【残唐五代史演義伝】第五十九回 郭威、民に推され黄袍を纏う
郭威の軍が澶州に到着すると、李洪義が出迎えて城に入れ、王殷も兵を率いて合流し、軍はひとつにまとまった。
郭威はいったん兵を退くことも考えたが、諸将は口々に言った。
「国家の大事は、まさにこの一挙に懸かっています。閣下はなぜ退こうとなさるのです。国が閣下に背いても、閣下は国に背かなかった。
だから万人が憤りを燃やし、あたかも私怨を晴らすかのように奮い立っております。侯益ごとき、何ができましょう」
こうして兵士たちはますます意気上がり、前進の勢いは強まり、軍威はいよいよ高まった。
翌日、軍は梅坡に至り、ここに陣を敷いた。
隠帝は郭威の軍がすでに近づいたと聞き、大いに恐れて、あらためて袁義、劉重進に禁軍を率いさせ、侯益らと合流して赤岡に駐屯させた。
慕容彦超は大軍をもって七里店に布陣した。
隠帝は自ら出て軍をねぎらおうとしたが、太后に制されて思いとどまった。
そこへ郭威の軍が戦いを挑んできたと知らせが届いた。
帝は慕容彦超に命じ、騎馬を出して敵兵を誘い出させた。
郭威は李榮を出陣させ、慕容彦超と対峙させた。十数合の攻防ののち、慕容彦超は敵わぬと見て、馬を返して陣へ逃げ帰った。李榮は追ったが、左右の軍から矢の雨を浴び、やむなく引き返した。
その日の戦で慕容彦超の軍は百余名の死者を出し、諸軍の士気は少なからずくじけた。
この様子を見た北軍の将・侯益らは密かに郭威を訪ねた。郭威は彼らをそれぞれの陣に戻らせた。
慕容彦超は敗戦ののち、わずか十騎あまりを従え、兗州へ必死に退却した。
隠帝は宰相三名と数十名の近臣だけを連れ、七里寨に宿営したが、他の兵は皆、散り散りに逃げていた。
翌朝、宮中へ戻ろうとして玄化門に着くと、門上にはすでに劉銖がいて弓を引き絞り、矢を放った。隠帝はこれを避け、急いで馬を西北へ駆った。
趙村に至るころ、すでに追手が迫っていた。隠帝はこれを見ると馬を降り、徒歩で逃れようとしたが、乱兵に囲まれ、ついに殺害された。
蘇逢吉、閻晋卿、郭允明らも皆、自ら命を絶った。
郭威は迎春門から入城し、自らの私邸に帰った。
その後、諸軍は洛陽の城内に入り、一度だけ掠奪を行った。
翌日、文武百官は太后に拝謁し、国事を奏し、禅譲の儀を申し述べた。ここで王殷が進み出て言った。
「国は一日たりとも君主を欠けません。願わくは速やかに明君をお立てになり、天下をお鎮めください」
太后はこれを受けて詔を下し、隠帝の弟である河東節度使・劉贇を迎えて帝位に就けることとした。
当時、劉贇はまだ京に着いておらず、ちょうど契丹が侵入してきたため、太后は郭威に命じて大軍を率い、これを討たせた。
郭威が澶州に至り、出陣を前にしたとき、将士数千人が突如大声で騒ぎ出した。急ぎ城門を閉じたが、将士らは垣を越えて乱入し、叫んだ。
「天子には、侍中たる郭公こそふさわしい。われらはすでに劉氏とは仇。同じ主にはもう仕えられぬ!」
言い終える間もなく、一人の将官が現れ、黄旗の一枚を裂いて郭威の肩にかけ、将士は一斉に彼を押し立てた。その声は数十里にも響き渡った。
こうして郭威は将士に推されて南へ進軍した。
郭威は太后に箋を奉り、
「漢の宗廟をお守りし、太后を母太后としてお仕えいたします」
と申し上げた。
太后は詔を下し、劉贇を湘陰公に降格させ、郭威に国政の監督を命じた。
百官および諸藩鎮は次々に表を奉り、進んで郭威に帝位に即くよう勧めた。
ここに郭威は漢を廃した。漢は二代わずか四年。辛亥の年、漢はここに滅びた。
後世の歴史家は次のように言った。
