ギバーに騙されるな、ギバー論者にも騙されるな
この記事は、前に書いたレズビアン的外部委託についての長ロングエセーのスピンオフだ。(まぁ、Breaking BadとBetter Call Saulのような関係だと思ってくれればいい。)
よくsnsなどで、テイカーよりギバーを目指せのようなテクストを見る機会が増えた。でも僕はこう考える。
コンサルティングでクライアントに「価値を提供する」よりも、見知らぬ人の顔に硫酸のような劇物をかける方がギバーだ。
同僚にコーヒーを奢るよりも、銅板を海に投げ込む方がギバーだ。
限定経済の住人
アダム・グラントはペンシルベニア大学ウォートン校の組織心理学者で、2013年に『Give and Take』を出版した。これは人間を3類型に分ける。ギバー(受け取る以上に与える人)、テイカー(与える以上に受け取る人)、マッチャー(与えることと受け取ることのバランスを取る人)。そしてグラントのデータによれば、最も成功するのはギバーであり、最も失敗するのもギバーだという。成功するギバーと失敗するギバーの差は「戦略の有無」にある。
この最後の一文がすべてを決定する。「戦略の有無」。
「戦略の有無」。この一句をもう少しだけ真剣に見てほしい。
「略」の成り立ちを調べてみた。「略」は形声文字で、「田」(土地)と音符の「各」でできている。漢字ペディアによれば、原義は「土地をはかる」。土地の境界を測ること。測量だ。
ここから意味が二方向に分かれる。
一つは「はかりごと」。土地を測るには計算がいる。計算は企みに通じる。計略。
もう一つは「うばう」。土地を測るのは境界を引くためだ。境界を引くのは領有を主張するためだ。略奪。侵略。
面白いのは、この二つが別々の意味として後から合流したんじゃないってことだ。どちらも「土地を測る」という一つの行為から枝分かれしている。測量して、計画して、奪い取る。一連の動作。同じ字に「はかりごと」と「かすめとる」が同居しているのは偶然じゃない。やってることが同じだからだ。
(ちなみに「はぶく」の意味は仮借、つまり音の借用で後から乗っかったもの。原義とは関係ない。「戦略とは戦いを略す(省く)こと」って言ってる人は、後づけの意味を原義と間違えてる。)
(さらに脱線する。ドイツ語のGiftは「毒」を意味する。英語のgiftは「贈り物」を意味する。どちらもゲルマン祖語のgiftiz(与えられたもの)から来ている。「与えられたもの」が一方の言語では「贈り物」になり、他方では「毒」になった。漢字の「略」は「企み」と「奪取」を一つの字に収めている。ゲルマン祖語のgiftizは「贈与」と「毒」を一つの語根に収めている。言語は正直だ。人間が隠したがることを、文字はずっと記憶している。贈与には毒の面がある。計略には略奪の面がある。)
さて、「戦略的に与える」。
この「略」は土地を測量し、計画し、領有する行為から生まれた文字だ。「戦略的に与える」とは、字源まで遡れば「測量するように与える」ということになる。与える対象の価値を測り、効果を計算し、リターンを領有する。漢字が、グラントの「戦略的ギバー」をこれ以上正確に記述するのは難しいと思う。
「戦の企み的に与える」。あるいは、略のもう一つの顔を使えば、「戦の略奪的に与える」。略奪的に与える。奪い取るように与える。与えながら奪う。
グラントは英語で書いた。彼が"strategic giving"と書いたとき、漢字のことなんて考えていない。でも日本語に翻訳された瞬間、「略」という文字がその二重性を暴露してしまう。「戦略的に与える」という日本語は、与えることと奪うことが同じ文字の中に同居していることを、読者の目の前にさらけ出している。
(さらに脱線すると、クラウゼヴィッツは『戦争論』で戦略を「戦争の目的のために戦闘を使用すること」と定義した。ドイツ語のStrategie もギリシャ語のstrategia(将軍の術)に由来する。西洋の「strategy」は軍事指揮の技法だ。日本語の「戦略」は、軍事指揮に加えて「略奪」の影を宿している。翻訳は常に何かを付け加える。日本語訳の方がオリジナルより正直かもしれない。「戦略的に与える」が投資であることを、英語は隠すことができる。日本語の漢字は隠してくれない。)
