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【紫陽花と太陽・上】第十二話 だし巻き卵のお弁当

 今朝、通学路の途中でつよしとばったり出くわした。
「おぅ」
「あ、おはよ。剛」
「今日は早いのな。遅刻じゃね―じゃん」
 剛が、朝からの強い日差しに汗を垂らした僕と、同じ気温の中で同じように登校していても全然汗をかいていない涼やかなあずささんを交互に見て、笑って言った。
「二人で登校するようになったんだな」
 僕はハタと気が付いた。剛には、あずささんが僕の家で一緒に暮らし始めたことを言っていない。
「そ、そうだ、剛!」
「なんだよ」
「僕、あずささんと一緒に暮ら」
 大声で剛にこの嬉しい事実を伝えようと思ったら、横っ腹をちょっと強めにツンとされた。あずささんに。
「うぁっ、何⁉︎」
「……あまり他の人には知られないようにとおじさんは言っていた……」
 困った顔のあずささんがボソッと呟いた。……そうだった。剛には言っていいけど、クラスの人とかには内緒にしないといけなかったんだ。
 剛が僕とあずささんの様子をじっと見て、それから言った。
「知ってるよ。親から聞いた」
「えっ」
「えっ」
「驚くタイミングも同じになってきやがったな」
「なんで知って……あぁ、そういえば父さん、剛のご両親と相談して決めたって言ってたもんな……」
「そういうこと」
「なぁんだ、知ってたんだね」
 僕は話が早い剛に安心した。聞けば、一緒に暮らし始めた理由……あずささんが義兄に乱暴されたということ……もしっかり分かってくれていた。
「もうね、これからずーっと! 一緒なんだよ!」
 嬉しさの表現で、僕は両手をぶんっと思い切りバンザイした。その拍子に手があずささんの顔に当たった。
「痛」
「あぁっ! ごめん!」
 僕の手がクリーンヒットしたみたいだ。あずささんの鼻が少し赤くなってしまった。
「何やってんだよ」
 剛が苦笑いをして先に歩きだす。慌てて僕は追いかけた。

 ◇

 私は不思議な気持ちで登校していた。
 隣に遼介りょうすけがいる。いつも。
 毎朝同じ目覚まし時計の音で一緒に起きて、順番で顔を洗い、食事の準備に取りかかる。遼介の家の台所なので、自然と先に動くのは遼介だ。私が彼をフォローする。毎朝一緒に椿つばきちゃんを保育園に送っていき、同じ授業を受け、同じお弁当を一緒に食べ、また一緒に下校する。バタバタと晩ごはんの準備に風呂、椿ちゃんの寝かしつけ、寝るのも一緒。
 そんな生活を送り始めて、数日経つ。

 遼介は、一緒にいても怖くない、気楽な人だった。
 他人と一緒に生活をすることに初めはすごく緊張した。
 今まではずっと一人だったから。
 家の中に兄はいたが、兄と協力して何かをやった記憶は一切ない。
 「兄」という存在でも、私にとっての兄と椿ちゃんの兄である遼介は、全然違う。
 人との関わりが薄かったせいか「いろんな人がいる」ただそれだけのことを知って、私は毎日新しい発見をする。不思議な気持ちでいっぱいになる。

 ふと前を歩く二人を見た。遼介と剛。
 「親友」という強い絆のある二人は背格好がかなり違う。
 剛は、夏休みをはさんで久しぶりに見るとさらに身長が伸びている気がする。
 遼介は、彼の背は……こんなに温かそうだったか?

 遼介の声が大きいので後ろにいても話の内容が聞こえてきた。
 宿泊学習の話をしていた。……宿泊、学習?
 耳慣れない単語に困惑する。年間行事予定表は前の家に置いてきたため、今私の手元にないのだが、確かにそんな記載があった記憶がある……。
 二人の話しぶりだと来週行うようだ。準備が、とか、荷物が、とか聞こえてくる。
 考え事をしていると、いつの間にか二人と少し距離ができてしまったので慌てて走り寄った。
「あ、いた」
 遼介が絶妙なタイミングで後ろの私を振り返った。
「迷子にはならないと思うけど、手でもつなぐ?」
 微笑みながら遼介が言うと、隣で剛がピシャリと彼に忠告した。
「やめとけよ。椿じゃあるまいし。それに、ひいらぎと付き合ってんだろ? 何か言われるぞ」
「そう?」
 ……付き合っている。私は納得した。先日遼介と別々に帰ることになったのは、きっとそういうことなんだろうと思った。
 宿泊学習の件は不安があった。知らないことに対して私はとても臆病で慎重だ。
 本当は聞きたかったが、柊という女性とのことを考えるとあまり学校で遼介には話しかけないほうがいいのかと思って、やめた。彼に迷惑をかけるわけにはいかない。

