そば汁は売っても、レシピは売らない。 ―営業秘密とビジネス戦略の境界―
「そばつゆは営業秘密」
これを聞いたのは子供のころです。多分最初に「営業秘密」「企業秘密」の言葉に触れたのは「そばつゆ」でしょう。
確かに各店舗の「そばつゆ」は簡単に再現できません。
大学時代に家庭教師をやっていたお宅では、夕食を出してくれました。
ある日「たぬき蕎麦」が出てきました(出前ではなく、お母さんが作ってくれたもの)。
空腹の私は「うれしい!」「おいしい!」と頬張りました。
「おつゆ、美味しいですね」と言ったら、
「だしと醤油を適当に入れただけのインチキよ!」
とおっしゃっていました。
「インチキ!」の言葉から、そば汁には正当なレシピがあり、家でつくるものは適当に調味料をまぜたもの!という認識を持ってしまいました。
そのときも「蕎麦屋のそば汁は簡単には再現できないものなんだ」と知りました。
うちでも母がそば汁をつくりますが、やはりお蕎麦屋さんのとは一味違います。
ところが、「永坂更科」のそば汁は販売されています。
子供のころ、お中元、お歳暮の定番でした。これを見たときもひどく感動しました。
「これに漬ければ永坂更科に行ったのと同じなのよ!」と母が言ったので、「そんなことできるんだ!」と子供心に思ったものです。
営業秘密でありながら、その配合はわかりませんが、最終製品が販売されている。こんな例はたくさんあります。
営業秘密の最たるものである「ケンタッキー・フライド・チキン」だって当然、販売されていますが、調理過程での11種類のハーブとスパイスは営業秘密です。コカ・コーラもそうです。
「企業秘密」「営業秘密」
これは不正競争防止法で保護されています。
営業秘密には、「技術上の情報」「営業上の情報」があり、そばつゆは「技術上の情報」に該当します。
「製品の成分」と「製造ノウハウ」は別物
市販されているつゆを化学分析すれば、原材料(醤油、みりん、砂糖、鰹節の種類など)の大まかな比率や成分は推測可能です。
しかし、全く同じ味が再現できるわけではありません。再現できたとしても、それは推測に過ぎません。
秘伝の返し(かえし): 熟成の期間、温度管理、火入れのタイミング。
だしの取り方: 鰹節の削り厚さ、抽出時間、水の質、火加減。
ブレンド: 「あま汁」と「から汁」をどのような比率で合わせ、どう寝かせるかという手順。
これらは「技術上の情報」として、門外不出のノウハウ(know-how)として管理されています。
製品は「完成品」であり、そこに至るまでの「製造プロセス」という営業秘密は、パッケージを開けても客には見えないという構造です。
名店の味が即席ラーメンとして販売されることが多くなりました。
これを作れば本当に名店と同じ味が楽しめるのでしょうか?
答えは「Yesであり、Noである」と言えるかもしれません。
最終製品としての「味」は共有されても、その裏にある「製造プロセス(ノウハウ)」までが共有されているわけではないからです。
私たちが名店で味わっているのは、単なるスープの組成だけではなく、職人の温度管理やタイミングという「技術上の情報」そのものなのですから。
不正競争防止法上の「営業秘密」
営業秘密として保護されるためには、以下の3要件(秘密管理性、有用性、非公知性)を満たす必要があります。
①秘密管理性:レシピを厳格に秘密管理する(金庫に入れるなど)
②有用性:有用な情報であること(単なるスキャンダルや噂話でない情報)
③非公知性: 未だレシピが公開されていないこと
営業秘密として不競法で保護されるには、これらの条件を充たす必要があります。
企業秘密や営業秘密を不正競争防止法で保護するのは、その技術が企業にとっての競争力の源泉だからです。
もしレシピを盗まれて模倣品を安価に出回らせるようなことがあれば、イノベーション(または伝統の継承)への投資意欲が削がれてしまいます。
法は、企業が大切に育ててきた『知恵』を、不当な略奪から守ろうとしているのです。

