マネキン
これも二十五歳くらいの頃のことだ。
当時僕はとある月刊誌の編集の仕事をしていた。
仕事の性質上、作業が深夜に及ぶことも珍しくない。
徹夜での原稿書き、三日間泊まりこみ、なんてのは当たり前になっていた。
よく職場の台所で頭を洗い、パンツや靴下をコンビニに買いに行ったものだ。
その日は入稿日。
デザイナーから上がってきたデータをすべて製版所に納め終わり、
僕と同僚と編集長は椅子に深く腰掛けて安息の余韻に浸っていた。
編集部では入稿後、毎月『入稿記念おつかれ痛飲大会』が開かれる。
僕達は馴染みの居酒屋になだれ込み、文字通り体を悪くするほど痛飲する。
全員がしたたか酔っ払う。
チーフデザイナーは部下の顔に日本酒を吹きかけ、
同僚が編集長のむなぐらを掴んで怒鳴り、
編集長は社長の文句を並べたて、
誰かが泡盛の三合瓶を一気飲みして気分が悪くなってトイレに篭城し、
ゲロを吐き散らかす。
そんな状態で会はお開きになる。
難波の新歌舞伎座の裏あたりでいつも飲んでいて、
まあ終わるのは深夜0時か一時くらい。
解散した後は、終電なんかもちろんない。
タクシーで家へ帰る者、歩いて家へ帰る者、
またバーで飲みなおす者、カプセルホテルへ行く者など色々だ。
僕と同僚のKはマンガ喫茶で夜を明かすことにして、
千日前方面に足を向けた。
深夜二時前。
オフィス街は真っ暗である。
街灯のオレンジ色の光だけが、ぼんやりと道を照らしていた。
ふと、顔を上げると明かりのついているビルが一つだけ見える。
十階建てくらいの小さな雑居ビルの四階あたりだけ、
1フロアー全部に明かりがついている。
僕は指差した。
「見て、こんな時間まで働いてる」
「ご苦労様なことですなぁ」
「俺らも人のこと言えんけどな」
「日本の未来は安泰やな」
僕達は茶化しながらビルの下を通り過ぎようとした。
と、妙なことに気づいた。
窓際に等間隔で、ずらりとマネキンが並べられているのだ。
その数、ざっと二十体。
アパレル系の商社なのかもしれない。
そういえばアパレル業界なんてのも休み返上、徹夜当たり前、
という世界だと聞いたことがある。
展示会やショーやなんかの準備で大わらわ、といったところか。
そんなことを考えながら、じっと目を凝らしてマネキンを見た。
一瞬、総毛だった。
それはマネキンではなく、人間だった。
人間がずらりと二十人、
窓際に一列に立ってゆらゆらと体を揺らしながらこちらを見下ろしていた。
僕は思わず声を上げそうになったがぐっとこらえ、下を向いた。
下を向く一瞬前、ど真ん中に立っている女と、確実に、ばちっと目が合った。
女は僕に向かって真っ赤な口をカッ、と開いた。
膝がかくかくと笑い出しそうになった。
Kを見ると、とっくに下を向いてきょろきょろと左右に目配せしている。
いきなり走って逃げるのも、それはそれで怖い。
追って来られたら、と思うと腰が抜けそうになった。
僕とKは少しだけ急ぎ足で、なるべく平静を保っているふりをしながら、
十字路を左に折れた。そして全力疾走でビルから離れた。
「人やった」
「ああ。揺れてたな」
「何なんやろ?」
「俺が知るか!」
たっぷり300メートルは走った。
酔いなんか、どこかに消し飛んでいた。
僕達はぜいぜい言いながら千日前の行きつけのマンガ喫茶に入り、
出来るだけバカバカしいマンガをセレクトして朝まで読みふけった。
後日、とても天気のいい昼下がりに件のビルに行ってみた。もちろんKと二人で。
四階にはカーテンも何もなく、がらんとしていて、
『貸物件』
と窓に貼り紙が貼られていた。