僕が「ギバー」を「投資家」と呼ぶのは悪意ある解釈じゃない。彼らが選んだ単語の論理的帰結だ。「戦略的に与える」の「略」は、計略であると同時に略奪だ。与えながら奪う技術。それを「ギバー」と呼ぶ。
(ジョルジュ・バタイユは1933年の「消費の概念」で、経済活動を「生産的消費」と「非生産的消費」に分けた。生産的消費とは、蓄積や成長に寄与する消費のことだ。非生産的消費、すなわち蕩尽(depense)とは、いかなるリターンも前提としない純粋な消費を指す。バタイユはこれを「呪われた部分」と呼んだ。グラントの「ギバー」は、バタイユの分類で言えば完全に生産的消費の側にいる。社会関係資本を蓄積し、信頼というリターンを得て、最終的に「成功」する。彼らは蕩尽していない。蓄積している。)
もう少し意地悪なことを言えば、グラントの「ギバー」は、バタイユが「限定経済学」(economie restreinte)と呼んだ枠組みの中でしか存在しえない。限定経済学とは、稀少性を前提とし、蓄積と交換と効率的配分を目的とする経済学だ。グラントの世界では、「信頼」も「評判」も「人脈」も希少な資源であり、ギバーはそれを効率的に蓄積する手段として贈与を使う。信頼の利回りが良い社債を買っているだけだ。社債のクーポンが「感謝」という非金銭的な形で支払われるだけで、構造は変わらない。
最もテイクしている
グラントの分類が日本のnote圏で消費される過程で、奇妙な現象が生じた。「テイカーを蔑む」文化が発生した。
「テイカーを見抜く5つのサイン」「テイカーとは距離を置け」「あなたの周りのテイカーを排除する方法」。この手の記事は、テイカーを社会的な害虫として描写している。テイカーは利己的で、搾取的で、避けるべき存在だとされる。
ここで一歩引いて、この言説の構造を見てみよう。「テイカーを蔑む」行為は何をしているのだろうか?
これは、自分をギバー側に配置することで、道徳的優位というポジションをテイクしている。「僕はギバーです、A氏はテイカーです」という分類行為自体が、道徳的マウントという最もコスパの良い「テイク」だ。費用はほぼゼロ、リターンは自己像の強化と読者からの承認。投資効率で言えば、これに勝る取引はなかなかない。
そしてもう一つ、もっと基本的な問いがある。従属栄養生物としての人間は、他の生物を食べて生きている。呼吸し、消費し、排泄する。光合成ができない時点で、人間は存在論的にテイカーだ。そして、テイカーであることは罪ではない。テイカーであることが生物の条件だ。テイカーを蔑むことは、自分が呼吸していることを恥じるのと同じ程度に無意味だ。(いやまぁ、そもそもグラントの分類は統計的・記述的なものなはずなんだよね。「ギバーは統計的に成功しやすい傾向がある」。これは記述的命題であって、規範的命題なんかじゃない。「ギバーになるべきだ」には隠れた前提がある。(noteで転がっている経営者の"グローバルなビジネスで使える論理的思考力"ではギロチンが廃止されたらしい。いやぁ実に人権的だ)「喫煙者は肺がんになりやすい」から「喫煙するな」が論理的には導出できないのと同じだ。(もちろん喫煙はやめた方がいいと思うけど、それは論理ではなく価値判断の話なんだよね。))
充満と溢出と群畜道徳
僕はここで問いを変える必要がある。「与える」とは何だろうか。
バタイユは1949年の主著『呪われた部分』で、地球上のエネルギーの究極的な源泉は太陽であると論じた。太陽は地球に対して一方的にエネルギーを注ぐ。見返りはない。地球が太陽に何かを返すことはない。この一方的なエネルギーの流入は、地球上に常に過剰(excedent)を生み出す。生物は成長し、増殖し、エネルギーを蓄積する。だがある時点で成長の限界に達する。蓄積されたエネルギーは行き場を失う。
