となりのXさん その1
これまでにも何箇所かマンションを替えているが、
あんなにもおかしな隣人にはその後も出会っていない。
その隣人はいつも同じ服を着ていた。
それに気づいたのは妻だった。
いつもベージュの開襟シャツと、紺色のスラックスといういでたちだ。
「隣、ベランダから覗き込んでみたら?」
冗談半分で奥さんに言ったことがある。
洗濯済みのベージュの開襟シャツと紺色のスラックスが、
ショップのようにずらりと並んでいたら愉快だな、と思ったのだ。
もちろん覗くなんて失礼なことはしなかった。
温和な人だ。小太りで色が白い。銀縁の眼鏡をかけている。
欧米のマンガに出てきそうな、
特徴が誇張されたわかりやすい日本人像、といった印象の男だ。
たまたま出掛けに会うと、
「ああ、こんにちは」
とにっこり笑って挨拶してくれる。愛想がいい。
「愛想がいい人とは思えないけど」
奥さんは僕の言葉に変な顔で答えた。
「そう? 朝会うと、いっつもニコニコしてるよ」
「わたしが今日、買い物帰りに会った時は無視されたよ。虫歯でも痛いんじゃないかってくらい、苦々しい顔してた」
「体調でも悪かったんじゃないか?」
「そうかもね」
そんなやりとりをしてから、一週間くらいのち。
「今日はお隣さん、ご機嫌だったわよ」
妻が僕にそう言った。
「こんにちは! って後ろから声かけられて。わたし、びっくりしてさ。振り返ったらお隣さんだった」
「へえ。嬉しそうだったってこと?」
「宝くじでも当たったみたいにね」
「変だな。朝会った時はお通夜みたいに暗い顔してたけど」
「その日、何かいいことでもあったんだよ、きっと。お昼においしいものを食べたとか」
「だろうな」
「見るたびに印象が変わるね」
「まったくね」
いずれにしても変な隣人であることだけは間違いない。
その時の印象はそれだけだった。
変なことはまだある。
どうやらいつもラジオを聴いているようなのだ。
洩れ聞こえてくる音がそこはかとなく地味で、
テレビのそれとは明らかに違う。
それもちょっとローカルな局の、落語とか、
狂言とかを聞いているようなのだ。奥さんと二人で。
そして番組の内容について、
奥さんとしょっちゅう意見が食い違う。
「わたしは今のオチ、……ってな解釈だったと思うわけよ」
「馬鹿だな、今のオチはこういう意味で……。お前わかってないなあ」
そんな会話をよく取り交わしている。
そしてそれはやがて激しい口論に展開し、
「もういい!」
とどちらかが激しく言い放つとラジオがばちりと切られ、静かになる。
いつものことだ。
僕も嫁さんもやれやれ、と思いながらその一部始終を聞くともなく聞いていた。
珍しく体調を崩し、昼過ぎに会社を早退した日のことだ。
ふらふらしながら家に帰り、鍵を使って部屋に入ると、
嫁さんが買い物に出かけていた。
僕は洗濯され、干されているパジャマを取ろうとベランダに向かった。
ふらつく足に活をいれながら、アルミサッシに手をかけた時。
聞こえる。
隣人の会話だ。
奥さんと二人。ラジオがついている。また落語に突っ込みを入れていた。
僕は、してはいけない、と十分わかっていたはずなのに、
息を潜め、そうっとベランダの手すりから身を乗り出した。
<つづく>
