九分の一生物語 ④
「いってきます。いい子でお留守番しててね」
ジョルジュの頭を撫でて玄関へ行く比露美に、ジョルジュもついてきた。
≪オレも外へ行きたい≫
「こらこら、ついてきちゃだめ。ジョルジュはお留守番だよ。お留守番ってそれじゃないよ。それともお見送りに来てくれてるの?」
≪いや、隙をうかがって一緒に出ようと思って≫
「外なんか何も面白いもんじゃないよ。お金がいっぱいあって外で働かなくて済むんだったら、私だって一日中家にいたい。ジョルジュと一緒に遊んだり、絵を描いたりしていたい」
≪オレにとっての外は会社じゃないよ。縄張りを見回って生意気なやつがいたらどやしつけて、楽しげなものがあったらちょっと遊んで帰ってくるだけだから、出してくれ≫
ジョルジュの鼻先でドアが閉まった。
≪ああ、やっぱりだめか。いつもどんくさいのに、ドア閉める時だけすばやいな≫
リビングに戻るとジョルジュは聴き耳を立て、鼻をヒクつかせ、部屋中を見渡した。
≪近くにいるんだろ。比露美のおふくろさん。気配を消してるけど、それくらいのことはネズミでもやるよ。人形の中に入って、せっかく目がぱっちりになってたのに、また片目が閉じちまって、悪かったと思ってる≫
答えは返ってこない。
≪あのやり方はいきすぎだと思うけど、あんたの言ったことについちゃ、オレは今でも腹立ててる。猫の世界にも、パニックを起こして自分の子供を食い殺しちまう母親はいるんだ。で、正気に戻って、いたはずの子供を死に物狂いで捜して、自分のしたことを思い出して半狂乱になって泣くんだよ。あんたのあの言葉だって本心じゃないのわかるけど、言うべきじゃなかったと思ってる。比露美にどのみち聞こえないにしても≫
ジョルジュはもう中に誰もいないとわかっていながら、人形を見た。それから、家の中をあちこち歩き回って呼びかけた。
≪おおい。比露美のおふくろさん≫
「♪ グッバイジョー、ヒガラゴー、ジョルニャンコ」
(その、ジョルニャンコのところ、絶対、歌詞違うだろ)
ジョルジュが心で抗議する。もちろん比露美には伝わらず、彼女はソファに香箱座りして目を閉じているジョルジュを抱き上げて、自分が座ると膝にのせた。
「♪ねんねこにゃあ、ねんねこにゃあ。ジョルジュはいい子だ、ねんねしな」
撫でられながらジョルジュは引き続き目を閉じ、黙っている。
(人間には寝落ち前に見えるかもしれないけど、オレは今、瞑想中だ)
「♪ジョルジョルにゃんにゃん、かわいいジョルニャン」
ジョルジュが薄目を開け、すぐに閉じた。
(変な子守歌やめろ)
比露美はジョルジュの体を軽くとんとん叩き始めた。
「お母さんの心音を聞くとよく眠れるのよね。猫の心音だから、これぐらいの速さかな」
(オレをいくつだと思ってるんだ)
「私も猫になりたい。生まれ変わったら猫になるんだ。人間はもういや。うんざり」
(また、何かいやなことがあったんだな)
「誰も私を好きじゃない。私がいる意味なんてないんだ」
(愚痴は後から聞いてやるから、今はそっとしといてくれ)
ジョルジュは、比露美の膝にのせられる時に崩れた香箱座りをやり直した。
「やっぱり、この季節になると丸まって寝るんだね」
(瞑想に最適なスフィンクスのポーズと呼んでほしいな)
「あおむけで寝てたこともあったよね」
(ああ、あれか。あの時は暑かったからな。あの、『あおむけ開脚ナナメバンザイ』は夏季限定ポーズだ)
「ジョルジュの寝顔、大好き。幸せそうだもん。口角が上がってるから、笑っているように見えるだけなんだろうけど」
(だから、オレは今、寝てるんじゃなくて瞑想中だ)
「お母さんの言ってた通りだ。誕生日なんか来なくていい。誕生日のプレゼントなんて、結局悲しいだけだ。お母さんは私よりあの人形の方が可愛かったんだよ。自分のものになったと思ったら張り切って、子供用の可愛いアクセサリーを着けさせて、まだ目が両方見えた頃には手作りの服とか着せ替えて、赤ちゃん用の靴下買ってきて穿かせてた。そんな人形のある部屋で、一人で祝う誕生日なんて最悪だ」
(一人ねえ…。あの時は一人どころか、三人いたんだぜ。『にん』って言うのも変だけど)
ジョルジュは声に出さず心で言い続け、比露美はかまわず喋り続ける。
「ジョルジュの誕生日いつ?本当は何歳なの?あの時、お医者さんは4歳か5歳って言ってたけど」
(オレは5歳だったのに、比露美が一緒にいられる時間をなるべく多く見積もろうとして、最終的に4歳ってことにしちまっただろ)
「お母さんから誕生日のプレゼントもらったことある?」
(0歳の誕生日に世界をもらった)
「ジョルジュは本当に可愛いね。ジョルジュが私にとって、毎日もらえる贈り物だよ。ジョルジュがいればこの世はバラ色。ジョルジュがいないとこの世は灰色。ちっっちゃな猫が世の中の色を変えるなんてすごいことだよ」
