見るな。
まったくわけがわからなかった話。
数年前、僕は広告代理店で働いていた。
多忙を極めていて、週の半分くらいは終電車で帰っていた。
その日も最寄の駅を降りた時は12時をまわっていた。
僕は火照った脳をもてあますように、
ぼんやりとしながらのらりくらりと家に向かって歩いた。
月もない夜だ。
僕は暗い道がきらいではないので、
あえて街灯のない、墨を流したように真っ暗な道を選んで歩いていた。
ふと、視線の端に何か動くものをとらえた。
いつも見ている、粗大ゴミが集められている場所だ。
猫かな、と思い何気なくそっちに目をやった。
ほんの一瞬。
一瞬だけ目が合った。
真っ黒で大きな、四つん這いになっている何かと。
おやっと思った瞬間、
それは驚くべきスピードで僕の背後に駆け回った。
おそらくは、四つん這いで。
息が止まりそうになった。
しかし、それは僕は振り向くより速く、
「見るな」
と言った。
「見るな。こっちを向くな」
なおもそれは僕の背中に向かって素早く言った。
その場に凍りついていると、
「ゆっくり歩け」
と言う。
しょうがなく僕はぎくしゃくと歩を進めた。
駅から家まで歩いて五分ほどだ。
その五分が永遠に感じた。
背後のそれは、僕の歩みと同じペースでついてくる。
勝手に乱れてくる息を整え整え、
機械的に左右の足を交互に前に出した。
やがてマンションの灯りが見えた。
と、背中のそれは
「誰にも言うな」
とだけ言った。
ふっと気配が消えた。
僕はそのままゆっくりと歩き、
階段を上り、鍵を開け、部屋に入った。
その間、ずっと後ろを見ることができなかった。
それから僕は暗い道がちょっぴりきらいになった。
当然帰る道も変えた。
今は街灯が煌々と輝く国道沿いを歩いている。
暗い道への想いは捨てがたいが、しょうがない。
なにせあの黒い四つん這いとは二度と会いたくないのだ。
