【紫陽花と太陽・中】第二話 一人旅[2]
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普段学校に持っていくリュックサックに、教科書やノートの代わりに着替えと本を数冊、洗面道具、財布を入れて、僕は電車に揺られていた。荷物はいたってシンプルだ。こんなにも身軽に旅行ができるなんて僕は思ってもみなかった。
椿連れでお出かけをするには、小さいときにはオムツや離乳食エプロン、大きくなっても着替え一式は絶対に必要だ。急に手を拭けるように濡れタオルも準備するし、いつ鼻水が出てもいいようにティッシュとハンカチ、ゴミ袋だって必要だ。荷物がとても多くなる。
タタン、タタン。タタン、タタン。電車が飛ぶように走っていく。
窓の景色を眺めてみた。窓に自分の顔が映り込む……眉間にシワをよせて、ちっとも笑っていない顔が映っていた……。
旅行の数日前、僕はまたあずささんの裸を見てしまった。
椿はもう一人で風呂もシャワーも浴びれるので、ここ最近はシャワーあがりの裸のあずささんと鉢合わせをしなくて済んでいた。僕も着替えの時は部屋の中に仕切りを作って、別々に着替えができるよう気を付けていた。それなのに……。
その日ウトウトとうたた寝をしていた僕は、寝る時間が近づいているのに自分がまだシャワーを浴びていないことに気が付き、何も考えずに脱衣所のドアを開けたのだ。
同じタイミングであずささんも浴室から出てきた。出てきたばかりだから、一糸まとわぬ姿で。
悲鳴を上げたのは僕の方だった。うああああ、とか、わああああ、とか叫んだ気がする。
慌てて脱衣所の外に出て座り込んでしまった僕に、バスタオルを巻いただけのあずささんがひょっこり顔を出して「大丈夫か」などと心配されてしまったので閉口した。
一旦落ち着くためにも距離をとりたい。今回の一人旅はその点でも丁度いい機会だと思った。
目を閉じて旅行のことを考える。それでもふとした瞬間に、あの時のあずささんの裸が頭をよぎる。一瞬のことなのにやたらと脳の記憶が鮮明で嫌になる。普段いろいろ忘れているくせに、こんなことばかりどうして覚えているのか。
はぁ、と何度ついたか分からないため息が出た。
父さんの死は確かに悲しい。声を出せない、ということは伝わっているかどうか分からない、ということだった。話せないので手紙を書いた。返事がないので一方通行だ。父さんの声が、気持ちが、考えが知りたかった。
腫瘍を摘出する手術で声帯を取ってから、父さんとは話せなくなった。もっとも、最後にまともに話せたのはいつかの年越し蕎麦を食べた頃のことで……。
今日泊まるホテルにチェックインをして、予約はひろまささんが既に取っていてくれたので、僕は学生証を見せて身分を証明し、部屋に入った。持ってきた荷物を部屋の隅に置き、ちょっと逡巡してから財布だけを持って外に出てみた。
外は風が強かった。雨は降っていないが曇天で、天気予報を調べたら降水確率は十パーセント程度だったので散歩をすることにした。川沿いを迷子にならないように歩いた。
見たことない景色に感嘆し、平日なので下校をする小学生の子供たちとすれ違いながら、頭の中は再度自身への問いに戻っていった。
もうずっと、父さんのことか、あずささんのことしか考えられていない……。
思考がぐるぐると同じところを巡っているような気がする。
父さんから言われた『あずささんのおやくそく』と、託された遺言。不透明な自分の未来と幸せになってほしいというあずささんへの強い想い。それらが一気に……一人きりであるが故にどこにも逃げ場がない、この状況で朝からずっと考えてしまっている。
何のための旅行なのか。
僕はわざと大股で力強く歩いていった。
川が二手に別れていて、橋がかかっていた。無理やり思考を中断し、川のせせらぎの音に集中してみる。橋の手すりにもたれた。しばらく経って、ふいに声をかけられた。
「すみません、ちょっと写真を撮ってもらってもいいですか?」
一瞬反応が遅れてしまった。振り返ると、おじいちゃん……とまではいかないが、白髪交じりの妙齢の男性と同じくらいの女性(ご夫婦だろうか?)がカメラを片手に僕に声をかけていた。
「いいですよ」
こんなにずっしりと重たい黒光りするカメラに触るのは初めてだ。初心者です、と断りを入れてから、一応どこを押すのかを聞いてみた。半押しして、小さく音が出たら、深く押す。それなら僕でもできそうだ。
なんてことのない川を背景に、僕はカメラの真ん中の画面を見ながら何枚か撮ってみた。二人にも確認してもらい、違うポーズでも何枚か撮り、丁寧にお礼を言われてそれから見送った。
