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九分の一生物語 ③

「ジョルジョルニャンニャコリーン」
 比露美が両手でトレーを持ち、足でドアを開けて入ってきた。
≪また名前をアレンジしてる≫
 ジョルジュは後ろを向いたまま、尻尾を一振りして返事に替える。
「はい、七面鳥のテリーヌ仕立て。今日はまだ金曜日じゃないけど、私の誕生日だから特別だよ」
 この言葉でジョルジュは向き直り、皿に顔を突っ込んだ。
「はい、お母さんにはこれ。大好きだったでしょ」
トレーには苺のショートケーキが二つのっている。
「もう食餌制限を気にせずに食べられるよ。お気に入りのカップに紅茶もいれてあげるね。場所が狭くて載らないから後から持ってくる。お母さんが産んでくれたから誕生日が来たんだよ。お母さん、ありがとうね。一緒にケーキ食べよう」
 ジョルジュは人形を振り向いた。
≪おい、あんたがそこにいること、比露美もわかってるみたいだぞ≫
≪あたしの横に置いてある写真に向かって言ってるのよ≫
 見ると、人形の横の写真立ての前にケーキの皿が置かれている。ジョルジュは写真の人物をしげしげと見た。
≪これが生きてた頃のあんた?左目が真っ白な三日月みたいだ。それに、ぜんぜん、太ってないよ≫
≪歳をとってからは病気と食餌制限のせいで細くなってたの。若い頃は目だって、この人形に負けないくらいパッチリしてたものよ≫
≪そんな人間いるか≫
 ジョルジュが猫パンチの真似でツッコミを入れる。
「やっぱりその人形が気になるのね。その人形はね、マリーっていう名前なの。ママが幼稚園の時にママのお母さんが誕生祝いにくれたんだよ。つまり、ジョルジュからすればお祖母ちゃんね」
≪だから、オレ、比露美の家系じゃないって≫
「だけど、結婚する時持っていくには子供っぽ過ぎるから、実家においていったんだ。そんで、ママのお母さんが床の間に飾ってて。その後、出戻ってきたら今度は私が実家の住人になって、人形は全く移動していないのに二回持ち主が変わってるんだから、複雑だよね」
≪オレはその人形に関するもっと複雑な事情を知ってる≫
 ジョルジュが訳知り顔になって、目を細める。
「ああ、ケーキおいしかった。さてと、留守電、留守電」
 比露美はスマホスタンドからスマホを大事そうに両手で抱えて持ってきた。
≪何でこのタイミングで留守電なんか聞くんだよ≫
 比露美が下を向いて肩を震わせた。
≪どうした、比露美。何、泣いてるんだ?≫
「私が会社にいる時、お母さんがよく電話で私に買い物頼んでたから、留守電に声が残ってると思ってたの。少し前に思いついたけど、自分の誕生日まで聞かずにとっておいたの。でも、残ってなかった。一定期間過ぎたら消えるってこと、考えてなかった」
 比露美の頬を涙が伝う。
≪おいおい、比露美。どうすりゃいい?そうだ、鼻の頭を舐めてやるよ。これやると、笑うだろ≫
「ああ、お鼻がザリザリする」
 比露美が少し笑顔になった。
≪そうそう、その調子。あ、でも、やっぱり泣くんだ≫
≪比露美。あたしはここにいるよ。もう、痛くも苦しくもないんだよ。だから、泣かないで≫
 比露美はハンカチで顔を覆ったまま座りこんでしまった。
「あの時は、お母さんの手を握って一人でしゃべってた。あんなに一人でしゃべるんだったら、どうしてもっとその前に話をしておかなかったんだろう。話す時間も話す内容も、いくらでもあったのに」
 ジョルジュは比露美の抱えた膝と腹の間に潜りこんだ。
≪比露美。病室にあった機械に書いてあった文字は『リュウセイ』じゃなくて『リュウリョウ』だったんだって。笑うだろ。比露美はどんな時でもそそっかしいよな≫
 比露美はジョルジュを撫でながら、続けた。
「手を握ってさえいればお母さん、どこへも行かないと思った。だから、お医者さんにあと一日もたないって言われて、早くお兄ちゃんに連絡しなきゃいけなかったのに、ずっとお母さんの手を握ってた。怖くて放せなかった。だから、お兄ちゃん、間に合わなかったの。電話したの夕方の5時過ぎで、『もう、今からじゃ鹿児島に帰る手段はないから明日の朝10時に着く便で帰る』って言われた時には、間に合うと思った。けど、お母さんの命、朝の4時過ぎまでしかもたなかった」
≪人間は潮が引く時間に死ぬんだよ。昔教えたはずだけどね≫
「紅茶入れてくるから、待ってて」
 比露美はジョルジュを抱き上げて床に降ろし、キッチンに消えた。