バタイユはこの過剰なエネルギーを「呪われた部分」と呼んだ。そしてこの過剰は、最終的に蕩尽されなければならないと論じた。浪費、祭り、戦争、エロティシズム、犠牲。蕩尽されなかった過剰は、より破壊的な形で爆発する。戦争として。
(バタイユの一般経済学を「太陽経済学」(economie solaire)と呼ぶことがある。Piel (1995 [1963])、Stoekl (2007)、Sorensen (2012) が詳しかったはず。バタイユの一般経済学は、この太陽の一方的贈与を基礎とする。限定経済学が稀少性と効率的配分を問うのに対し、一般経済学は過剰と蕩尽を問う。問題は「どう配分するか」ではなく「どう蕩尽するか」なのだ。)
ここから、ギバー論への攻撃を一段深くできる。
太陽が光るのは、溢れているからだ。核融合反応によって水素がヘリウムに変換される過程で、質量の0.7%がエネルギーに転換されている。毎秒6億トンの水素を消費している。太陽は誰かの利益のために光っているのではなく、太陽は充満しているから溢れ出しているだけだ。溢れ出した結果、たまたま地球に到達し、たまたま植物が光合成できている。因果の方向は「溢出→結果的に他者の利益」であって、「他者の利益→だから与える」じゃない。
ギバーになろう言説は、この因果を完全に逆転させている。「他者に与えましょう、そうすれば成功しますよ」という文章には他者の利益が先にあり、与えることが手段として後に来る。これは溢出じゃなくて流用だ。自分のvitality(生命力)を他者の利益のために流用された人間を「ギバー」と呼ぶのだとしたら、「ギバー」とは搾取されている人間の別名にすぎない。
「ギバーになろう」は群畜道徳の21世紀版だ。報酬(成功)をちらつかせて、個人のvitalityを社会的利益に変換させる装置。溢れるためには、まず自分が充満していなければならない。だけど「ギバーになろう」は充満の前提条件に一切触れない。空っぽの人間に「与えろ」と言う。
メガロプシュコスが与える条件
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第4巻第3章(1123a-1125b)で、メガロプシュキア(μεγαλοψυχία、「偉大な魂」)を持つ人間を描写した。メガロプシュコス(偉大な魂の持ち主)とは、自分が大きなものに値すると考え、実際にそれに値する人間のことだ。
アリストテレスの描写は具体的で面白い。メガロプシュコスは与えることを好むが、受け取ることを恥じる。なぜなら与えることは優越者の行為であり、受け取ることは劣位者の行為だからだ。メガロプシュコスは恩を受けたら、それ以上の恩で返す。負債の状態にいることに耐えられないからだ。メガロプシュコスは小さなことには関わらない。ゆっくり歩く。声が低い。急がない。
(ギリシャ語のテューモス(θυμός)は、プラトンが『国家』(439e-441a)で魂の三部分の一つとして位置づけた「気概」だが、ホメロスではもっと生々しい。テューモスは「息」「血気」「生命衝動そのもの」だ。アキレウスのメーニス(怒り)として『イリアス』冒頭で召喚されるのはテューモスだ。アキレウスは「ギバーになろう」と思って戦場に出たのではない。テューモスが溢れて身体が動いた。まぁ蕩尽を待つエネルギーの充満だともとらえられる。)
メガロプシュコスが与えるのは「成功するため」なんかじゃない。自分が大きい存在だから、大きい行為をするのが自然だからだ。
つまりは"充満→溢出"だ。因果の起点が自己の充満にある。グラントの「ギバー」には、このメガロプシュキアが完全に欠落している。彼らは小さなことに関わり、忙しく動き回り、「価値を提供」しようと急いでいる。メガロプシュコスは急がない。(メガロプシュコスはnoteのアカウントを持っていないし、毎日死んだような目でモニターの前でご飯を食べてなんかいない。)
太陽は崇高じゃない
バタイユの1927年のテキストの『太陽肛門』はバタイユの初期テキストの中でも最も過激なものの一つだ。ここでバタイユは、太陽と肛門を対置する。崇高なもの(太陽、天上、光)と卑俗なもの(肛門、排泄、大地)。だけど、バタイユはこの二項対立を維持するためにそれを持ち出したのではなかった。破壊するために持ち出した。
