語れることと、語るべきこと―重大事故後のSNSと情報倫理
このたびの地震と、それに伴う重大事故で亡くなられた方々に、心よりお悔やみ申し上げます。負傷された方々の回復と、被災された地域の一日も早い復旧を願っています。
その上で、事故後のSNS上の発信について触れておきたい。
事故の直後から、被災した施設の従業員を名乗るアカウントが、避難時の行動、館内の様子、警備員とのやり取り、再入館の経緯などを相次いで投稿していた。
内容が事実であるかどうか以前に、こうした発信は慎むべきだ。
死傷者が出て、捜索や安否確認が続き、事故原因も明らかになっていない段階で、現場の一部しか見ていない個人が内部事情をSNSへ流せば、断片的な証言だけが独り歩きする。
ある人が「戻るように言われた」と書き、別の人が「警備員も止めなかった」と補足し、さらに第三者が店舗名や所属先を結びつける。
やがて、確認されていない話が、所属組織からの業務命令や現場の黙認を示す確定情報のように扱われていく。
本人にとっては、自分の体験を説明しているだけかもしれない。
自分たちも懸命に行動したことを知ってほしい、誤解されたくない、非難される前に事情を伝えたいという思いもあるだろう。
しかし、正しい主張であることと、公に発信してよいことは別である。
当時の指示や館内の状況について知っていることがあるなら、まず伝えるべき相手は、警察、消防、所属先、事故調査を担当する機関である。
必要であれば、報道機関、労働組合、公益通報窓口など、内容を確認できる相手を選ぶこともできる。
SNSの不特定多数へ、確認されていない情報を直接投げることとは違う。
勤務先を名乗って発信すれば、その言葉は個人の感想だけでは済まなくなる。
所属組織全体の対応を代表する証言として受け取られ、同僚、犠牲者、遺族、取引先まで巻き込む。
事故直後の証言は、後に捜査や検証の対象になる可能性もある。
それを公開の場で何度も説明し、他人の反応を受けながら補足していけば、本人の記憶や表現にも影響が生じる。
事実の確認より先に世論が形成され、誰が悪かったのかという結論だけが固まっていく。
重大事故について組織が十分な説明をしないとき、現場の証言が事実解明の端緒になることはある。
組織による隠蔽を防ぐため、内部の人間が声を上げなければならない場合もある。
だが、公益のために検証可能な形で証拠を届けることと、自分たちの事情を理解してもらうためにSNSで内部情報を語ることは別である。
透明性とは、未確認の断片を大量に公開することではない。
内容を検証できる相手へ証拠とともに伝え、関係者の権利や調査への影響にも配慮しながら、必要な事実を明らかにすることである。
遺族や社会の知る権利も、関係者個人が好きな時点で、好きな範囲の内部情報を公開することまで正当化しない。
遺族には、SNS上の群衆より先に、正確な事実を正式な経路で知らされる権利がある。
第三者の知りたいという感情が、調査中の情報を即座に公開する根拠になるわけでもない。
所属先から発信禁止の指示が出ていたかどうかは、本質ではない。
明確な社内規則や指示があれば従うのは当然だが、重大事故の関係者であれば、命じられなくても、何を、いつ、誰に伝えるべきかを判断しなければならない。
これは箝口令や守秘義務以前の、情報倫理の問題である。
悲しみや恐怖を語ることまで否定する必要はない。
被災した当人が、自分の感情を言葉にして支えを求めることはある。
しかし、自分の感情を語ることと、内部の指示、警備体制、他人の行動、未確認の被害状況を公表することは分けなければならない。
動揺していたから仕方がないという擁護もあるだろう。
だが、出来事を文章にまとめ、他人の反応を読み、質問に答え、何度も補足を重ねているのであれば、少なくとも何を公に出すかを選ぶ余地はあったはずだ。
悲しみや恐怖が本物であることと、発信が浅はかであることは両立する。
自分たちの事情を理解してほしいという思いがあったとしても、そのために事故調査中の内部情報を不特定多数へ開示してよいことにはならない。
共感や擁護を求める発信が、同僚や遺族、勤務先を巻き込む結果になっていないかを考える必要がある。
SNSは、事故調査の窓口でも、証言を検証する場でもない。
語れることと、語るべきことは違う。
重大事故の直後ほど、その区別が問われる。
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