≪まあ、おふくろさんは急いでどこかへ行く用事もないだろうからな。ところで、なんで、買い物を頼むのに家で直接言わなかったんだ?そもそも、なんで、自分で買い物に行かなかったんだい?まさか、オレみたいにあんたも比露美に家の中に閉じこめられてたのか?≫
≪朝は思いつかなくて。あとから、ああ、そうだった、って思って電話してたの。自分で行かなかったのは、脚が弱っていたから。車の運転もできなかったし。タクシーで行くととてもお金がかかるうえに、片目が見えなくて脚もふらふらで店の中でも危ないから、比露美に頼んでたのよ。だって、あの子はどうせスーパーに勤めてるから、休み時間に買い物できるって言ってたもの
≪オレのメシも、賞味期限が近づいたのを割引で買ってきてる。近づいたって言ったって、一ヶ月以上前。匂いも味も上等なのに販売期限ルールなんて、ありがたい話だよ≫
≪…かっちゃんが間に合わなかったのはそういうわけだったの≫
≪何?ああ、几帳面で何でもものを大切にする比露美の兄貴かい?≫
≪『金曜日にお兄ちゃんが帰ってくるって言ってたから、それまでに元気になろう。何だ、元気じゃないかって、怒られるくらい元気になろう』って比露美は言ったよ。あの日はまだ水曜日だった。あたしの命が残りわずかだって知らされた後に比露美がもう少し早く連絡していれば、かっちゃんは予定をもっと早く変更してその日の飛行機で帰ってきてた。そしたら、あたしはかっちゃんに会えたんだ。あの子に一目会いたかった≫
≪目は開いてなかったんだろう?≫
≪その場にいてほしかったの。4年も会ってなかったし、電話をしても忙しいみたいであまりゆっくり話せなかったから、声が聞きたかった≫
 その時、キッチンから比露美が戻ってきた。
「はい、お母さん。紅茶。お母さんがいれる紅茶よりぜんぜんおいしくないけど」
 ケーキの皿がどけられ、開いた場所に紅茶が乱暴に置かれる。
≪おい、比露美。どうしたんだよ。すごい音がしたし、受け皿にこぼれてるぞ≫
「考えてみたら、私なんかが手を握ってるよりお兄ちゃんに側にいてほしかったよね。ほんとに悪かったよ。お兄ちゃんだけが大事なかわいい子供で、私は便利に使える子供にすぎなかったんだから」
≪比露美。ガスの青い炎を見つめながら考えごとしただろ。前の飼い主が奥さんに言ってたぞ。ガスの青い炎を見つめながら考えごとすると、ろくな考えにならないって≫
 どちらも比露美の耳に届かないとわかっているが、猫に続いて人形も必死で言い募る。
≪比露美に手を握ってもらって嬉しかったよ。手を握って歌を歌ってくれたでしょう。『♪ほろほろこぼれる白い花を向けて泣いてた愛らしきあなたよ』って。懐かしかったよ。あの歌、よく憶えてたね≫
「4年も帰ってこなかったくせに、お母さんが死んでから4日も家にいた。そんなに休みが取れるんだったら、なんでもっと生きてるうちに帰ってこないのよ。通夜も葬式も私が手配したのに、自分は何もせずに4日も」
≪あの歌、『最後まで歌えたらこっちに戻ってきて』って言って、2番まで歌ってくれたよね。戻ってきたかったけど、命の残りがなかった。ごめんね≫
「おまけにお母さんを見送った二時間後には、『この家は売りに出す』とか言い出すし。お母さんは私の知らない間に家をお兄ちゃんに生前贈与してたし。それはいいのよ。どうせ元々家は長男が継ぐものと決めていて、私が出戻ってくるなんて予定に入ってなかったんだろうから。だけど、私がお母さんの世話をし始めた時は、お兄ちゃんが定年になってこっちに戻ってくるまでは私が住んでてもいいって、お母さん、言ってたよね。お兄ちゃんには、比露美が家を乗っ取ろうとしてるから気を付けなきゃだめ、って言ったんだって?」
≪比露美。おふくろさん、全部聞いてる≫
「情けない。家の乗っ取り犯とか、そういう目で見てたの?最低だ。娘が一緒に住んでるとホームヘルパーが来ないから仕方なく娘にいろいろやってもらっているけど、本当は私に出て行ってほしいって話してたのよね。この家にはお兄ちゃんに住んでほしかったんでしょうけど、お兄ちゃんはこんな辺鄙な田舎町には二度と住む気はないんだって。私に出ていけ出て行けって言って、強制的に立ち退かせるために法律の専門家を雇うって言ってるよ。それに、夕方5時に知らされたって鹿児島行きの飛行機は7時くらいまであるはず。母親の命が残りわずかって時に、この家は売るぞって言うために権利書捜して、4日も休み取って張り切って帰って来たんだよ」
 ジョルジュはこれを聞きながら、恐る恐る人形を見た。心なしか、表情がこわばっている。