太陽はその光の暴力を地上に向ける。そして地球は火山という肛門で覆われている。太陽のエネルギー放出と、火山の溶岩噴出は、同じ過剰エネルギーの蕩尽の表と裏だ。上からの放射と下からの噴火。崇高と卑俗は同じ運動の二つの面にすぎない。
(ポール・ヘガティは『Georges Bataille: Core Cultural Theorist』で、このテキストがヘーゲル弁証法そのものをパロディ化していると論じている。弁証法的統合の代わりに、バタイユは崇高と卑俗の区別そのものを爆破する。Daniel Hawleyも「Parodie Cosmogonique: L'anus solaire de Georges Bataille」で、このテキストを「パロディのパロディ」と呼んだ。デカルト的、ヘーゲル的、ロマン主義的、シュルレアリスム的な言説が全て、パロディの標的になると同時にパロディの道具にもなる。)
僕はこう考えた。
グラントの「ギバー/テイカー」は、贈与を崇高な側にだけ配置している。つまりは、与える=高潔、受け取る=卑俗。太陽=善、肛門=悪。
なんだけど、バタイユの太陽肛門の論理では、この二項対立自体が欺瞞だ。贈与には排泄的な側面がある。与えることは清潔で理性的な行為ではない。嘔吐も蕩尽であり、泥酔も蕩尽であり、エロスも蕩尽だ。蕩尽の最終形態としては自己の消滅などがある。
商材屋が「ギバーになりましょう」と言うとき、彼らはどの贈与を想定しているんだろうか?多分、知識の共有、時間の提供、人脈の紹介。これらは全部清潔で、オフィスで実行可能で、LinkedInに書ける行為だ(そもそもLinkedInを知らない可能性もあるけどねw)。贈与の排泄的側面、暴力的側面、エロティックな側面は完全に切り落とされている。去勢された贈与。去勢された贈与を「ギバー」と呼ぶのは、去勢された牡牛を「闘牛」と呼ぶようなものだ。外見は似ているけど本質的な何かが決定的に欠落している。
蕩尽の序列
バタイユの蕩尽を本気で評価基準にした場合、「贈与の純度」には明確な序列が生じる。リターンの期待が少ないほど、蕩尽が徹底しているほど、贈与として「純粋」だ。
同僚にコーヒーを奢る。リターンは感謝、好意、互恵の期待。蕩尽率はほぼゼロ。グラントの模範的「ギバー」の典型例。

匿名で100万円を寄付する。リターンは内的満足、「善い人間だ」という自己像の強化。蕩尽率は低い。
北米先住民のポトラッチで首長が銅板を海に投げ込んだ行為は最も純粋なギバーだ。
(マルセル・モース『贈与論』でのポトラッチでは、首長は競争的に自分の財産を破壊した。相手は同等以上の破壊で応じなければ、社会的に死ぬ。だけど、モースの分析においてすら、ポトラッチは交換の体系の中にある。贈り物にはマオリ族の言う「ハウ」(hau)、すなわち贈り主のもとに帰ろうとする霊的な力が宿っている。だからこそ返礼の義務が生じる。グラントの「信頼」や「評判」は、世俗化されたハウだ。霊的な力を社会関係資本に翻訳しただけで、構造は同型だ。)
コンサルティングでクライアントに「価値を提供する」よりも、酸を見知らぬ人の顔に投げつける(これをアシッドアタックという)方が蕩尽としては「純粋」だ。後者にはリターンの期待がないし、逮捕や社会的破滅しかない。つまりバタイユの蕩尽の論理を最後まで追うと、破壊的行為の方が「戦略的ネットワーキング」よりも贈与として純度が高いという帰結に至る。
この帰結は不快だ。不快であるべきだ。だけど不快であることは、論理的に間違っていることを意味してないはずだ。グラントの「ギバーになりましょう」が心地よいと感じるのは、贈与のこの不快なモノを完全に消毒しているからだ。蕩尽の暴力性を除去し、排泄的側面を脱臭し、オフィスカジュアルの「善行」に変換している。僕たちは贈与を家畜化した。
贈与が贈与として現れる時
