ずぶ濡れおじさん その1
僕が二十五歳くらいの頃の話だ。
彼女との同棲をきっかけに、
僕と彼女は当時住んでいたFという町からKという町に引っ越した。
F町のマンションは二人で暮らすには手狭だったし、
K町のマンションは親戚の口利きもあって少し安く住める、というのも大きかった。
マンションは少し古かったが、以前住んでいた所より幾分広く、
住み心地も悪くなさそうだった。
引っ越して数日経った、ある土曜日の午後。
僕は不動産屋でもらった周辺地図を片手に、自分が住む町の探検に出かけた。
スーパーやコンビニや古本屋、病院、郵便局なんかが、
家から歩いてどのくらいの距離にあるのかも知りたかったし
(当時僕は自転車も持てないほど小遣いに汲々としていた)、
長い塀の連なるでかい旧家や樹齢何千年といった太いケヤキが立つ神社や長屋や石畳、
といった古き良き日本を思わせる風景が、
この町にどれくらい残っているのかも知りたかった。
僕はそういう風景が大好きなのだ。
何度も迷いながら、迷路のように狭い路地を行ったり来たり。
十二月だったので、数時間も歩けば早や陽は傾きかけていた。
(これはやばい、暗くなる前に広い道に出なければ!)
僕は焦りはじめた。
その日は寒さもかなり厳しかったせいか、
人もほとんど出歩いていない。
(ちょっと恥ずかしいけど、次に会った人に道を聞こう)
そう決めて、とにかく少しでも広い道を選んでずんずんと直進した。
少し大きな通りに出ることができ、ほっとした時だった。
50メートルほど前から人が歩いてくる。
五十歳くらいのひょろりと背の高いおじさんだ。
えんじ色のTシャツと黒っぽいジーンズという姿。足はサンダル履きだ。
やっと道が聞ける、と思うと同時に僕の足が自動的に止まった。
十二月の、冷え込みの厳しい日である。
上はぺらぺらのTシャツ一枚。サンダル履き。
寒くないのだろうか。
ちなみに僕はその日ダウンジャケットの下に厚手のセーターを着込んでいた。
おじさんは呆然とした表情で何かぶつぶつと呟きながら、
少し右足を引きずるようにしてこっちへ歩いてくる。
サンダルが濡れているのか、
おじさんが足を踏みしめる度にびちゃ、びちゃ、と音がした。
<つづく>