 新しいリュックサックを背負い直し、私は背筋を伸ばした。

 ◇

 昼休み。新学期になり午前授業だったのは初日だけで、あとはいつも通りの日常が始まった。僕はお弁当包みを鞄から取り出し、後ろを振り返って……あずささんがいないので、キョロキョロと辺りを見回した。
 先日席替えをした。僕とあずささんはずっと前と後ろの隣同士だったけれど、今回は席が離れた。代わりに剛と僕が近くの席になった。
 ものすごく遠くに座っている(そして僕と同じ弁当包みを持っている)あずささんを発見し、声をかけようとしたところで柊さんが現れた。
翠我すいがくん!」
「うぉっ、あ、柊さん……」
「一緒にお昼ごはん、食べよう?」
「あ、うん……」
 別にあずささんと一緒にごはんを食べる約束はしていないけれど、僕はつい彼女をちらりと見てしまった。
 バチリと目が合った。あずささんはちょっと小首を傾げ、そのまま席を立ってどこかに行った。いつもの中庭に行ったのかな?
「どこで食べる?」
 気を取り直して柊さんに向き直った。一瞬、柊さんが廊下を睨んでいたみたいだったが、すぐにパッと笑顔になり食べたい場所を言ってくれた。

「宿泊学習、楽しみだなぁ」
「うふふ、私もすごく楽しみ。確か変わった電車にも乗るんだったよね」
「あぁ、うん。あじさい列車だよね」
「今日私のクラス、学習のしおりをもらったの。向こうは暑いのかな……」
「うちももらったよ。まだ見てないけどね。紫陽花って、この時期咲いてるのかなぁ?」
「旬はもう過ぎてるはずだったわ」
「じゃあ見れないのかな」
「翠我くん、紫陽花好きなの?」
「うーん、そうだね、色とかキレイだなぁとは思うね」
「ふふ、花が好きって、男子はあまり言わないと思うけど」
「そ、そうなんだね……」
 僕たちはお弁当を食べながら他愛もない話をした。あずささん以外の女の子とこんなに話をしたのは久しぶりだったので、話し方が全然違うのに驚いた。
 僕は弁当箱の中を眺めた。だし巻き卵が入っている。二個入れたので、一個食べてあと一個しかない(そりゃそうだ)。美味しいのでもっと食べたいと思った。
「卵焼き、好きなの?」
「ん? あ、これ? だし巻き卵」
「ふぅん」
 柊さんはすぐに違う話題を始めた。僕は思った。お弁当に、だし巻き卵はめんどくさくて大変なんだと。普通の卵焼きと違って出汁も必要だし、卵液が柔らかくみりんの甘みがあるので焦げやすい。手間暇かかるこれを、今朝あずささんは丁寧に作ってくれた。僕は隣で作り方を見ていた。ゆっくりと慌てず卵焼き専用の四角いフライパンを弧を描くように動かす。きっと僕が前に美味しいと絶賛したから、作ってくれたのだと分かった。

 柊さんに失礼だと思った。
 僕は、今目の前の柊さんとお話をしながら、心はずっと違うことを考えてしまっている。
 知らず知らずに、柊さんとあずささんを比べてしまっている。
 どこがどうという訳ではないけれど、良い悪いの判断はしていないけれど、僕が話してて楽しいと思う話と彼女の話とは、ずっとすれ違っている気がした。

 ◇

 中庭の茶室の近くの石垣に一人座り、私はのんびりとお弁当を頬張っていた。
 今日もお茶の香りはしていない。よくよく考えたら、もしこの茶室を部活動で使用しているのなら、昼に茶を点てることはないのだろう。香り立つのは、放課後なのだ。

