九分の一生物語 ⑤
声の主を思い出すと、ジョルジュはそちらへ駆け出した。
≪何?加代さん≫
ジョルジュは黒土の土間から石の踏み段を飛び越えて上がり框に着地した。
「勲さんを迎えに行ってくるからね」
割烹着をはずしながら、老婆が声をかける。
≪早く帰ってきてね≫
「あんなに大勢で見送ったのに、帰ってきて誰もいなかったんじゃ寂しかろう。駅員もいなくなって人が誰もいないんだよ。無人駅なんて誰が考えついたのかねえ」
≪勲さんて、シベリアから帰ってくるんだよね。シベリアって外国でしょ。加代さん、毎日迎えに行くけど、外国から日帰りできるの?≫
「せっかくお国のために闘って、戦争が終わってから捕虜に取られるなんてねえ」
≪センソウって縄張り争いの殺し合いのことでしょう?それを知らないうちはオレ、人間は猫より利口だとばっかり思ってたよ≫
「いつもネズミ退治に精出してくれるから、帰りにチョロ吉の好きなかつお節を買ってくるよ」
老婆は目を細めてジョルジュの頭を撫でた。ジョルジュははじかれたように跳び上がった。
≪かつお節?かつお節って言った?加代さん、だめ。行っちゃだめだ。この『生』なら憶えてる。たしか、加代さんが吊り橋の下の谷底から、かつお節の入った袋と一緒に遺体で発見されるんだ≫
「おや、まあ。チョロ吉、そんなに喜んで。でも、かつお節は今あげるんじゃなくて帰ってきてからだよ」
≪行っちゃだめだ。加代さん。帰って来れなくなるんだってば≫
老婆の後姿に向かって、ジョルジュは必死で呼びかける。
「ジョルジュ、それ、目やに?涙?」
目の前にビニールキャップをかぶった比露美の顔があった。
≪不覚にも比露美の術にはまって寝てしまったらしい≫
「この白髪染めの刺激臭のせいかな」
ジョルジュはのびをし、後ろ脚で耳の後ろを掻いた。
≪結局、白髪染めができるくらい長々と寝てたのか、オレ≫
「まだ寝てていいよ。今度はクロッキーやるから」
≪もう寝ない。またあそこに戻るのは嫌だ。今度オレが寝たら、比露美も夢の中に一緒に来て加代さんを引き止めてくれ≫
「そうだ。白髪染めを洗い流さなきゃいけないんだった」
比露美はガス給湯器のスイッチを押した。
≪濡れた毛なんか、ちゃっちゃっと舐めて乾かしゃいいだろうに≫
浴室に行きかけた比露美がふり返る。
「ジョルジュも一緒に来る?そうだ。久しぶりにお風呂に入れてあげようか?」
≪そんなに、猫の浴室内乱反射運動が見たいか≫
「ちょっと一人で寂しいだろうけど、待っててね」
比露美は浴室に消えた。
≪ごゆっくり≫
ジョルジュは再び、思い切りのびをした。
≪ああ、ヒマだ。瞑想の集中はもう切れちまったし、ネズミの玩具はゼッタイアンセイだし、だいいち、比露美が動かさないのにつんつんやって楽しくもないし≫
≪絶対安静?≫
タンスの方から聞き覚えのある声がした。
≪オレが噛みちぎったから瞬間接着剤でくっつけて、触らないようにタンスの一番上の引き出しに入れてあるってこと。ああ、比露美のおふくろさんか。どこ行ってたんだい?≫
≪かっちゃんのところへ行ってたの。体がないと、生きてる時に行ったことのある場所なら意外に簡単に行けるもんだね≫
≪元気そうだったかい?≫
≪いなかった。ヨーロッパ周遊旅行に行ってるんだって。留守番を頼まれてる友だちらしい人が、携帯電話で誰かに話してた。この家の住人は今、お金持ちの女の人と二人で旅行中だとか、ベランダの家庭菜園を任されてて、ヒヨドリ避けに植えてあるトリカブトの効き目がどうとか笑いながら話してたから、聞くのがいやになってもう帰って来たの≫
≪ヨーロッパってフランスとかだよな。比露美がよく、話してくれる≫
≪あの子は外国へ行った事はないんだよ≫
≪え?でも、よく思い出話をしてくれるよ≫
≪行ったことがあればいいなと思ってるうちにあの子の中にできた、偽ものの記憶よ。あの子は嘘つきだと昔思ってたけど、そうじゃなかった。自分がこうだったらいいと思うことを、自分に信じこませてしまうみたいなところがあるの。あの子は昔、英語が得意でね、アメリカ留学の話があったんだけど、あたしが行かせなかった。絵画展でパリ賞をもらって一年間フランスへ行くはずだったけど、その時もあたしが行かせなかった。だって、外国なんて何が起こるかわからないし、危ないと思ったから≫
≪なるほど。比露美の過保護はあんたに似たのか≫
≪今の会社は経費削減で従業員が削られて、ちょっとでもまとまった休みを取ろうとすれば『だったら一回辞めて下さい』と言われるらしいのね。だから、比露美はあきらめて、もう行って来たことにしてあなたに旅行の思い出話をするのよ。こんなことなら、あの時行かせてやればよかった≫
≪一つ聞きたいと思ってたんだけどさ、比露美が生まれてよかったと思ってるんだよな≫
≪あたりまえじゃない。すばらしい子供たちの母親になれてよかったと思ってるよ≫
≪比露美も兄貴のほうと同じくらい大事?≫
