【残唐五代史演義伝】第五十回 石敬瑭、長安で即位する
張皇后が斬られたのを見た石敬瑭は、怒りを喜びに転じて言った。
「よくやった。実に見事だ!」
そのとき、永寧公主が姿を現したので、石敬瑭は迎えて帳中に通し、問いかけた。
「公主、宮中を出て、こうしてまた私と会えたいま、何か言いたいことはあるか?」
公主は答えた。
「わたしが冷宮に幽閉されていたあいだ、李玉英が何度も支え助けてくれました。今日、こうしてまた駙馬殿下と会えたのも、すべてこの者のおかげです。
どうか駙馬殿下、この者の恩に報いてください。心からお願いいたします」
石敬瑭はすぐさま、李玉英の行方を探させた。
まもなく、左右の者が奏した。
「李玉英様は城中の騒ぎを避けて逃れ、いまは馮丞相の府に身を寄せております」
石敬瑭は使者を遣わして李玉英を迎えさせ、珠の冠を賜わり、宮中への出入りを許し、永寧公主とともに富貴を分かち合う身とした。
翌日、石敬瑭は旧時の文武百官を長朝殿に集め、唐室の子孫を探し迎えて帝位に就けようと提案した。
そこへ舒必達が進み出て言った。
「大唐には、もはや後継がおりません。天命は殿下に帰すものと存じます。いまこそ国を治めるべき時、なぜ他の人をお迎えになりましょうか」
石敬瑭はなお辞退し、自らの即位を受け入れなかった。
そこへ契丹の主が言った。
「私は遠路をいとわず助太刀に来ました。仇敵はすでに滅び、大業は成るのみです。あなたの器量と見識なら、まさに中原を治めるにふさわしい。どうか天子としてお立ちください」
石敬瑭は言った。
「すべては貴国のご加勢あってのこと、私自身に徳はありません。かような大任は身に余ります」
契丹の主は答えた。
「もうお断りになることはありません。私の意思は決まっています」
諸将も皆これを勧めたため、石敬瑭はついに辞しきれなくなった。
このとき、契丹の主はみずから詔を書き、石敬瑭に中華の皇帝位に就くよう命じ、国号を大晋、年号を天福と改めた。
さらに自分の衣冠を脱いで、石敬瑭に授けた。
その日、石敬瑭は合意の文書を作成し、まず幽州・薊州・瀛州・莫州・涿州・檀州・順州・新州・媯州・儒州・武州・雲州・応州・寰州・朔州・蔚州の十六州を割譲して契丹の主に与え、報礼とした。あわせて、毎年錦幣三十万を納めることも約した。
契丹の主は文書を受け取ると、人馬を率いて自ら本国へ帰った。長くはとどまらなかった。
やがて石敬瑭は契丹軍を本国へ送り返したのち、自ら『高祖皇帝』と称し、朝儀・法制はいずれも明宗の旧制を踏襲した。
趙瑩を翰林承旨に、桑維翰を翰林学士・枢密院事の代理に任じ、劉知遠を侍衛馬軍都指揮使とし、客将の景延広を歩軍都指揮使に抜擢した。
また、永寧公主を皇后に立てた。
そのほか文臣・武将に至るまで、各々の功を論じて賞を与えた。
しかしその時、藩鎮の中にはなお朝命に従わぬ者もおり、人心は不安に沈んでいた。
度重なる戦火で国庫は乏しく、百姓は困窮し、しかも契丹の求めは際限なく、たびたび国を悩ませた。
桑維翰は晋王に進言した。
「真心をもって旧怨を捨て、藩鎮をなだめ、柔らかな言葉で厚く契丹に仕え、兵を訓練して武備を整え、農桑を勧めて倉を満たし、商いを通じて税を軽くし、財を豊かにされませ」
晋王は大いに喜び、その言を受け入れた。
時に、天福二年二月、洛陽城に軍情の急報が届いた。
信州刺史・謝天然からの知らせは以下のようなものだった
『王延政、閩の建州において自ら帝を称し、国号を大殷とし、宮殿を設け妃を立て、朝廷に背いて兵を起こし、辺境を侵し、南方を騒がせております』
——このとき、晋王はいったい誰に出師を命じたのか。続きは次回にて。
さて、唐は荘宗・李存勗からこの時に至るまで、およそ四人の主が替わり、実に三つの姓が相次ぎ、合わせて十四年で、ついに滅びた。
石敬瑭が帝位に就き、国号を晋と改めたことで、残唐はここにその皇統が絶えたのである。
ここにこれを証する詩がある。
位立荘宗甲馬消 明宗仁徳歳豊饒
(荘宗が帝位に就いたものの軍馬の勢いは衰え、やがて明宗が仁徳で治めて年々豊作に恵まれた)
石郎兵出潞王死 一統山河属晋朝
(石郎が兵を起こして潞王が討たれると、天下は再び統一され、晋朝に帰した)
明代の学者・李卓吾は語る。
石敬瑭は契丹を父と称し、幽・薊の十六州を献じた。これによって、実に四百三十二年にわたり、異族に中原を踏ませることとなった。
これは石敬瑭と桑維翰の所為である。
もっとも、石敬瑭が唐室の子孫を探して禅譲を望み、再三辞退したことは、評価せざるを得ない。ついには即位を受け、国を『晋』と改めた。
ああ、唐はついにここで絶えたのだ!
