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若さを借りる老い、若さを叩く老い―学び直せない人たちの言葉

「年上から学ぶことより、年下から学ぶことの方が多い」そんな言葉に、強く反応する人がいる。

年上を敬っていない。人生経験を軽く見ている。人から学ぶ姿勢が足りない。結局は本人の謙虚さの問題だ。
一見、もっともらしい。けれど、こうした反応を見ていると、別の問題が浮かび上がってくる。

それは「誰から学ぶか」ではなく「学び方そのものが老いていないか」という問題だ。

ここでいう老いとは、年齢のことではない。
自分の知っている枠組みでしか世界を測れなくなり、その枠組みが古びているかもしれないと疑う体力を失うことだ。

逆に、年齢を重ねていても、分からないものを分からないまま観察できる人はいる。
新しいものに飛びつくわけでも、若者ぶるわけでもなく、自分の理解が遅れている可能性を残したまま、目の前のものを見ることができる。

そういう人は、過去の歴史や古い産物からすら、新しい発見を得られる。

学びを、教えてもらうことだと思っている

学びを、誰かが自分にとってためになることを教えてくれるものだと思っている人は多い。

年上は人生経験を教えてくれる。年下は新しい感覚を教えてくれる。自分はそれを謙虚に受け取る。
もちろん、それも学びの一部ではある。
けれど、学びは本来、誰かからありがたい教えをもらうことだけではない。

相手が教える気などなくても、学びは成立する。
年上の古い発言から、その人の経験がどの時代条件のもとで有効だったのかを読むことができる。
年下の雑な言葉から、いま何が当然視され、何が不要なものとして扱われているのかを読むこともできる。
コメント欄の反応から、人がどこで論点を道徳や人格評価にすり替えるのかを見ることもできる。

学びとは、相手を先生にすることではない。
目の前の反応や違和感や失敗から、自分で何かを取り出す力のことでもある。
そこを見失うと「年上から学ぶか、年下から学ぶか」という話は、すぐに敬意や謙虚さや人生経験の話に縮んでしまう。

若さを学ぶ人と、若さを借りる人

若い感覚を持っている人は、必ずしも若者の言葉を使うわけではない。
流行に詳しいわけでも、若者文化にすぐ乗れるわけでもない。

むしろ本質は、知らないものをすぐ馬鹿にしないことだと思う。

分からないものを、分からないまま観察できる。自分の知っている枠に急いで押し込まない。自分の経験が、もうそのままでは通用しないかもしれないと考えられる。そこに、若い感覚がある。

一方で、若さを借りる中年は違う。
若者の感覚そのものを知ろうとするのではなく「若者に理解があるように見える立場」を欲しがる。
だから、表面的には柔らかく見える。新しいものを否定しない。若い人の話題にも乗る。古い中年とは違う顔をする。

けれど、判断の仕方は古いままだったりする。
人を見る目は序列的で、学び方は受け身で、自分の前提を疑う努力はしない。
若者を対等な他者として見ているのではなく、自分を古く見せないための材料として使っている。

だから痛々しい。

若く見えるために若者へ近づいているのに、その近づき方の中に、むしろ老いが出てしまう。

若さを叩いて安心する人たち

SNS、特にThreadsのような場所で目立つ若者叩きも、これとよく似た心象を持っている。
若者を批判しているようで、実際には自分の老いを慰めているように見えることがある。

若い人の未熟さや失敗を見つけては「やはり自分たちの方が分かっている」と確認する。
若者の弱さを、自分の時代の正しさを証明する材料にする。
若者の苦しさを「自分たちの苦労に比べれば大したことはない」と処理する。
そこには、若い世代を観察する姿勢がない。

本当に若者から学べる人は、若者を理想化もしないし、叩いて安心もしない。
自分とは違う条件の中で生きている人たちとして見る。

でも、若者叩きに走る人は、若者を通して自分を見ている。
若い人の現実ではなく、自分の不安、自分の取り残され感、自分の人生の正当化を見ている。

近づく老いと、遠ざける老い

若さを借りる老いと、若さを叩く老い。一見、逆の態度に見える。
前者は若者に近づこうとし、後者は若者を遠ざけようとする。けれど、根は近い。

どちらも、若い人の感覚や未来を、その人たち自身のものとして置いておけない。
若い人を見ているようで、実際には自分の不安を見ている。自分が古びていくこと、自分の経験が通用しなくなること、自分の側にはもう戻らない時間があること。
その落ち着かなさを、若者を通して処理しようとしている。