 私は遠い昔の記憶を反芻する。
 厳しい父親に厳しく叩き込まれた茶道は、細かいことは記憶の奥深くに追いやって蓋をした。背筋を伸ばして座ることは、悲しいことにもうクセになってしまっているようだ。そんなにも「茶」という存在に対して良い思い出などないというのに、遼介が美味しそうに愛おしそうにほうじ茶を飲んでいるのを見ると、お茶が好きだ、と自覚せざるを得ない。
 葉っぱを湯で蒸しただけの、飲み物。
 私は水筒(遼介と色違いのおそろいになってしまった)から飲み頃のほうじ茶を啜った。どんなに暑い夏でも私はあまり冷たいものを摂らない。冷え性なのだ。
 そっと白い長袖のシャツをまくって腕を見た。目を凝らさないと分からないほどだが、まだ若干のあざが残っている気がしてならない。
 私はため息をついた。
 今日配布された宿泊学習のしおりには、私がかつて経験したことのない学習ばかりが記載されていたからだ。想像すらできない学習すらある。
 怖かった。男女別行動の学習(風呂と就寝の時間なのだが)では、遼介と一緒にはいられない。グループも違うので、三日間のうち二日も一緒にはいられない。
 一緒に暮らし始めてから、自分がとても弱くなってしまったと感じている。経験したこと、例えば料理や洗濯、掃除や勉強などは、自信を持って取り組める。でも日常は知らないこともたくさん存在する。椿ちゃんですら知っているようなことを、私は知らないことがたくさんある。それも、私を不安にさせる。
 お弁当の中を眺め、だし巻き卵を一口食べた。今日はだし巻き卵を私が作った。隣で遼介に真剣な表情で見られていたので少し緊張した。焦げないで仕上がって良かった。口に合えばいいのだが……。

 カサリと草を踏み分ける音がして、驚いて振り返った。
「こんにちは」
「……えぇと」
 私の座っている草だらけの場所に、柊という女性がやって来た。なんの用事だろうか。
「私、柊と言います」
「……あ、はい」
 いつもの男言葉を口に出しそうになり、遼介と剛以外の人の前では控えた方がいいと思い直し、口調に気を付ける。
 しばらくの間。私は困惑して、柊に尋ねた。
「……何か、ありましたか?」
 柊は私を鋭い視線で見やった。
「名前くらい、言ったらどうですか。失礼な人ですね」
 私は慌てて自分の名前を答えた。知ってます、との返事が来たので、ならなぜ聞いてきたのかと疑問ばかりが頭をよぎる。
「単刀直入に、あなたに言いたいことがあって、言います」
 私は、変わった日本語を使う人だと思った。
「私、翠我遼介くんと、お付き合いしています。だから、もう近づかないでください」
「……はぁ」
「はぁ、じゃないです。今朝も見ました。一緒に登校してましたよね。ああいうの、困ります」
「……」
「始業式の日も一緒だったじゃないですか。その前も何回か。なんでですか」
「……そう、言われても」
 家が一緒なのだから、椿ちゃんを送るのが一緒なのだから、仕方ないのではないか。私は困惑し、しかし共に暮らしていることは伏せなくてはならないので、どう返事をした方がいいのか悩んでしまった。
「買い物だって一緒にしていたじゃないですか」
 いつのことを指しているのだろう。夏休み始めの頃のことか、それとも一緒に暮らし始めてから食料品を買いに出たときのことか。
 ……ともかく、目の前の女性は怒っている。自分に。私は返答に悩む。
「どうして何も言わないんですか? ……まぁ、いいです。とにかく、これからは近づかないでくださいね」
「……遼介の方から話しかけてきたら、どうしたらいいでしょうか」
「はぁ?」
「……」
 柊がどうしてそこまで怒るのか私にはよく理解できなかった。
 付き合う、ということがどういうことなのか、知らない私が悪いのだろうか。
「……すみません、私には、よく分からなくて……。その、誰かと付き合ったこととか、ないので……」
 私はお弁当箱を固く握りしめて、途切れ途切れに話した。
「……遼介が、私にどうしてほしいのか、今度聞いてみます」
「聞かないでください。話しかけないでください」
「……どうしてですか?」
「私は……。私が! 彼が私以外の人と話をしてほしくないからです」
「……」
 私は小首を傾げた。
「それは」
 自分でも意外と大きな声が出たので、驚いた。
「でもそれは、あなたの望みであって、遼介が望んでいることではないですよね?」
「は?」
「遼介がどうしたいのか、それは遼介にしか分からないはずです。だから、私は聞いてみます」
 私は少し考えて、付け加えた。
「……ただ、あなたのしてほしくないことは、よく分かりました」
 そろそろ戻る時間になってしまった。急いでお弁当箱を包み直し、その場を立ち去った。
 お弁当は結局全部食べきることはできなかった。