高祖は精鋭の兵を擁し、地の利を占していた。加えて契丹の騎兵は北へ去り、中原に主のなかった折であったため、ゆるやかに帝位に即き、天下はこれに従った。これを人徳と才幹の賜とだけ言えるだろうか。むしろ時の勢いと機会が与えたのである。
そもそも根の浅いものは固く守れず、基の薄いものは傾きやすい。隠帝は名目こそ帝であったが、政務は自らの手で執らず、民は君を知らず、軽々しく小人の言を信じ、強権を握る大臣を排そうとして、たちまち禍を招いた。これは自然の勢いであり、避け難かったともいえる。
父子相継いで、わずか四年で滅ぶ。古来、国祚の短さは語られてきたが、これほどの例はかつてなかった。ああ、哀れむべきである」
さて、郭威は太原の出身である。唐の荘宗・李存勗には、柴氏という宮人がいて、その女が郭威の家に下げ渡され、妻となった。
ある日、柴氏が門外をのぞいていると、ひとりの者が疾走して通り過ぎた。驚いて尋ねた。
「今さっき通ったのは誰ですか?」
それを知る者が答えた。
「従軍馬使の郭雀児です」
柴氏はこれを聞くなり、あの方に嫁ぎたいと願い出た。父母は言った。
「お前はかつて皇帝の身近に仕えた者。嫁ぐなら節度使のような身分ある者がふさわしい。どうしてそのような相手に嫁ぐのか」
しかし柴氏の意志は固く、ほかの人への縁談をすべて断り、ついに郭威に嫁いだ。
のちに郭威が即位すると、みずからを周の虢叔の末裔であると称し、国号を『周(後周)』と定め、『太祖高帝』と号した。天下に大赦を布き、年号を『広順元年』と改めた。柴氏は皇后に立てられた。
周帝・郭威には子がなかったため、皇后の兄・柴守礼の子である柴栄を嗣子に立て、晋王に封じた。
そのころ、劉崇は晋陽で帝を称した。そもそも劉崇は隠帝が殺されたと聞いて兵を起こし、南へ進もうとしたが、息子の劉贇が新帝に立てられたと知るや大いに喜んだ。
「わが子が帝となったのなら、これ以上何を望もうか」
ところが、やがて劉贇が廃されたと聞くと、みずから帝を称し、并・汾・忻・代・嵐・憲・降・蔚・沁・潦・麟・石の十二州すべてを自らの版図とした。判官の鄭珙、趙華国を平章事に任じ、臣下に向かって言った。
「朕は高祖の業を継いだのに、一朝にして地に落ちた。今日この位号を称するのは、やむを得ぬからだ。思うに、朕は何の天子で、そなたらは何の節度使であろうか」
ここに国号を『北漢』と定めた。
さて、周の主が鄴都に在していたころ、下級官吏の曹翰の才を深く愛し、晋王・柴栄に仕えさせた。柴栄が澶州を鎮めた際には、曹翰を牙将に任じた。
のちに柴栄が開封の尹に任じられた折、曹翰が進み出て尋ねた。
「大王は国家の嗣子で、万民が仰ぐお方。近ごろ皇帝陛下ご病気とうかがいました。大王は当然そばに侍して薬をお手ずからお勧めすべきところ、なぜなお他の政務をご覧になっているのです。
もし一朝ことが起これば、誰がこれをお支えできましょう」
この言を聞いた柴栄は大いに驚き、すぐさま喜び勇んで宮中へ戻った。その時、周帝・郭威の病状は篤く、晋王に政務を執らせるよう詔を下した。
周帝はこう戒めた。
「昔、朕が西征した折、大唐の十八陵を巡ったが、一つとして盗掘を免れたものはなかった。理由はただ、金銀玉帛を多く蔵したからだ。
朕の死後は、紙の衣で身を覆い、瓦の棺で葬れ。墓の穴には石材を使わず瓦片で代えよ。工人や人夫には必ず賃金を払い、百姓を苦役に駆り出すな。
埋葬が済んだら、近くに住む三十戸を募って墓守とし、雑役を免除せよ。下宮を建てるな。宮人を置くな。石羊・石虎・石人・石馬も造るな。
ただ石に刻んで陵前に置き、こう記せ。
『周の天子は生前より倹約を好み、紙衣と瓦棺での葬を望んだ。後を嗣いだ天子は、これに背いてはならぬ』
もしそなたがこの言に背けば、朕はそなたに福を与えぬぞ」