だから、若さを借りる人は若者の表層に近づき、若さを叩く人は若者の未熟さを探す
方向は違っても、どちらも若いものを自分のために使っている。

他人の福に割り込むということ

この感覚を、かなり露骨な形で見せるものとして、中国語圏で語られる「抢福冲喜」のような婚礼迷信がある。

中国語圏の記事では、結婚式で新婦が家に入る瞬間などに、年配者が新婦より先に通ろうとし、その「喜気」や「福気」を自分の側へ移そうとする行為として説明されている。
背景にある「冲喜」は、家に重病人がいるとき、結婚などの喜び事によって疫病神を追い払うという意味で説明される語でもある。

外から見れば、若い二人の門出を邪魔する嫌がらせにしか見えない。
実際、やられる側からすれば妨害だし、不快な行為だと思う。

ただ、その内側にある感覚を考えると、単純な悪意だけでは片づかない。
若さ、結婚、門出、生命力。そうしたものが強く発生する場に近づき、その力にあやかりたい。
自分の不運や老いを、若い人の幸福によって少しでも払いたい。

そういう世界観があるのだろう。だからこそ不気味なのだ。
悪意なら、まだ分かりやすい。嫉妬や嫌がらせなら、批判もしやすい。
けれど、これは祝福や長寿祈願や家族の救済のような顔をしている。

本人たちは、奪っているつもりではないのかもしれない。少し福を分けてもらう。喜びにあやかる。そのくらいの感覚なのかもしれない。

けれど、そこに若い二人の主体性はない。
若い人の幸福が、若い人のものとして尊重されていない。
祝福するのではなく、その幸福を自分の不安や衰えを処理するために使おうとしている。

引き受けず、奪う側を選ぶ

ここでさらに気になるのは、同じような民俗的な想像力の内側には、厄や病を誰かが引き受けるという方向の発想もあることだ。
つまり、他人の不幸を自分が肩代わりするという想像も、一応はあり得る。
にもかかわらず、あえて選ばれるのが、若い人の福を奪う側であるなら、そこに見えるのは単なる迷信ではない。

自分が誰かの厄を引き受けるのではなく、若い人の幸福を自分の不安や衰えのために使おうとする。
差し出すのではなく、取る。支えるのではなく、割り込む。
祝福するのではなく、あやかるという名で横取りする。

その選択に、老いの自己保存が出る。

ここで見えてくるのは、単なる婚礼迷信の話ではない。
老いた側が本当に引き受けるべきものを引き受けず、若い側から何かを得ようとする姿勢そのものだ。

では、年長側が本来引き受けられたものとは何だったのか。

年長側が引き受けるべきもの

本来、年長側ができることは、若い世代に残してしまった厄を少しでも引き受けることでもある。

古い制度や硬直した職場文化、先送りされた生活不安や将来への閉塞感。
そういうものを若い世代に押しつけてきた側として、自分たちの経験を点検し、どこで間違え、どこから古びたのかを考えることはできる。

けれど、若者叩きに走る人は、そこを見ない。

自分たちの時代が残した歪みを引き受けるのではなく、若者の未熟さを責める。
若者の言葉づかいや弱さや不満を見つけて「やっぱり今の若い人が悪い」と処理する。

これは、厄を引き受けるのではなく、厄を若い側へ押し返している。

奪えない幸福と、露呈する欠乏

もちろん、年寄りが横切ったくらいで、若い二人の幸福が本当に減るわけではない。
若い側には、これから先の時間がある。関係を作る力がある。失敗してもやり直せる余白がある。幸福は、一度の儀式に閉じ込められているわけではない。
だから、誰かがそこに割り込んできても、本質的な幸福までは奪えない。

むしろ浮き彫りになるのは、奪おうとする側の欠乏だ。
若い人の幸福を見たとき、素直に祝うのではなく、分けてもらう、移してもらう、吸い取るという発想になる。
その時点で、自分にはもうそれがないと感じていることが露呈している。

SNSの若者叩きも同じだと思う。
若者が少し叩かれたくらいで、若さそのものが失われるわけではない。可能性も時間も、まだ若い側にある。
けれど、叩いている側は、その若さや未来に耐えられない。
だから、未熟さを探して安心する。幸福を奪えるわけではないのに、せめて傷をつけた気になりたい。

若い幸福は、実際にはそう簡単に奪われない。
奪おうとする行為が暴くのは、若い側の脆さではなく、老いた側の欠乏である。

「ブレない軸」という名の思考停止

ここまで見てきた若者叩きや、若さを借りる態度は、単に年齢や世代の問題ではない。
もっと広く言えば、自分の持っている型でしか現実を読めなくなった人が、その型に合わないものを「未熟」「浅い」「間違っている」と処理してしまう問題でもある。