少し間が空いて、一瞬ジョルジュはまた比露美の母親が人形から出て行ったかと思った。
≪わからない。そうだと思うけど、でも、家にいた頃何でも言うことを聞いて、頭がいいって学校でも褒められてた子と、世話の焼ける泣き虫な子と全く一同じに接するって、難しいんじゃない?動物の世界もそうでしょう?何かで読むか、テレビで観るかしたよ≫
≪脳味噌の少ない鳥の連中とかはそうだろうな。自分の子もひとの子もわからずにすり替えられてそのまま育てたり、巣から兄弟に蹴りだされて一羽地面に落ちても気づかないで死なせたりするらしい。猫は違うよ、少なくともオレのおふくろは違った≫
≪比露美はね、いるのがあたりまえで慣れっこになっちゃってたの。かっちゃんは遠くに住んでるから、四十にもなって独り身で、ちゃんとご飯食べてるかな、病気してないかな、って絶えず気にかけてた。電話で話して、比露美のこと悪く言ったのも本当よ。比露美があたしの為に休みが取れなかったりするとそれを不満に思ったり、ささいなことで腹を立てたりした気持ちを誇張してね。比露美があたしのこと大事にしてないみたいに言えば、心配して帰ってくるだろうと思う気持ちもあった。馬鹿なことしちゃった≫
気分を害した時の癖で、ジョルジュの耳がやや後ろに寝た形になった。
≪非礼を承知で言うけど、本当に馬鹿だ≫
≪喫茶店が忙しくて、小さい時にあまりかまってやれなかった。この人形にしてあげたことはみんな、比露美が小さい時にしてあげたかったことなんだよ≫
≪それをどうにかして比露美に伝えること、できないのかい?≫
≪無理よ。どうやってみたって、あたしの声は聞こえないんだから。生まれ変わって、また比露美と親子になれたら、今度はちゃんと…≫
≪あいにくだけど、比露美はもう人間には生まれてこない。次はオレと一緒に、猫になるんだ≫
人形の目が大きく見開かれたように見えた。
≪そういう未来を見たの?≫
≪いや、まだ≫
≪それもいいかもしれないね。比露美のこと、大事にしてやってね≫
≪もちろんさ≫
≪あたし、もう行かないと≫
≪比露美の兄貴のとこかい?≫
≪いいえ。もう、こっちの世界にはいられないみたいだから≫
≪そうか。生まれ変わりの時が近いんだな。最後にもう一回、ヒブンショウ出してくんないかな≫
≪いいよ≫
人形が少し遠くを見る目になり、続いて部屋中に小さな生き物があふれた。ただ、ジョルジュが前に見た黒い生き物とは違っていた。ジョルジュはかまわずそれに跳びかかる。
≪わあ、すごい。何だ、これ。ひょいっ、それっと≫
≪ああ、赤とんぼが出てきたね≫
≪赤とんぼか。こんなにたくさんいると、何か別のもんみたいだよ≫
≪こんなにたくさんいたのよ。あたしが小さい時。お母さんに内緒で遊びに行って、でも、心配してるんじゃないかって急に不安になって走ろうとしたら道がわからなくなって、すごくたくさんいる赤とんぼの後をついて行ったら家に着いたの。一番上の姉さんにそれを話したら、昔、空襲警報が聞こえてきた時がそうだったって言ってた。すごいたくさんの赤とんぼがいて、飛んでいく方向に走ったら、防空壕があったんだって。赤とんぼはご先祖様の霊を乗せているから、守ってくれたんだと思ったって≫
≪よくわかんないけど、じゃあオレ、こいつら獲っちゃいけないな≫
≪いいよ。ここにいる赤とんぼはあたしが出してるんだから。さあ、もういい?もう、おしまいよ≫
≪良い来世を≫
≪何?≫
≪猫族の最後の挨拶だよ。相手に後いくつ『生』が残ってるかわからないし、ラストの九つ目かもしれないけど、必ず言うんだ。『良い来世を』って≫
≪ありがとう。比露美流に言うなら『グッド・ラック』とか『ボン・ボヤージ』ってところかね≫
≪ぼんぼんおやじ?≫
≪うーん。少し違うと思う。あなたは元気で、比露美のために長生きしてやってね≫
≪もしどこかで、昔加代さんだったって人に会ったら、チョロ吉は今はチョロ吉じゃないけど元気でやってるって伝えてくれるかい?≫
≪加代さんね。わかった≫
遠くの方から、またジョルジュの頭の中に声が聞こえた。
「ミーニャン」
≪何?≫
「ミーニャン」
≪比露美。いくらなんでも、ミーニャンはアレンジしすぎだろ。いや、オレは今、しっかり目が覚めてる。てことはもしかして≫
「ミーニャン」
≪比露美じゃない。誰だ。もしかして。オレの現世は別にあって、ジョルジュって名前は夢の中の別の『生』か?≫
「♪ジョルジョルニャンニャコリンカリンコリンカリン」
髪をタオルで拭きながら、風呂場から比露美が戻ってきた。
≪ああ、びっくりした。アレンジ以前に何語だよ、それ≫
「そういえば、お母さんもこんなふうに変なメロディつけて私の名前を呼んでたことあったな」
≪比露美。オレ、安心したらまた眠くなってきたよ。オレをミーニャンって呼ぶ男の子が、次の夢の中で待ってるんだ。オレが寝てる間、好きにクロッキー描いていいから≫
完
