鉛筆のあぜ道 Pencil Paths | 夏−Path 7 | 海の家 |
リンリーン。
潮風が、軒先の風鈴を揺らしていた。
強い日差し。
水平線に天高く、そびえ立つ入道雲。
照り返しに 白く光る砂浜。
浜辺には 色とりどりの浮き輪とパラソル。
海水浴客の歓声が波音へ溶けてゆく。
海の家の厨房。
猛暑にも関わらず、燃え盛る鉄板。
ジュゥー!
魚介が弾け、油のはねる音。
ソースの香ばしい香りが、潮の香と混ざり合う。
カンカンッ!
金ゴテで具材を混ぜる音が鳴り止まない。
「いらっしゃい!」
その声に重なるように、注文の札が次々と並ぶ。
棚の隅から、角の丸くなった一冊を取り出した。
布張りの古いレシピ帳。
長年の油と湯気を吸い込み、表紙は飴色。
ページをめくるたび、紙が乾いた音を立てた。
割れた背表紙をそっと押さえながら、
短くなった鉛筆を握る。
指になじんだ 木のぬくもり。
シュシュッ。
今日の仕込みの数を、余白へ静かに書き添える。
そのすぐ横に、小さな文字が残っていた。
ーーー 塩 ひとつまみ。
祖母の 流れるような筆跡。
幼いころは読めなかったその文字も、
いつしか迷わず読めるようになっていた。
⋮
まだ、カウンターの高さにも届かなかった頃。
「おばーぁちゃん、なにか手伝おうか?」
祖母は 湯気の向こうで振り返り、
汗を拭きながら、目尻をやさしく細めた。
「そうだねぇー。
じゃあ、
焼きそばの横に、
紅生姜を置いてもらおうかねぇ。」
「おっけー!
赤いのね!おばぁちゃん!」
小さな手で、赤い紅生姜をスプーンにすくう。
こぼさないように息を止め、
焼きそばの横へ、そっと置いた。
甘酸っぱい香りが ちいさな鼻をくすぐり、
思わず顔をしかめる。
「でも、赤いのは からーい!」
祖母はクスっと笑いながら、
「大人の味だからねぇ。
いずれ、この味が恋しくなるよぉ。
特にね、今日みたいなぁ 暑い日にはねぇ。」
そう言って祖母は、短くなった鉛筆を手に取る。
さらさら、と紙を走る音。
レシピ帳の余白へ、小さく何かを書き添える。
削ったばかりの木の香りが、
潮風といっしょに厨房を抜けていった。
やがて、鉛筆は
掌に収まるほど短くなり、
そのころ、
祖母の声は 夏の波音の中へ還っていた。
⋮
されど、レシピ帳だけは
毎年この季節に
棚から姿を現す。
金ゴテ使いも、もう 手慣れたもの。
具材とそばが 鉄板のうえで踊る。
ソースを手早く混ぜ、
そして指先で
塩を、ひとつまみ。
「焼きそば! 紅生姜、多めで!」
海から戻った常連客が笑う。
「この味が恋しくてさー、また来ちゃったよ!」
湯気の向こうで、潮風が暖簾をふわりと揺らした。
レシピ帳を閉じる前に、今日の日付を鉛筆で書き足す。
ススッ。
祖母の筆跡のすぐ下へ、
新しい夏が 静かに並んだ。
夕暮れ。
茜色に染まる海を前に、最後の客が浜辺へ戻ってゆく。
寄せては返す波は、
今年も変わらぬ調子で砂を撫でていた。
開いたままのレシピ帳。
ーーー 塩 ひとつまみ。
その小さな文字を、
潮風が、そっと
ページをめくるように撫でた。