 ◇

 二学期が始まって最初のメインイベントは、なんと言っても「宿泊学習」だ。今年は山の方を二学年全員で移動し、一日目はキャンプ場で炊事、屋外で食事をとり、ゲームやスポーツを通してクラス全員の団結力や協調性を高めた後、薪を囲んでキャンプファイヤーを。二日目、三日目は各グループごとに興味のあるエリアについて建物や自然を見学、体験などを行う予定になっている。活動を通して「選んだ地域の歴史的背景を知る」のがねらいみたいで、後日グループごとに発表会をしなければならない。宿泊「学習」なだけあって、遊ぶだけじゃないのだ。
「炊事はきっと、カレーだよ」
 僕はごはんのことには興味がある。外でごはんを作るのは小学生以来だ。たしか五年生くらいにも同じような課外活動があったはずだ。
「お前と同じグループで助かったよ」
「あ、剛。炊事の時、楽しようとしてる」
 剛は料理を全然しないので、カレーだろうと焼肉だろうとまるで興味がない。出されたら食べるだろうけど。
「あずささんとは別のグループになっちゃったね」
 ちらりと遠くの席のあずささんを見ると、宿泊学習のしおりを真剣に熟読していたあずささんが、誰かに話しかけられて顔を上げたが、すぐまた俯いた。
 この前からあずささんは少し元気がない。お弁当を残していたこともあった。せっかくのだし巻き卵も半分しか食べていなかったので、僕は悔しがった。
『えーっ、残しちゃったの⁉︎ やっぱりあの日、あずささんと一緒に食べればよかった……! すごい美味しかったから、僕、残すくらいなら食べたのに……』
 そう言ったら、あずささんは驚いてから、ふわりと目を細めた。
 柊さんとごはんを食べた日、あずささんはどこか違う場所で食べてきたらしい。次の日も、今日も、昼休みが始まると柊さんがわざわざ僕たちの教室までやって来たので、僕はちょっと困ってしまった。
 学習の日まであと数日。あずささんとおそろいのリュックサック(いつものちょっとした遊ぶ時用ではなくて、旅行用の大きめのものだ)も買ってあるし、所持品を全て買い直した時に買いそびれていた、あずささんの携帯歯ブラシやお土産などを入れるエコバッグなどの細々した旅行用の物も、追加で買って準備してある。

 今日の五時間目はグループごとに分かれて、宿泊学習で何を見学するか、調べるかの話し合いをしていた。
 僕は炊事専門なので、見学先については何でもいいと公言している。たとえ行先が大きな声を出してはいけない苦手な美術館であっても、文句は言わない。

 帰りの会が終わり、クラスメイトたちがそれぞれの活動をするためにパラパラと教室を出ていった。僕は帰り支度をして鞄を手に取った。
 そして、あずささんの席の前に再び座った。
「あれ、お前、迎えがあるんじゃないのか?」
 案の定剛が聞いてきた。
「あるよ。だけど、迎えの時間を三十分遅くしてもらったんだ」
「なんで」
「宿題をやるためだよ」
 僕は今日の宿題のプリントを取り出し、あずささんと向かい合って問題を解き始めた。
 夏休み前からしているこの修行(僕にとっては勉強は修行だ)も、手慣れてきた。
 まず、僕が自力で問題を解いてみて、あずささんが丸付けをする。間違ったところは再確認、分からなかったらあずさ先生が解説をしてくれる。そんな流れだ。
「今日もよろしくお願いします」
「真面目だな」
 ペコリとおじぎをする僕に、誰よりも真面目なあずささんが呟いた。