生きていたら……。
もし、という仮定が頭を駆け巡る。
もし、母さんが生きていたら。もし、父さんと二人で旅行することができていたら。
目の前の二人のように、優しい笑顔で寄り添って、こんなふうにお散歩をすることがあったのだろうか。
涙がこぼれ落ちた。
卒業式で枯れ果てたと思っていた涙が、今もう一度出てきた。
葬儀ですら、火葬のときですら、泣かなかったというのに……。
止めどなく、流れてきた。
声も出さずにただ泣いていた。
「おいおいっ、お兄ちゃん、どうしたんっ?」
さっき見送った二人がまた戻ってきて、男性が大きな声で心配してきた。
「あ……いえ……」
だーだーと涙を流しながら大丈夫ですと言ったけど、全然信じてもらえなかった。
ものすごい勢いでポケットティッシュをくれて、三個も手に持たされて、女性の方からは柔らかいタオルハンカチを手渡されて、流れで使うことになってしまった。
「若いのに、嫌がることなくカメラで撮ってくれたのが珍しくてさ! ふっと後ろ振り返ったらものすごい勢いで泣いているから、俺もうビックリしてよぉ!」
この男性は声がでかい。近くでこの声量だと耳がキンキンしてきた。
その後、三人で近くの珈琲屋さんに寄った。声の大きい男性と女性(案の定ご夫婦だった)は昔からよくこのお店で珈琲を飲んだことがあるとのことで、店主さんとは顔見知りのようだった。
勝手に注文された熱々の珈琲を一口飲んだ。驚いて、思わずカップの中を見た。中身は見たことある黒い液体だ。
「おいしいだろ? ここの珈琲」
大きな声を幾分潜めて、ニヤリと男性が口角を上げた。
これが、僕と縁田さんの最初の出会いだった。
「はい、翠我です」
よそゆきの声であずささんが電話口に出たので、僕はひっそりと笑った。そのわずかな息遣いに、あずささんはすぐに僕だと分かったのだろう、遼介か、といつもの声に戻って言った。
「違う人だったら、詐欺に遭うから気を付けてほしいな」
「そ、そうだな……気を付ける」
「ううん、あずささんの声が聞けて良かった」
ホテルに戻ってから、時間を見て、あずささんが食事の支度を始める少し前を狙って電話をかけてみた。携帯電話というものを持っていないので、かけるのは自宅の固定電話だ。
「そちらに無事着いたようだな」
「うん、電車の乗り換えも、乗る時間も、ホテルまでの地図も、あずささんがちゃんと丁寧に調べてくれたから、迷わず着いたよ」
「良かった」
「うん」
「遼介はしっかりしているから、心配はしていなかった」
「えぇ? 全然しっかりしてないよ? 桐華姉にいつも言われてるじゃん」
「そうだろうか……。言われてはいるが、それほどでもないと思っている」
「う、うん……それはどうも」
「……椿ちゃんは、今宿題が終わって、シャワーに入っているところだ」
さすがあずささん、僕が次に何を聞こうか既に分かっているのだ。
「ありがとう。あずささんを困らせないように椿も頑張っているのかもね」
短いが、ゆっくりと言葉は止めどなく続いていく。
少し間ができた後、あずささんは僕に尋ねた。
「……泣けたか?」
「え?」
「泣きたい時は、泣いていいんだぞ」
「……」
「前に、遼介が私に言った言葉だ」
「……言ったかな?」
「言った、と思う……。私、記憶力は良い方かと思っている」
「かなり良いよ。なら言ったんだ」
「そうか」
「泣いたよ。そしたら、スッキリした」
顔は見えないのに、電話の向こうであずささんが微笑んでいるように思った。僕は受話器を握りしめる。
「僕、あずささんに会いたい」
「まだあと二日あるぞ」
「うん、でも会いたくなった」
僕は俯く。これ以上は、言えない。これからも言えない。
「お土産、楽しみにしててね」
帰ったら縁田さんに会ったことを一番に伝えよう。離れてみて改めて自覚した。やっぱり僕はあずささんが好きだ。
お土産はもう買ってあった。縁田さんと一緒に飲んだお店の、珈琲の粉だ。豆の状態の方が鮮度が長持ちするみたいだけれど、残念ながら自宅には豆を挽く手段がない。
ひとつ、楽しみができた。
ずっと無為だった僕の最近だけど、帰ったらあずささんと一緒にお話をして、一緒に珈琲を飲みたい。朝から晩まで一緒にいるずるい僕だから、今だけはずるい手段を使って、彼女との時間を独り占めしたい。
父さん、どうか、それだけは許してほしい。
父さんの遺言では、本当は独り占めはしちゃいけないけれど、どうか一度だけ……。
僕たちは互いに時計を気にしつつ、残された時間を味わって話をした。
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