『シュレーディンガーの男』【第23話】~【エピローグ】
二〇二五年現在。二月九日(犯行より三年後)
「以上です」と佐山はアクリルの向こう側の針村に告げた。
「私は非人道的な罪を犯しました。ですが何度も言ったようにこのことを後悔はしとりません」
「佐山さん、差し入れを一箱もらいますよ」と針村はカートンの箱を開け、一本くわえた。電子タバコではない、久しぶりの紙煙草だった。後で誰かに注意されるかもしれなかったがもうどうでもよかった。
「その話を信じろと?」
「まさか。何度も言ってるように信じてほしいとは思っとらんですよ」
「……」
「幻滅されましたか? せっかくはるばる来てもろうたとに、まだこんなたわ言をいけしゃあしゃあと言うか──と」
「『どうせ誰も信じちゃくれん』ですか。なるほど、確かに馬鹿げた話ですな、こりゃ」
針村は一点を見つめ煙草を深く吸い込むと煙を吐き出した。
「ですがね佐山さん。私は、どちらかといえば取り調べの時のあなたの方が”いけしゃあしゃあ”と感じてましたよ。まったくもって馬鹿げた話ですが、こちらの方が全てが繋がるんです。自分の中の疑問──辻褄が合ってしまうんですよ。悔しいことに」
「針村さん、こんなことをしても私はまだ、人間なんですかね? 獣ではなく」
「まだもなにも──佐山さん、人間てのはね、そうそう簡単に人間以外にはなれないようにできてるんですよ」
「しかし私は確かに一度獣になりました」
「それでも人間なんですよ。こう言ってはなんですがね、佐山さん。私もそりゃあいろんな人間を見てきた。私にとっちゃ滝谷ですら人間なんですよ。ある意味では逆に最も人間らしい人間なのかもしれません。これもまあ、本当に、悔しいことに──ですが」
針村は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「人間なんてのは実際のところ佐山さんが思うほど崇高なものじゃないんですよ」
佐山には針村のその言葉が自分に対する糾弾のようにも思えたが、またどこかでエールのようにも取れた。針村が自分の言ってることをどこまで信じ、どこまで信じてないのかもわからなかった。
「あの……」
「御存知とは思いますが我々は目に見えていることだけが全てです。そう叩き込まれてますからね。ただ……」
針村は気にせず二本目の煙草に手を伸ばした。
「その目に見えないことが今回はあまりにも多すぎた。例えばここに蟻がいるとして、私がそいつをつまみ上げ、こちら側に移動したとして、その蟻にそのことがはたしてわかっているのか?──なんてことは考えたりしますよ。今日みたいな非番の日にはね」
刑事なりの、針村なりの共感の言葉なのだろうか。その言葉の奥底までは見えなかったが佐山にはそれでよかった。
「刑事さん、私は最近、今日という日が本当に昨日の続きなのか……時間ちゅうもんが本当に一方向だけに進んでいるものなのかよく考えるようになりました。例えば私はたまたま気付いただけで、実は他の人にも起こってるんじゃないか──とか」
「ほう」
「あの時もっとああしてればよかった……例えばそんなとき神様が人間という蟻を上からつまみ上げてあちらからこちらへ将棋の駒のように移動してくれたとしますよね。でもそれに気づかなければその人にとってはそれが初めての一日なわけですから。結局は皆、以前と同じ行動を取ってしまい、同じ後悔を繰り返し続けてるのかもしれない──そんなことを」
「百歩譲って私がいまの話を信じたとします。だとしても他に選択肢はなかったんでしょうか?」
「娘を付け回してる男がいる──そう警察に話せばよかったと?」
「いえ、それでは警察は動かないでしょうね。“まだ何も起こって”ませんから。結果論なら何とでも言えますが。そこは申し訳ないと思ってます」
「実は自分が怖くなったのはそこなんですよ。先ほど選択肢とおっしゃいましたが、例えば穂波がさらわれるのを待って、それから警察に届ければよかったんではないか。そんなことも考えました。だって滝谷の居場所は──穂波が監禁されてる場所はわかってるわけですからね」
「そんな危険を娘さんを負わせるわけにはいかなかったと」
「それもありますが……実際のところね、私はあの男に“復讐”がしたかったのではないか、そう思うこともあるんですよ。痛めつけ、穂波と同じ目に合わせてやりたかったのではないか──そんな考えが頭の片隅にあったのではないかと」
「……」
「それこそが私の背負うた罪だと思うちょります」
そう吐き出すと佐山は何かに怯えるように深く目を瞑った。
「佐山さん。それでも私は、どうしてもあなたが悪人や見えんのですよ。どうです、ひとつ私を信じさせてくれやしませんか? その話が本当なら何かあるはずだ。私を信じさせるような決定的なヒントが、何か」
「そのことですが……実は私もひとつお願いがあるんです」
佐山は少し考え、アクリル板に顔を近づけ針村に囁いた。
それはこんな内容だった。
「私がかつて過ごした時間、娘が誘拐された世界軸と言いますか……本来なら滝谷は娘を殺した後、怯えて現場から逃亡し、その四日後に静岡の伊東で捕まりました。それが今年、二〇二五年、二月十日のことです」
「明日ですね」
「午前五時十五分頃、疲労と衰弱で路上に倒れている男が発見され警察に通報されました。男は自殺を図ろうと試みたのか血だらけだったそうです。それが滝谷でした。その第一発見者の人が、今でもはっきり覚えてます、塩崎裕之という二十八歳の方です。たまたま出張で静岡にいて車で通りかかったそうです。今現在、こちらの世界軸では滝谷はこの世にはいません。そう、私が殺しましたからね。でもその発見者の方はやっぱりその時間、その道を車で通ると思うんですよ。そう思うと居ても立ってもいられなくなってきて……」
自分自身が狂ってないことを確かめたくもある──佐山はそうも言った。ひょっとすると一人だけでもいい、誰かに信じてほしいという気持ちをずっとずっと獄中で抱えていたのかもしれない。針村はそう考えていた。
【エピローグ】
ヘッドライトが迫ってくるのが見えた。午前五時十五分。佐山の話が本当ならば滝谷が逃亡し倒れていたであろうはずのその地面で──針村はにじるように煙草を踏み消した。走ってくるその車の前方に飛び出し、大きく手を振り停車させると手帳を見せて運転席に近づく。
「警察の者です。いえ、なんでもありません。少々お聞きしたいことがあるだけでして。失礼ですが『あなたのお名前と年齢』を聞かせていただけませんか?」
男は不思議そうな顔をして「塩崎裕之。二十八歳ですが」と答えた。
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