 家の外では僕とあずささんはただのクラスメイトだ。家族で決めた『あずささんのおやくそく』は、剛以外のクラスメイトに僕たちが一緒に暮らしていることを知られてはいけない。今までと同じように宿題をするときも家族じゃないフリをしないと。
 剛は部活があるとのことで、そこで別れた。
 教室も、一人二人と生徒が帰り、いつのまにか僕とあずささんだけになっていた。
「ここの間違った理由が、分からない……」
 僕のプリントをあずささんが確認する。説明しようとすると、プリントが突然消えた。
 視線を上にずらすと……。柊さんだった。
「翠我くん」
「お?」
「勉強なら、私が教えてあげる」
 強い口調だった。あずささんは困った表情を浮かべていた。
「えっと、では、私は先に帰ろうか……?」
「はい。私が教えるので、大丈夫です」
 なぜか柊さんが答えた。
 僕は二人を交互に見て……馬鹿みたいに首を左、右へと動かし、それから首を傾げた。
「なんで?」
 二人が僕を見た。
「柊さん、今、僕はあずささんに勉強を教えてもらってたんだけど……」
「うん、見たら分かるわ。それなら、今日から私が教えてあげる」
「なんで?」
「……なんでって」
「僕があずささんにお願いをして、苦手な勉強を教えてもらっているんだよ。今だって僕が頭悪いから手間かけさせちゃって……。大事なあずささんの時間なのに」
「だったらなおさら私が教えてあげるわ。そしたら彼女はもう帰れるでしょう?」
 僕は俯いた。……確かに、あずささんにとって僕の勉強を見る必要はない。自分の勉強や好きなことをしてもらいたい気持ちだって、ある。
霞崎かすみざきさん、今までありがとう。もう帰って大丈夫です」
「……あ、はい」
 あずささんが静かに帰り支度を始めた。柊さんの言う通り帰るつもりだ。
 柊さんは僕の隣の机をガタガタとくっつけて、勉強の準備をしていた。僕はちらりとあずささんの方を向いた。目が合った。
 あずささんが、声は出さず、口だけを動かしてこう言った。
(き、に、す、る、な)
 僕は目を瞠った。
 あずささんがものすごく控えめに、腰辺りの位置で小さく手を振った。
 僕も柊さんも、頼んだ上に突然帰ってくれと失礼なことをしているにも関わらず、あずささんは全然怒っていない。「気にするな」だって? それを言わないと、きっと僕が自分を責めながら勉強をすることになるって、あずささんは分かっているんだ。
 僕は拳をギュッと握った。

「翠我くん、始めましょ?」
 静かにあずささんが教室を出て、準備の整った柊さんは僕に言った。
 今のやりとりの間にもけっこう時間が経ってしまった。せっかく椿のお迎えの時間を延ばしてもらったのにタイムリミットが近づいてくる。
 僕が解けなかった問題の解説をバトンタッチして、柊さんが嬉しそうに説明してくれる。急いで宿題のプリントを仕上げた。急ぐと僕はついひらがなばっかりで文字を書いてしまうので、漢字で書かないとと思い直し、でも漢字が出てこないので気ばかり焦る。
 宿題が仕上がった。腕時計を見た。もう学校を出なくてはならない。
 あずささんのことだから僕の代わりに椿を迎えに行こうと考えているのかもしれない。ただ、そういえば家の鍵は僕が持っている。まだ渡していない。渡せなかった、あの場では。それに、あずささんなら迎えに行く前に一度確認をするはずだ。だったらどこかで待っている可能性だって、ある。
 結局、頭の中ではこの後の予定をぐるぐると考えてしまう。何の宿題をしたのかなんて既にさっぱり頭から吹っ飛んでいる。一言二言、この後の予定について、あずささんと話ができていれば楽だったのに……。
「柊さん、今日はありがとうね」
 仕上げたプリントを鞄にしまいながら、今日はもう終わり、という気持ちも込めて僕は柊さんにお礼を言った。
「どういたしまして。一緒に勉強できて嬉しかった」
「柊さんはもう宿題やったんだね」
「えーっと、実はまだなの」
「えっ?」
「だから、ちょっと終わらせちゃおうかなって。翠我くん、次は私の宿題、一緒に見てもらえる?」
 僕は驚きすぎて思考が停止した。
「どうしたの? 翠我くん、目がまんまる」
 息も止まっていたのかもしれない。僕は一度落ち着くために深呼吸をした。
 少しずつ、窓の外、教室にも夕暮れの気配が混じり始めた。カーテンが風に膨らんでふっくらと揺れた。
「……柊さん、ごめん、やっぱり僕、無理だよ」
 柊さんの目を見て、きっぱりと僕は言った。
「え」
「前も、前の前も言ったかなって思うんだけど。……僕、妹と家のことで手一杯なんだ」
「それは……」
「だから、柊さんの希望に、応えられないと思うんだ」
 柊さんは黙って俯いた。肩が震えているように見えた。
「そもそもどうして付き合うってことになっているのか分からないけど。でも、ごめん。今日も、前よりは妹の迎えの時間を遅くしてもらえたから居残りできたんだけど、それももう時間切れ。保育園に迎えにいかなくちゃいけないんだ」
「……そう」
「柊さんが僕の勉強を教えてくれた後で宿題をしたかったことを、最初にちゃんと聞いてなかった僕も悪かったのかもしれない。僕だって、何時までしか勉強できないって、言わなかったのも悪かった。それで、これからもずっと時間の制限があるのは変わらないから、やっぱり僕は柊さんと一緒にはいられない」
 上手に説明できたか分からないけど、そう僕が言うと、柊さんは大きな声を出した。
「あの人とは! ……あんなに一緒にいるのに? 私とは無理なの?」
「あずささんのこと? 僕はあずささんとも、別に付き合っているわけじゃないよ」
「……私は、あの人と同じように一緒にいたいだけなの!」
「……僕には、よく分からない。その、誰かと付き合ったことが、ないから……」
 二人の間に沈黙が降りた。
「……あの女と同じこと言わないで」
 よく聞き取れなかったので、え? と聞き直したが返事はなかった。
 くるりと背を向けて柊さんが走って向こうに去っていった。
 遠くの廊下で、あちー、だの、腹減ったー、だの、ガヤガヤと喧騒が小さく聞こえる。
 僕は教室に一人取り残された。