そう言い終えるや、周帝は大きく一声を上げ、息絶えた。享年五十三。広順三年二月上旬のことであった。
後世の歴史家は語る。
「周祖は二度も主君を殺し、ついに帝位を奪い取った。だが、国を掌握した当初は、四方からの珍味・貢ぎ物を禁じ、百官に密奏を上げさせ、旧漢の宮殿や器物を整理して取り払い、文章の作法を定め、税制や皮革税の制度を整えた。
さらに戸部の営田を廃し、租税を半減した。また曲阜の孔子廟に参拝し、その墓には二度平伏した。
そのほか、軍務は王濬が補佐し、法令は范質がまとめ、君主の志は李谷がうまく導いた。ゆえに国祚は短くとも、施政そのものは称賛に値した。古い儒者たちが、彼を『唐の明皇に次ぐ周の世主』とたたえたのも、この功績による。
とはいえ、彼はもとより体に刺青のある身で、それを恥じずに自ら天子の座に就いた。言わば、黄の天蓋の下に一介の『刺青の男』が座っているようなものだ。これでどうして天下の民を率いられようか。
しかも彼自身は劉崇に向かってこう言っている。『古来、首に刺青のある天子などいたか』。この一言を見ても、周祖が自分をどう見ていたかは明らかである。」
周帝が崩御すると、その玉体は偏殿に安置され、百官および有司は皆、深く哀しみ嘆き悲しんだ。
平章事の范質が進み出て言った。
「陛下が崩御され、天下は震動しております。早く後継者を立て、国統を継承されますよう」
これにより、晋王・柴栄を迎えて帝位に即かせ、号して『世宗皇帝』と称し、年号を『顕徳』と改めた。
晋王は本姓を柴といい、当時三十三歳であった。馮道を太師に封じた。
その年の八月、周帝を新鄭に葬り、諡して太祖皇帝とした。皇后の柴氏は太后として養老宮に入らせ、天下に大赦を布いた。
さて、北漢の王・劉崇は周帝が崩御したと聞き、大いに喜んで言った。
「郭威は我が家の天下を簒奪した者。かねて復讐を期していたが、機会がなかった。
今や郭威はすでに死した。もはや憂うことはない!」
すぐさま使者を遣わし、金帛を厚く贈って契丹に援軍を請うた。契丹王はこれに応じ、大将・楊兗を派し、騎馬一万を率いて援軍として送った。
北漢の主・劉崇はみずから三万の兵馬を率いて洛陽に攻め寄せた。
辺境の地より続々と急報が届いた。これを聞いた世宗は群臣を集め、みずから兵を率いて迎え撃とうとした。
それに対して群臣は進言した。
「それはなりませぬ。劉崇はかつて平陽を捨てて逃げた後、勢い衰え、気も挫けております。親征しるには及びませぬ。
陛下は即位されたばかりで、太祖の葬儀もまだ終えておらず、人心も安定しておりません。いま軽々しく動かれるべきではなく、大将を一人遣わすのみで十分にございます。
どうして御自ら御出馬なされる必要がありましょうや」
世宗は言った。
「それは違う。劉崇は朕の大喪に乗じ、朕が若くして新たに即位したことを侮っている。必ず自ら攻めて来よう。ゆえに朕もまた迎え討たねばならぬ」
馮道はこれに強く異を唱えたが、世宗は言った。
「かつて唐の太宗が天下を定めたとき、みずから軍を率いぬことはなかった。朕がどうして安逸を貪ろうか」
馮道は返して言った。
「陛下が唐の太宗と同じことを成し得ましょうか?」
世宗は言った。
「我が兵力の強さをもってすれば、劉崇を破るなど、山を推して卵を潰すに等しい」
馮道は再び言った。
「では陛下は、果たしてその『山』ほどの力をお持ちでしょうか」
世宗はこの言に不快を示したが、王溥だけは出陣を勧めた。
この戦いの勝敗はどうなるか、続きは次回にて。
明代の学者・李卓吾は語る。
世宗は北漢がなお服従しないことを憂い、自ら敵地に赴き、必勝を期した。まことに英武の君と称すべきであろう。
