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(6) ぷはぁ!から始まる夜|マニラの盛り場で見た人間模様

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🌅 酒井先生のまっすぐ手記|旅で出会った、人と知恵とユーモア

1947年 新潟県長岡市(栃尾)生まれ。
青年海外協力隊員として2年半フィリピンに派遣され、理数科教師を務める。
長崎大学熱帯医学研究所での研修を経て、1997年に酒井歯科医院を開院。
長年にわたり歯科医師として地域医療に携わってきた。
そんな酒井さんが、旅先で出会った人々との交流や、異文化に触れて感じた驚きや学び――
すべてを“まっすぐ”に綴った、ちょっとユーモラスで深みのある旅の手記です。

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※1995年。酒井先生のフィリピン手記より


夕方になると、どうにもビールが恋しくなる。
一日中仕事をしていなくてもそうなのだから、暑さのせいも大きいだろう。日中の熱気が体にまとわりついてくるようで、夕暮れ時には「もう我慢ならん」と思ってしまう。

ジョッキを持ち上げて口に運ぶ。
――「ぷはぁ!」

キンキンに冷えた黄金色のビールが喉を駆け抜けると、汗と一緒に一日の疲れまで流れていく気がした。あの瞬間の爽快さといったら何ものにも代えがたい。だから私は毎晩のようにビールを飲んだ。自宅にいても、外出先でも同じことだった。

大学で教えていたときは田舎だったので、外で飲みに行くことはほとんどなかった。だがマニラへ行けば事情は違った。協力隊の仲間が誰かしら来ていて、一緒に飲みに行くのが恒例だった。

地方から来た人にとって、日本食を久々に味わいながら酒を酌み交わすのは大きな楽しみだ。だから話もすぐにまとまる。和食を食べ、一風呂浴びてから夜の街へ繰り出す――それはもうお決まりのコースだった。

木のテーブルの上に置かれた冷えたビールジョッキと、フィリピンの定番つまみであるシシグとチチャロンの盛り合わせ。背景にはぼんやりとしたバーの灯りが映り、南国の夜の雰囲気が漂っている。

🌃 ネオンとドルが踊る街

行き先はだいたいエルミタ地区。日本食レストランが集中し、観光客向けの“ドル箱”と呼ばれていた歓楽街である。警察も多少のことには目をつむる、特別な区画だと聞いた。

幅5〜6メートルほどの道路が2本並行に走り、その両側には外国人相手の店がひしめいていた。夜になると、看板のネオンがチカチカと瞬き、湿気を帯びた熱気と混ざって視界が揺らぐほど。通りを歩けば、どこからともなくカラオケの歌声やディスコの重低音、そして人々の笑い声が耳に飛び込んでくる。

飲み屋も多彩だった。
カウンターで静かに飲む店。水着姿の女の子がディスコミュージックに合わせて踊る店。日本人向けにカラオケを置いた店。ドイツ風のつまみを出すジャーマン・パブ。

どの店でもビールは1本1ドル前後。日本人から見れば決して高くはなかった。通りの角ごとに両替所があり、小さな窓口から札束が差し出される音が雑踏に混ざって響いていた。

欧米人は言葉の壁がないため一人行動が多く、目立たなかった。しかし日本人観光客はどうしても集団行動になりやすい。

そのせいで、日本人の愚かな行動も目立った。両替もできずに同伴の女の子に身振り手振りで頼む男。ディスコバーで万札を出し、自分の娘ほど若い女性を口説いている中年男。その頭の薄くなった姿に「なんとも醜いもんだな」とつぶやいた。

日本人も欧米人もしていることは同じだが、新聞沙汰になるのは日本人ばかりである。

それでも私はよく飲みに出かけた。JOCVの事務所に近く、仲間と合流しやすかったからだ。この国で働く日本人は皆外国人であり、日々大きなストレスを抱えていた。

「なんでこんなことがわからんのだろうなぁ…」

そんな思いを抱えた日々。だからこそリラックスできる場で酒を飲みたくなる。日本食をたっぷり食べ、足の向くまま飲みに行く。それは仕事を円滑に進めるための大事な充電だった。夜の盛り場は私にとって、明日のためのエネルギーを補給する場所だったのだ。


💃 水着の踊り子、そして“全部”なくなる衝撃

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