ジャック・デリダは1991年の『時間を与える:1. 偽金』(Donner le temps: 1. La fausse monnaie, Galilee, 1991、英訳 Given Time: I. Counterfeit Money, trans. Peggy Kamuf, University of Chicago Press, 1992)で、贈与の概念に致命的な一撃を加えた。
デリダのテーゼはシンプルで破壊的だった。贈与が贈与として認識された瞬間、それは贈与ではなくなる。贈与が贈与として現れた時点で、それは負債と返済の循環に入る。与えたことが認識されれば、感謝(=返済)の義務が生じる。与えた本人が「自分は与えた」と認識しても、「善い行いをした」という内的報酬が発生する。つまり贈与は、認識された瞬間に交換になる。
デリダはこれを「不可能なもの」(l'impossible)と呼んだ。純粋な贈与は、構造的に不可能である。贈与が成立するためには、与える者も受け取る者も、それが贈与であることを知ってはならない。
(デリダの「不可能なもの」としての贈与は、ギリシャ語のpharmakōnの両義性を想起させる。デリダは『プラトンのパルマケイアー』(La pharmacie de Platon, Tel Quel, nos.32-33, 1968)で、pharmakōnが「薬」と「毒」の両方を意味することを分析した。贈与もまた、このpharmakōnとしての両義性を持っている。与えることは癒すことであると同時に、負債を生む毒でもある。ゲルマン祖語の giftiz が「贈り物」と「毒」に分岐したのは、語源学的な偶然ではなく、贈与という行為の内在的な両義性の言語的表現だと言えるかもしれない。)
これを「ギバーになろう」に適用してみよう。
「ギバーになろう」と宣言した瞬間、全てが崩壊する。「ギバーになろう」という意図が存在する時点で、与える行為は「ギバーである自分」というアイデンティティの蓄積になる。noteに「僕はギバーです」と書くこと自体が、承認という対価を受け取る交換行為だ。与えることが自己像の材料になっている。贈与は消滅し、投資だけが残る。(まるで道元の公案のようなパラドックスだ。書いていて意味が分からなくなってきた。)
「ギバーになろう」も同じだ。「ギバーになる」という志向性は、自分が「まだギバーではない」ことを前提としている。そして「ギバーになる」ための手段を実行する。その時点で、全ての行為は手段になり、手段であるかぎり贈与にはならない。
つまりは「ギバーになろうとする者は、ギバーになれない」はスローガンじゃなくて論理的帰結だ。
プラクシオロジー
ミーゼスはHuman Actionで、プラクシオロジー(人間行為学)の基本公理を定立した。「人間の行為は常に目的的である」(purposeful behavior)。人間が行動する以上、その行動には必ず目的がある。目的のない行為は行為ではなく反射だ。膝蓋腱反射は行為ではない。だけどコーヒーを奢ることは行為だ。行為である以上、目的がある。
すると「与える」行為にも必ず目的があるはずだ。「純粋に与える」、すなわち目的なく与えることは、プラクシオロジー的には不可能だ。目的がなければ行為は発生しない。目的がある以上、与える行為は何らかの目的達成の手段であり、手段である以上、それは交換の論理の中にある。
(ミーゼスの「目的的行為」は、カール・メンガーの主観的価値論と接続している。メンガーは、財の価値は財そのものに内在するのではなく、主体の欲求充足との関係で決まると論じた。グラントの「ギバー」が「与えている」と信じるものの価値は、与える側ではなく受け取る側が決定する。ギバーが「価値を提供した」と思っていても、受け取る側がそう評価しなければ、メンガー的にその贈与の価値はゼロだ。商材屋がnoteで「知識を与えている」と信じているものの主観的価値を、読者はどう評価しているか。おそらく彼ら自身が想定しているよりはるかに低いだろう。)
偽金を配る人たち
デリダの『時間を与える』の副題は「偽金」(La fausse monnaie)だ。ボードレールの短編「偽金」を分析のガイドとしている。乞食に偽金を与える話。与えたものが偽金であっても「与えた」という事実は残る。だけど偽金の贈与は贈与だろうか。
