【紫陽花と太陽・中】プロローグ 入学式[2]
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目の前のあずささんは真剣にピンセットで名前シールをクーピーに貼り付けているところだった。俯いた目元から見えるまつげが長くてお人形さんみたいだ。
「どうした?」
修行……学用品の名前付け……作業の手が止まっている僕にあずささんが気が付いて尋ねてきた。
「あ、ごめん。さすがにちょっと集中力が切れてきた」
「そうだな」
「こんなにいっぱい物を使うんだねぇ」
「どれもこれも、クラス全員が……いや学校全員が同じものを使うとなると、名前がないとあっという間になくなってしまうな」
「んん……そうだね」
「休憩にするか。明日に回してもいいし。お茶でも淹れるか?」
あずささんも手を休めて、肩と首を揉むような動きをした。
「肩こるよね。肩、もんであげようか?」
「本当か⁉︎」
僕はわりと冗談で言ったのだけど、あずささんが嬉しそうな顔をしたので戸惑った。
……え、これ、本当に僕はあずささんの肩をもむのかな。
「遼介の手は魔法の手だから、すまないがやってみてくれるか?」
「魔法の手?」
「うん、遼介が背中や痛いところををさすってくれると、とても気が楽になるんだ」
「へぇ……そうなんだ」
そう言ってあずささんが椅子を少しずらして、僕に背を向けた。肩を触れるように。
僕は内心焦りながらあずささんの真後ろに立つ。……ええと、本当に触っていいんだよね? 怖がったりしないよね?
なかなか僕が肩もみをしないので、あずささんが不思議そうに振り返ったが、あ、と呟いて後ろに流れていた髪の毛を前にサッと持ってきた。
「すまない、やりにくかったか」
「いや! 全然」
少し緊張しながら、そうっと両手をあずささんの肩に乗せた。椿にはくすぐりっこの要領で肩をもむことはあるけど、小さい子は肩なんて凝らないし、くすぐったがってクネクネして結局くすぐり遊びになるのだ。同じ年の、しかも女の子の肩には触ったことがなく、無意識にドギマギしてしまう。最近僕はあずささんの近くにいるとこんな風になってしまうのだ。
「ひゃんっ」
二度三度手を動かしてみたら、あずささんが叫んでしまった。
「わぁ、ご、ごめん! 痛かった?」
「ち、違う……」
どうやら力を入れなさすぎてくすぐったかったらしい。少し力を込めて、もんでみる。
「あ、気持ちがいいな」
「良かった」
女の子の身体は柔らかい。肩も、凝っていると思われるところとそうでないところで、硬さが全然違うことに気が付いた。
「ここ凝ってるね」
ちょん、と強張っているところを指でつついたら、あずささんの肩が跳ね上がってしまった。心なしか耳が赤くなっている気がする。
「ご、ごめん。凝ってるポイントが分かってきたからさ」
「そ、そうか……」
なんとなくお互い無言で肩をもんでいく。あずささんの耳はずっと赤いままだ。
五分ほどもんでいただろうか、あずささんの両手が力強くぎゅうっと握られているのが見えて、これじゃあ肩こりは治りそうにもないなと思って諦めた。
「遼介の肩も、やろうか?」
僕の心臓がドキンっと跳ね上がった。ブンブンと頭を横に振って辞退する。それだけだとあずささんがしゅん……と項垂れてしまうのが分かっていたので、あわててお茶を淹れてもらうようお願いも追加した。
「ほうじ茶がいいか?」
「うん、ありがとう」
あずささんは嬉々として台所に歩いて行った。僕は心の中でそっと詫びる。彼女に肩なんて触られたら僕の心臓はどうなることか。
少しずつ大きくなっていくよく分からないこの感情を、僕は持て余している。
分からない? いや、それは嘘だ。
僕はあずささんを好きになっている。
あずささんが好きだ。
椿や剛に対しての好きとは違う、特別な感情の、好き。
時々心の奥底の箱から現れるこの感情に、僕は急いで蓋をする。
蓋をして、鍵をかけて、紐でぐるぐると縛って、風呂敷みたいな布でさらに包む。
あずささんは本当の家族みたいだけど、本当の家族ではない。
あの男の元で生きていくことが難しくなったから、僕の家で一緒に過ごしているだけの女の子だ。いつか、彼女は自分の力で生きていく道を切り開いていかないといけない。
この家は彼女が一人で生きるための安心して過ごせる土台だ。
家族で決めた『あずささんのおやくそく』と父さんからもらった『お願い』。僕はどちらも事あるごとに頭の中で反芻する。
『あずささんのおやくそく』
一、お兄さんに住んでいることを知られないようにする
二、剛には言っていい でもクラスメイトには言わないようにする
三、学校は、今まで通り行く
四、縛られない
最後の四番目は、つまりは「あずささんは自由だ」ということだという。
自分の気持ちも、行動も、人生も、全部自分で決めていける、ということ。
自由っていいなぁって、最初は僕は呑気に考えていた。たった四つの『おやくそく』は、僕でも分かりやすいように簡単で短く、父さんが考えてくれたものだ。でも成長と共に、自由に生きていくためには、たくさんのことを知って、勉強して、経験して、他にもいろいろやる必要があるんだって気が付いた。ぼーっとしているだけでは生きていけないと思う。いつかあずささんが僕の家を出る日があっても、住む家を決めたり住めるように手続きができるようにならないと、自由に、生きていくことは難しい。
自由って、難しい。
何でもできる可能性があるから、何でも自分でやれるようにならないといけない。
出会った頃のあずささんは自分の気持ちを言うことができなかった。気持ちすら考えたことがなかったのだと言った。
飲みたい物、食べたい物、やってみたいこと、好きなこと、嫌なこと。
そういう小さな椿ですら自己主張する感情のひとつひとつが、昔のあずささんからはすっぽり抜け落ちていた。
『私の行動は、全て決められていたから』『私の気持ちは、言っても意味がなかったから』
そう、あずささんは言っていた。
自由ではなかった。
それは違うと思った。
あずささんにはあずささんの、たった一つの人生があるはずだ。
全部が思い通りに行くことはないけれど、たくさんの道の中から良い道をその時々に選んで、良い悪いが分かるためには普段から自分の気持ちもきちんと知って……。
僕は、あずささんに幸せに生きていってほしいと願っている。
特別な感情を知る前も今も、それは変わらない。
僕があずささんを特別に見ているのならば、戸籍上の兄であるあの男と同じだ。
触りたい、キスしたい、抱きしめたい。
そんな感情は、あずささんを傷つける。
あの男と同じことを繰り返してはならない。
だから僕は蓋をする。
目の前の作業に集中する。
今この瞬間のあずささんを、めいっぱい大事にする。
「ありがとう」
静かに温かいほうじ茶が目の前に置かれた。さっそく一口飲んでみると、ちょうど良い温度だった。僕は目をほころばせて微笑む。
「あずささんは、お茶を淹れるのが上手だよね」
そう言うと、あずささんが咲いた花のようにふわっと笑った。
ドキリ。
心の奥底の箱が、きしむ音がした。
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