その意味で、これは若者を見る目だけの話ではない。
人が自分の思想や信念に閉じ込められていく過程の話でもある。
世間では、「ブレない軸を持っている人」や「確固たる思想を持っている人」が、大人として成熟しているように見られることがある。

もちろん、判断基準を持つこと自体が悪いわけではない。
何もかもその場の空気に流されるだけでは、考えているとは言えない。

けれど、軸は持った瞬間から古び始める。

ある時点の経験から作られた判断基準は、その時点では有効だったかもしれない。
けれど、現実は動く。社会も、人間関係も、働き方も、言葉の意味も変わっていく。
その中で、自分の軸だけを固定したままにすれば、やがて現実の方が間違って見えるようになる。

本来なら、現実を見て、自分の型を疑うべきところで、自分の型を守るために現実を歪めて読むようになる。
けれど、いくら現実を歪めて読んでも、現実そのものが変わるわけではない。

若い人の感覚を「未熟」と呼んでも、その感覚が生まれた時代条件は消えない。
新しい働き方を「甘え」と呼んでも、その背景にある生活不安や制度疲労がなくなるわけではない。
自分の型に合わないものを否定しても、世界がその型に戻ってくれるわけではない。

むしろ露呈するのは、その型がもう現実を説明できなくなっているかもしれないという不安である。
硬直した思想は、現実を支配しているのではない。
現実に追いつけなくなった自分を守るために、現実を小さく切り詰めているだけなのだ。

若い思考とは、新しいものを無条件に肯定することではない。
自分の判断基準が、今も有効なのかを点検できることだ。

老いた思考とは、古いものを大事にすることではない。
自分の型に合わない現実を、未熟、浅い、間違っている、と処理し始めることだ。

「私はこういう考えでやってきた」
「結局、人間に大事なのはこれだ」
「今の若い人は分かっていない」

そうした言葉は、一見すると経験に裏打ちされた信念のように聞こえる。
けれど、その内側で、自分の思想を疑う力が失われているなら、それは成熟ではなく硬直である。
怖いのは、本人がその硬直に気づけないことだ。

自分の思想が、世界を見るための道具ではなく、自分を閉じ込める檻になっている。
それなのに本人は「自分には軸がある」「自分は物事の本質を分かっている」と思っている。

その全能感に包まれた無知こそが、思考が老いていく過程なのだと思う。

思想を持つな、という話ではない。
思想は必要だ。けれど、それは完成品ではなく、あくまで一時的な仮説であるべきだ。

自分が信じているものですら、現実に照らして組み替えられるか。
自分の正しさを守るためではなく、自分の見方を更新するために他者や若い世代を見られるか。

そこを失ったとき、人は年齢に関係なく老いる。

若い感覚は、現在に張り付くことではない

ただし、若い感覚とは、新しい話題を追うことだけではない。
新しいアプリを知っていることでも、若者言葉を使えることでも、流行に乗れることでもない。そういうものは、せいぜい表層の更新にすぎない。

本当に若い感覚とは、好奇心の高さであり、学び取ろうとする意識そのものだと思う。

それは、過去に対しても働く。
古い制度や道具、昔の文章、過去の失敗、歴史の中に残された生活感覚。そういうものからも、大いに新しいことは学べる。
古いものを見て「もう終わったもの」と片づけるのではなく、なぜそれが生まれたのか、どの条件では有効だったのか、なぜ消えたのか、いま別の形で戻ってきていないかを見る。

過去をちゃんと読める人ほど、現在の「新しそうなもの」が本当に新しいのか、それとも名前を変えた反復なのかを見分けられる。

つまり、若い感覚とは現在に張り付くことではない。
過去も現在も、どちらも材料として見られることだ。

老いとは、自分の古さを認められなくなること

老化は、年齢や見た目だけの話ではない。思想や信念が固まること自体でもない。固まったものを、もう疑えなくなることだ。

自分の古さを認められなくなること。自分の経験を点検できなくなること。
知らないものを、自分の知っている言葉で急いで処理してしまうこと。
若い人の幸福や感覚を、その人たちのものとして置いておけなくなること。

そこに、思考の老いは出る。

本当に学び続けている人は、若者ぶる必要がない。
年齢相応の落ち着きがあっても、考え方が古びていない。
分からないものを分からないまま見られる。
若い相手を、教えてくれる存在としても、自分を若く見せる材料としても扱わない。

ただ、自分とは違う条件の中で生きている一人の人間として見る。

学びとは、相手から何かをもらうことだけではない。
相手を通して、自分の前提を点検することでもある。

若さを借りる人、若さを叩く人、若さから学ぶ人。
その違いは、年齢ではなく、学び方に出る。

そして学び方が老いた人ほど、若さに近づくほど、かえって老いて見える。

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