 ◇

 下駄箱の片隅で私は遼介を待っていた。
 外の離れたところにある水道で、部活動の生徒が顔や手を洗ったりする音が聞こえる。
 この暑い中、外で活動をする部活は毎日本当に酷なことをしているなといつも感心する。
 下駄箱のここは夏にも関わらずしんと冷えて、座っているコンクリートの床がおしりを涼しくしてくれている。
 柊が帰ってくれと言ったので帰ろうとしたのだが、よくよく考えてみると私は家の鍵を持っていなかった。椿ちゃんの迎えを遼介の代わりにしようかとも思ってはみたものの、本当の家族ではない人間が迎えに行ったところで許可が出るとも思えなかった(椿ちゃんは私と面識があるので、遼介がいなくても帰ると言ってくれるだろうが)。保育園の送迎のセキュリティは高いのだ。
 コテンと頭を体育座りをした膝に乗せて顔を伏せた。
 明日からは遼介を困らせないように椿ちゃんのお迎えの分担を相談しておけばいい。今日は突然のことだったから気にするなとしか言えなかったけれど、それも伝わったかどうかあやしいものだ……。遼介はすぐ自分を責めてしまう。あまり思いつめないでほしいのだが……。

 居残りの生徒が一人、二人、玄関から出ていった。
 再びガランとした下駄箱に、私は気配を消して座り続けた。
「あ」
 誰かの漏れ出た声がなじみのある声だったので、私は顔を上げた。
 遼介だった。

「あずささん……待ってたんだ……」
「ああ」
「……ごめん」
 遼介が小さな声で呟き、目を伏せた。私はゆっくりと立ち上がった。
「鍵が」
「鍵が」
 二人とも同じタイミングで同じ言葉を発し、二人とも目をパチクリさせて、それから遼介が吹き出した。
「あぁ、ごめん、つい。すごい一緒だったから」
 くつくつと遼介が笑った。私はリュックサックの横のポケットから紙パックのジュースを取り出した。
「帰ろうか。椿ちゃんが待っているぞ」
「うん、そうだね。……それは?」
 私は持っていた紙パック——カルピスの白地に水色の点々がついたデザイン——を遼介に手渡して言った。
「勉強、おつかれさまの、ご褒美だ」
 ポカンと口を開けて遼介が驚いている。中学校の外玄関に設置されている校内でただひとつの紙パックの自動販売機は、今まで使ったことがなかったのでいつも遼介が買うのを見ていたのだが。今日、人生で初めてお金を入れて、ボタンを押して、商品を選んで、買ったのだ!
 ひそかに自分の中で「人生初」の達成感を味わっていたら、遼介の顔がくしゃりと歪んだ。目からポロポロと涙を流し始めたので仰天した。
「ど、どうした」
「だ、だってぇ……」
 ふと、柊が近くにいたら泣かせたことに怒られると思い、急いで周りを確認した。誰もいなかったので、もう一度リュックサックを下ろして中からハンドタオルを取り出し、遼介に手渡した。
「……優しすぎるよ。まったく」
 ハンドタオルで目元を抑えながら、涙声で遼介が呻いた。
 どうして泣くのか見当もつかないが、私は遼介の隣に並んで一緒に歩いた。
 椿ちゃんのお迎えの時間は少し過ぎてしまうかもしれないが、もし桐華とうかさんや梨枝りえさんに理由を聞かれたときのために、良い言い訳を考えておいたほうがいいかもしれないと思った。


(つづく)

(第一話はこちらから)

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