大正区
大正区
大正区は、大阪市を構成する24行政区の一つで、区全体が運河に囲まれた島状の地形となっている。大正初期以来沖縄県からの移住者が多かった地域で、沖縄料理や沖縄食材を扱う店が多く、「リトル沖縄」とも呼ばれている。現在、大正区で沖縄の雰囲気が最も色濃いのが平尾本通商店街、通称「サンクス平尾」で、南国風の音楽が流れ、店先にはシーサー、精肉店では豚足が並び、沖縄民謡をライブで聴かせる店や、揚げたてのサーターアンダギーを売る出店も。周辺には沖縄出身者が多く住み、琉球舞踊のけいこ場や三味線教室、琉球空手の道場なども多く見られる。
大正区の区名は、木津川に架かる大正橋から命名された。当初は新港区という区名を当時の池川大次郎助役から候補として挙げられたが、まずは区民の意見を聞くということで、住民へ向けて区名を募集することになった。意見の中には三軒屋区という案も出たが、1915年(大正4年)に架橋された大正橋から「大正橋区」を希望する声が多く、結果的に大正橋区では長いということで「大正区」が区民の希望としてまとまった。当時の大阪市長である關一は「元号から区名を制定するのはふさわしくなく、地域名から採った木津川区や泉尾区が適当ではないか」と決定を渋ったが、最終的には「皆が納得するのなら」と住民の希望が通り、大正区として決定した経緯がある。なお、大正区自体は大正時代ではなく昭和7年(1932年)に設置された区である。
現在も続く沖縄県出身者のコミュニティ形成の主因となっているのは、昭和初期からゼネラルモーターズの自動車工場や、中山製鋼所の製鉄所や日立造船などの造船所も作られ、近郊農村も、阪神工業地帯の重工業集積地に姿を変えたことにより、大工場に働き口を求めて沖縄県から移住者が多く集まったことである。大正区への移住者が本格的に増えるのは第1次大戦後で、沖縄では深刻な不況下で食料に事欠き、ソテツの実や幹まで口にしたため「ソテツ地獄」と呼ばれた苦しい時期だった。しかし、本土との文化や風習の違いに悩む人も多かったそうで、就職では不当な差別があり、借家でも「琉球人お断り」といった貼り紙が当たり前だったので、自然と沖縄出身者は大正区内の何カ所かに集まり、助け合うようになった。そうした沖縄出身者は、子や孫たちまで含めると、約7万人の区民の4分の1程度を占め、沖縄県北中城村の人口に匹敵する。
大正区の沖縄文化を色濃く伝えるのが毎年開かれているエイサー祭りで、特に2019年のエイサー祭りには、沖縄の声を全国の人々に届けるトークキャラバンのために訪れていた玉城デニー沖縄県知事も参加し、会場でクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「雨を見たかい Have You Ever Seen the Rain?」とボブ・ディランの「All Along the Watchtower」、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」をギターの弾き語りで披露した。
大正区は河川や運河などの水路に囲まれた地域であるため、公営渡船が数多く運航されている。歩行者および自転車専用で、運賃は無料。港湾局による木津川渡以外は大阪市建設局による運航である。
20世紀初頭まで大阪港が河港だったこともあって、大阪湾と大阪市街を結ぶ安治川、尻無川、木津川、大阪市街と伏見方面を結ぶ大川、淀川などは河川舟運が盛んで、船舶航行の妨げとなる橋の架設が困難であることから、多数の渡船が運航されてきた。
水運の衰退と架橋の進展によって多くの渡船が姿を消したが、大阪港が海港となった現在も安治川、尻無川、木津川は大阪港の港湾区域であり、臨港地区には水運を必要とする工場などが立地しており、加えて安治川と尻無川の河口付近が戦後に内港化されたこともあって、水面から桁下までの高さを確保して架橋する必要があり、長大で急勾配の橋やループ橋などは歩行者や自転車の日常利用に堪えないため、現在も渡船が残っている。歩行者および自転車専用で、無償である。運航時間は航路にもよるが、おおむね午前6時台から午後9時台まで。8航路のうち7航路が尻無川と木津川に挟まれた大正区に関係する。
航路により若干、船の大小がある。かつて船体は大型船であれば白と水色のツートン、小型船であれば白とオレンジのツートンだったが、現在では白と水色に集約されてきている。市民生活のための交通手段であるが、繁華街や観光地では見られない、普段着の大阪に触れることができるスポットとして、観光客に静かな人気を呼んでいる。このため、最近では渡船場への案内看板(船体側面の絵と乗り場を書いた看板)や渡船場の表示看板(船体の正面と水鳥の飛んでいる絵の看板)も作られている。
