った」と感じる。
体験が生じ、その後にクオリアが所有される。
そして、その積み重ねから、自我という位相が現れる。
ここには共通した構造があります。
行為が先、主体感が後。クオリア形成が先、所有が後。
私は、このような前後を入れ替えることのできない構造を「非対称性」と考えています。
そして、その非対称性があるからこそ、一度成立した経験は元の状態へ戻ることなく、履歴として積み重なっていきます。
つまり、そこには不可逆性があります。
もし、行為、クオリア、自我という経験のすべてに共通して不可逆性があるのなら、時間もまた同じように考えられるかもしれません。
時間が流れているから経験が積み重なるのではなく、不可逆な経験の積み重ねを、私たちが「時間」として経験しているのではないでしょうか。
そう考えると、時間は宇宙の背景を流れる川ではなく、経験世界が成立することで現れる構造なのかもしれません。
これは物理学とは異なる視点です。
ロヴェッリが物理学から時間の非根源性を問い直したように、私は経験の側から時間を見直してみたいと思っています。
もしかすると、「時間」とは宇宙そのものの性質ではなく、経験世界が成立するために現れる一つの条件なのかもしれません。
だから私が最後に問いたいのは、「時間とは何か」ではありません。
「時間は、誰にとって存在するのだろうか。」
そして、もう一つ。
私たちは時間の中を生きているのでしょうか。
それとも、不可逆な経験の積み重ねを『時間』として読んでいるだけなのでしょうか。
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