note(もうXとかthreadsとかfacebookとかなんでもいい。)の商材屋たちは何を「与えて」いるか。グラントの三次情報を加工した「ギバーのマインドセット」「テイカーの見分け方」「成功するギバーの3つの習慣」。バタイユもデリダもモースも読んでいない人間が、贈与について語っている。彼らが「与えているもの」は、知識として偽金だ。(グラントを読んだ人間が書いた記事を読んだ人間が書いた記事を読んだ人間が、僕に「ギバーになりましょう」と言ってくる。情報は複製されるたびに劣化する。かぼちゃのゲノムにはDNA修復機構があるけど、noteの自己啓発記事にエラー訂正機能はない。かぼちゃよりひどい)
偽金を配りながら「ギバーになろう」と説教する。偽金の贈与論で他人にギバーになれと命じる。これはデリダの「偽金」の完璧な現代的再演だ。ただし、ボードレールの登場人物は少なくとも自分が偽金を渡していることを知っていた。noteの商材屋たちはおそらく知らない。知らないことが、事態をさらに厄介にしている。
Ψ→Φ
フロイトは1895年の未完の草稿『科学的心理学草稿』(Entwurf einer Psychologie, フリース宛書簡として執筆、死後1950年に初出版、SE 1: 281-387)で、神経系を二つのニューロン系に分割した。$${\Phi}$$(ファイ)系は透過的で、外部刺激をそのまま通過させ、何も保持しない。知覚の系だ。$${\Psi}$$(プサイ)系は非透過的で、抵抗を持ち、刺激量($${Q\eta}$$)を蓄積する。記憶と心的過程一般の基盤だ。
(フロイトはさらに第三の系$${\omega}$$(オメガ)を導入して知覚-意識を記述したんだけど、ここでは省略する。重要なのは$${\Phi}$$と$${\Psi}$$の対立なんだよね。透過と蓄積。流通と孤立化。開放系と閉鎖系。)
ニック・ランドは『絶滅への渇望:ジョルジュ・バタイユと病毒的ニヒリズム』で、フロイトのこの区別をバタイユの一般経済学に接続した。バタイユの経済は根源的に蓄積的($${\Psi}$$的)だ。生命はエネルギーを溜め込む。閉鎖系を構築し、交換を制御し、孤立化を維持する。
だけど蓄積には限界がある。僕はバタイユの次のように解釈した。「生きるために消費されるエネルギーよりも多くのエネルギーを産出することが、生命の本質である」。ランドはこれを次のように形式化した。外延的な交換($${\Psi_1 \rightarrow \Psi_2}$$)は、二つの強度的な移行から成る。消尽($${\Psi \rightarrow \Phi}$$)と獲得($${\Phi \rightarrow \Psi}$$)だ。獲得は常に消尽を超過する。したがって$${\Psi_1 < \Psi_2}$$となる。交換のたびに蓄積は増大する。
この不等式が「呪われた部分」の形式的表現だ。$${\Psi_2 - \Psi_1 = n}$$。この$${n}$$こそが、バタイユが「過剰」と呼んだもの。蕩尽を待つエネルギー。蓄積されたまま行き場を失った量。
ギバーは何をしているか。僕は$${\Psi}$$の最大化だと考える。社会関係資本を蓄積し、信頼を溜め込み、交換を選択的に管理する(「テイカーとは距離を置け」とは、交換相手の選別による$${\Psi}$$系の防衛にほかならない)。ギバーは与えるたびに$${\Psi}$$を増大させている。$${\Psi_1 < \Psi_2}$$の不等式は、グラントのフレームワークの本質を記述している。与えることは蓄積の手段だ。
蕩尽は逆の運動としてとらえられる。$${\Psi \rightarrow \Phi}$$。蓄積の解体。非透過的な系が透過的な系に崩壊すること。溜め込んだエネルギーが制御を離れて流出することだ。ポトラッチの首長が銅板を海に投げ込むとき、それは$${\Psi \rightarrow \Phi}$$の移行だ。蓄積された$${\Psi}$$(富、威信、権力の物質的基盤)が、回収不可能な形で$${\Phi}$$(海、外部、開放系)に流出する。