(寝てると思うわりにはぐいぐい話しかけてくるな)
「だけど、爪とか牙とかあって、やっぱり先祖は怖い猛獣だったんだなって思う」
(食事の席でナイフを持つ野蛮な戦闘民族に言われたくないなあ)
「こんな小さな体を自分で守るためには、爪と牙は絶対に必要だね。野性の時は生きるために狩りもしてたわけだし。でも、動くものを追いかけて爪をひっかけるのはわかるけど、まさか人形を引っ掻くなんてね」
比露美は片目が閉じたままの人形を見た。
≪4日もあれば治ると思ったけど、全く治らないな。中に誰もいないからか≫
ジョルジュが鳴き声を出したので、比露美は人形から彼に視線を移した。
「あれ、目が覚めたの?」
≪いや。瞑想をあきらめただけだ≫
「周りをちょろちょろするとくっつくから、ジョルジュを熟睡させてその間に白髪染めしようと思ったのに」
≪それがオレにくっついて、どんな変化があるって言うんだ≫
「ねえ、ジョルジュ。猛獣の親戚と見こんで頼みがあるんだけど」
≪何?≫
「ママのお父さんもお母さんも死んじゃった。大好きな誰かが死ぬのにはもう耐えられないから、ジョルジュの死期が迫ったらその爪と牙で私を先に殺っちゃってくれない?」
≪わかった。狩猟以外の殺生は猫の世界では禁じられているが、死期を同じにするためなら神様も許してくれるだろう。頚動脈の場所なら知ってるし。この次に生まれる時は比露美も猫になろう。そして、どこかで一緒に生まれよう。そしたら、泣いてる時に鼻の頭を舐めるだけじゃなくて、猫語で慰めてやれる≫
「ジョルジュがその後で人間に何かされないように、一筆書いておいたほうがいいかな。黒猫だから偏見の目で見る人もいるし、目の敵にしてる人までいるからね。黒猫は不吉だっていう説もあれば、黒猫が幸福を運んでくるっていう説もあるよ。私にとっては黒猫が幸福そのものだから、どっちでもいいけど」
≪何かされるまでおとなしく待ってるようなオレ様じゃないぜ。たとえ、死期が迫っていようとな。それより、比露美も猫に生まれ変わるんだったら覚悟しておいたほうがいいぞ。ネズミの死骸を見て悲鳴をあげて座椅子の背もたれの後ろからおそるおそるのぞくとか、そういう神経じゃ生きていけないからな。大体、あのネズミ、ひとがせっかく獲ってきたのに、失礼だろ≫
「その上目遣いがまたキュート。せっかく動かずにいるんだから、一枚クロッキー描かせてね」
比露美がソファの横のマガジンラックからスケッチブックを取り出した。
≪やだ≫
ジョルジュが比露美の膝からソファに降りて隣のスペースに寝そべった。
「なんで、そこで急に『あおむけ開脚ナナメバンザイ』なの?」
≪季節はずれの特別サービスだ≫
比露美は仕方なく、スケッチブックを元に戻した。
「そんな格好、絵に描けないよ。猫としてのリアリティがないもん」
≪そこが狙いだ。クロッキー描いたら、その後、キャンヴァスに描くだろ。キャンヴァスの置き場所がなくてまた壁に立てかける。そうすることによって、オレの遊び場がどんどん狭くなる。だから、オレは絵を描く妨害をすることにしたんだ。比露美が目を離した隙にパレットから放射状に広がってるカラフル肉球スタンプは、偶然の産物じゃないぜ≫
「レオナール・フジタや熊谷守一みたいな、いっぷう変わった素敵な猫の絵が描けるかもね。フランスにはモンマルトルの丘っていう所があって、画家が思い思いの絵を描いたり売ったりしてるんだよ。画家たちはオープンカフェで芸術論を闘わせてるの」
≪併設の喫茶店跡スペースは、比露美のアトリエだけど俺の縄張りでもあるんだ。出入り口に立てかけてある百号から五十号までのキャンヴァスはまあ、あのままでいいよ。高低差があって、遊び場にちょうどいい。一番上からガラス戸越しに外も見えるし。でも、他の場所にはもう置かないでくれ≫
「ピカソやブラックが共同生活してた建物の名前は『洗濯船』っていうんだよ。火事で焼けてもう正面玄関しか残ってないの」
≪洗濯の話より、掃除と片づけだよ。キャンヴァスはたまっていって通路をふさいでるし、昔椅子とテーブルがあったとかいうフロアは絵を描く場所を除けば、おふくろさんの思い出の品が無造作に積み上げられてて歩きにくいし、うっかりのると崩れるし。とにかく足場が悪くてかなわない≫
「フランスは本当に素敵な所だよ。ジョルジュにも見せてあげたいな」
≪日帰りできるなら行く≫
「ジョルジュがおとなしく……飛行機…だったら…」
≪何?比露美。よく聞こえない。声が遠いよ≫
ソファの端から落ちかけるジョルジュの頭を、慌てて比露美が手で支えた。それから、横向き寝のポーズにして背もたれに近い奥にそっと押しやった。
「チョロ吉」
ジョルジュの耳に、遠くからかすかに声が聞こえてきた。
つづく