≪あー。おふくろさん。オレから一言言わせてもらうと、留守電であんたの声が聞けなかったことを、それでよかったんだと思うために、比露美は極端なこと言ってる。あれは本心じゃないってあんたもわかるよな≫
 比露美は涙目のまま、写真に向かって訴え続ける。
「『誰も住まない家は傷んでぼろぼろになるから、もうしばらくの間私が住みたい』って言ったら、『だったら、家賃を取る』とまで言ったよ。お母さんの思い出がいっぱいつまった家が、すぐにひとの家になったり逆に廃屋になって荒れ果てたりするのを見たくなかっただけなのに。お兄ちゃんは昔とちっとも変わってない。映画館で『二人で分けなさい』ってお父さんからもらったお小遣いを、私と分けるのが嫌で階段の上から道路にばらまいた時とちっとも変わってない」
≪全部嘘だ。あの子はそんな子じゃない≫
≪本当にあんたに聞こえてると思ってないのに、なんで嘘つく必要があるんだよ≫
「ずっと前から思ってた。あれは血のつながった兄なんかじゃない、怪物だ」
≪病院であたしに歌って聴かせたあの歌は、3番まであるのよ。2番までで終わりだって勝手に決めて、比露美の早合点は昔からだ≫
≪なんで、あんたまでそうなるんだよ≫
「お母さんはいつも、私が兄貴に殴られても見て見ぬフリしてた」
≪自分が憎たらしいことを言うから殴られるんでしょう≫
 ジョルジュはびっくりして人形を見た。
「なぜ、お兄ちゃんに取りあげられたものを取り返して私が叱られるの。なぜ、お兄ちゃんの好き嫌いに合わせて家族全員の晩ご飯のメニューが決まるの。長男さえ幸せなら私はどうでもいいんだ。なんで産んだのよ」
≪産むつもりなんかなかったんだ。お父さんが『もう男の子は生まれたし、せっかく喫茶店が軌道に乗ってるのにもう一人赤ん坊がいたら商売の邪魔になるから今回は堕ろせ』って言ったけど、あたしは産むって言ったんだ。だけど、こんなことならあの時お父さんの言う通りにしておけばよかった≫
≪オロセ?どういう意味だ?≫
 ジョルジュの目が見開かれ、興奮で瞳孔が広がる。
≪産まれる前の子供を死なせることよ≫
≪なんてこと言うんだよ。みぎゃーっ!≫
 タンスに飛び乗るジョルジュを見て、驚いて比露美が捕まえに走る。
「ジョルジュ、何するの!?」
 咄嗟に比露美はジョルジュにデコピンした。
「いてえ。デコピンされるようなことしてないぞ。オレは悪くない。うわ、どうなってるんだ」
 人形の目が片方だけ閉じたままになっている。
「ああ、人形が。大事な形見のマリーが。この人形は寝かせると目が閉じて、起こすと目が開くようにできてたのよ。ジョルジュが引っ掻いたせいで、左目が閉じたまま開かなくなっちゃったよ。ひどいよ」
≪中にいるヤツの言ったことのほうがひどいんだ。比露美も聞こえてたら、絶対同じことをしたはずだ≫
 ジョルジュが比露美の腕の中に拘束されて、もがく。
「大事なお母さんにもらった大事なマリー」
≪比露美、ごめん。でも、その程度のキズだったら、4日もあれば治るだろ≫
「お母さんに会いたい」
≪ああ、…そうか。やっぱり、会いたいんだ≫
「お母さんに会いたい」
≪結局そうなるんだよな。憎しみが湧いたら悲しみが引っこんで、憎むのをやめたら悲しい。でも、一度に両方来ないのが救いかもな。両方一度に来たらきついもんな≫
 ジョルジュはもがくのをやめて、比露美の腕を舐めた。
「お母さん。絶対驚かないって約束するから、天国から電話かけてきて」
≪そこにいるよ…って。あれ?え?違う。いない。おふくろさんがいないよ。比露美。いなくなった。つい今しがたまでその人形の中にいたのに≫
 ジョルジュが人形から感じていた生き物の気配が、消えていた。
「ジョルジュ。謝ってるの?わかった。私もカッとなって痛い思いさせてごめんね」
≪いや、さっきは謝ってたけど、今はそれどころじゃないんだ。そこにいたおふくろさんがいなくなったんだ≫
「ジョルジュさえいれば何も要らない」
 比露美がジョルジュを抱く腕に力を込める。
≪放してくれ。おふくろさんを捜さないと≫
「だけどね、世界一可愛いからって何でも許すと思ったら間違いだよ」
≪おおい、どこ行ったんだよ。比露美のおふくろさん≫
「私の大事な可愛いルジュ」
 比露美に頬ずりされながら、ジョルジュは家の中を何度も見回していた。

                          つづく


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