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【紫陽花と太陽・上】第四話 番外編 ことば

 椿つばきのことを話そう。
 椿は遼介りょうすけの妹で、俺たちとは九つほど歳が離れている。明朗快活な性格で姉二人にも負けないほど口達者な女の子だ。
 だが俺は、彼女ほど家族に愛され、それでいて幼い頃に深い悲しみを抱えることになった人間には出会ったことがない。深い悲しみというのは母親の死別だ。世界を見ればそれほど驚くことではないことかもしれない。でも、ずっと愛されてきた彼女の世界が、ある日を境にひっくり返った。呼んでも泣いても母親にはもう会えない。
 母親が死んだ時、椿はやっと三歳になったばかりだった。その一昨年頃から母親は入院をしていたので『母とはめったに会うことができない』状況は理解していたはずだが——椿や遼介の母親は退院ができないほどの不治の病だったと聞いていた——、椿からはいつしか笑顔が消え、ことばがなくなった。

 当時小学五年生の俺たちはランドセルを背負って、普通なら宿題や流行りのアニメの話をするであろう年頃に、毎日こんな話をしていた。
『椿が……しゃべらなくなった』
『お母さんの退院する日が延期した』
『どうしよう。椿が全然笑ってくれないんだ』
『保育園に通わせることになりそうなんだ』
『……たぶん、退院はできないと思う』
 どれもこれも、どうしようもない相談だった。俺に何ができただろう?
 晴れたら公園で、雨の日は遼介の家で遊んだ。姉二人が入院の世話で忙しくしている間、椿と一緒に遊ぶのは俺たちの日課だった。
 椿はにこりともせず、俺たちと遊ぶこともせず、大抵は部屋の片隅でお気に入りの人形を抱えて座っていた。

 母親の葬儀の日。遼介は号泣し昼飯すら食べなかった。姉二人も涙を流し、たびたびハンカチで目元を押さえていた記憶がある。椿は……仏頂面で、棺や供花などを睨みつけていた。親戚の中にはそんな椿に眉をひそめていた人たちもいたようだった。

 それを全て受け入れて来たのが、遼介と彼の父親だった。
 遼介たちは、椿がたとえ返事をしなくても、目線を合わせなくても、決して咎めずにいつも通り接していた。家族だけでなく俺にも、普通にしててほしいと言った。椿には時間が必要だと。
 世話好きな親戚に、椿は障がいがあるのかもしれないから療育をしてはどうかと言う人がいたようだったが、その意見をやんわりと断り続け、椿の心が癒されるのを辛抱強く待ったのも父親だった。
 実際、身の回りのこと……飯を食うとき、着替えるとき、風呂に入るとき、トイレに行くときなど……では、椿は頷いたり首を横に振って応えてくれる。耳が聞こえないわけではないのだ。時々、椿はぼうっと遠くを見つめたり、反応が全くないときもあった。生活をずっと共にしていた遼介たちは本当に大変だったと思う。

『いっそ、泣き叫んでくれれば気持ちが分かるのになって、思うことがあるんだよ』
 いつだか遼介がそんなことを言った。表情がないというのはとても寂しいと。
 俺は神様仏様なんて信じちゃいなかったけど、椿が早く元に戻ってほしいと願うことはしたと思う。彼女は昔はよく笑っていたし、にーに、だとか、おっちゃんこ、とかいう言葉はしゃべっていたから。

 遼介の父親はむろん当時も単身赴任だった。ただ、今より頻繁に家に寄り、とにかくいつも笑顔だった。よくしゃべり、姉二人を労い、遼介や俺にもたくさん感謝の言葉を言ってくれた。

 気持ちを伝え続ければいつか届く。
 俺は遼介と椿に出会い、それを知った。
 ある日、遼介の家で宿題をしていると、ちょうど開いた教科書のページにりんごの絵が描かれていた。今でも鮮明に思い出せる。椿がとことこと俺たちのところにやってきて、宿題をしている様子をぼんやりと眺めていた。そして、ぽつりと「りんごだね」と言った。
 遼介と俺は信じられない気持ちでしばらく黙っていたが、やがて遼介が大粒の涙を流した。椿は静かに遼介を見ていた。

 りんご事件の後、椿に変化が現れた。
 例えば外、飛行機の音がしたとき。例えば公園、鳥の鳴き声が聞こえてきたとき。
 椿は立ち止まり、空を見つめるようになった。椿の周りを覆っていた分厚い殻が少しずつ壊れ、興味の対象が広がったんだと思った。
 今まで彼女に語り続けてきたいろんな人のことばがずっと椿の中には溜められていて、ある日を境にシャワーのようにどんどんと溢れてきた感じだった。

『おにいちゃん、あれ、いぬだね』
『きょうのごはん、なあに? これ、つばき、すきだよ』
『いまはやだな。もうすこし、あそぶの、やりたい』
『おにいちゃん、なんでそんなに、なくの?』

 言葉をなくしてから治るまで半年以上はかかっただろうか。
 今では椿は、遼介をたしなめるまでに成長している。おにいちゃん、もっとしっかりしなくちゃだめだよ! とか。まったくもう、なさけない! とまで言われることもあるようだ。
 それでも遼介は笑って受け流す。どれも大したことじゃない。自分の気持ちを言えるのは、とても素晴らしいことだと知っている。
 翠我すいが家は素敵な家族だなと思う。
 俺は、そんな遼介に出会えて、本当にラッキーな人間だ。


(つづく)

(第一話はこちらから)

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