(フロイトは1920年の『快感原則の彼岸』で、この$${\Phi / \Psi}$$の力学をエロスとタナトスの欲動論として再定式化した。エロスは結合し、蓄積し、複雑化させる。$${\Psi}$$の運動だ。タナトスは解体し、溶解し、無機物への回帰を目指す。$${\Psi \rightarrow \Phi}$$の不可逆的移行だ。ランドがバタイユの蕩尽をタナトスとして読むのは、この力学的対応によるものだ。蕩尽とは$${\Psi}$$系の死だ。蓄積の死。閉鎖系の開放系への崩壊。「太陽はなぜ死ぬのにこんなに時間がかかるのか」というのも、太陽の放射は緩慢な$${\Psi \rightarrow \Phi}$$移行であり、50億年かけた蓄積の消尽だ。)
ギバーにはタナトスがない。$${\Psi \rightarrow \Phi}$$の移行がない。あるのは$${\Psi_1 \rightarrow \Psi_2}$$の反復だけだ。蓄積、蓄積、蓄積。エロスの一方的な支配。死の欲動の抑圧。「ギバーになろう」は、蓄積の論理の中で蕩尽を偽装する技術にすぎない。$${\Psi}$$を増大させながら「与えている」と称する。
ヘリウムにもならないもの
ここまでの議論を整理する気はない。(バタイユは「知識の獲得はその対象の消滅においてのみ完遂される」と『呪われた部分』の序文で書いている。理解することは対象を消費することだ。整理してまとめることは、思考の蕩尽ではなく思考の家畜化だ。)
でも、ギバーの本質を最もわかりやすく描いた文学作品は、たぶんシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』(The Giving Tree, 1964)だ。あの木は少年にりんごを与え、枝を与え、幹を与え、最後に切り株だけになった。
僕たちがあの木を見たら「失敗するギバー」に分類すると思う。戦略がないし、テイカーとの距離を取れていない。自己犠牲型のギバーの典型例に見える。グラントの処方箋はこうなるはずだ、「木は少年との関係を見直し、与える範囲を戦略的に設定すべきだった」と。
だけど、あの木こそが唯一「与えた」存在だ。りんごを与えるたびに木は小さくなった。枝を与えるたびに木は減った。与えるたびに蓄積が減少した。$${\Psi_1 > \Psi_2}$$。グラントの「成功するギバー」の不等式($${\Psi_1 < \Psi_2}$$)と正反対だ。あの木は与えるたびにΨを失い、最終的に切り株というΦに到達した。蕩尽の絵本。
(ところで、あの絵本をどう読むかで、その人がギバー論のどちら側にいるかがわかる。「美しい無償の愛の物語」と読む人は、蕩尽の暴力性を理解していない。「搾取の寓話」と読む人は、少年=テイカーの視点から見ている。どちらも間違っていないけど、どちらも足りない。バタイユ的に読めば、あの木は美しくもなく搾取されてもいない。あの木は蕩尽している。蕩尽には美醜の判定が入る余地がない。)
太陽は毎秒6億トンの水素を燃やしてヘリウムになっていく(=消尽)。僕はnope(2025年4月にsuntoryから出た炭酸飲料。これ普通においしいし、桃味?が強めでコカ・コーラより好きなんだよね。)を1本飲みながらこの記事を書いた。
そして君はこの記事を読み終わって、もしかしたら「ギバーになろう」と思うのをやめるかもしれない。(ツァラトゥストラは「贈与する徳」を最高の徳と呼んだけど、「与えなさい」とは言わなかった。溢れる者は与える、とだけ言った。そしてそのあと弟子たちに「僕から離れろ」と言って去った。)やめたところで、君がギバーになるわけじゃない。やめることすら、まだテイクの変奏にすぎない。
人間にできることは、自分がテイカーであることを知ることだけだ。知ることに価値があるかは知らない。だが少なくとも、知らないまま「ギバーです」と名乗ることの滑稽さからは距離を取れる。
距離を取れたところで、太陽にはなれないけどね。
