Unqualified Thoughts: 令和人文主義は死んだ。短命だった。RIP
これは軽いDMT体験であって、邪悪な神経寄生虫を追放するエセーだ。除霊が終わったら眠るだけだから、付き合ってくれてもいいし、読むのがつらかったらAIに要約させてもいい。
僕は2000年代前半生まれのZ世代だ。(Generation Zの定義は1990年代中盤から2010年代序盤に生まれた、デジタルネイティブの世代だ。これは男性がキュロットとストッキングを履いていた時代からTikTokで第二指を鍛える奇妙な世代までを包括するような、暴力的なラベリングでもある。)
ところで、れいわ新選組とか令和の虎とか、"令和"がつくメディアというのは高い時間選好の現れだと思っている。つまり元号が変われば不可逆的に過去のものになる。僕は劣化するネーミングセンスが好きじゃない。(僕が1970年代に生まれたらinternetでドメインを大量に取っているだろう。2文字の.comは憧れだ。ドメインもSKUも、早く生まれた者が早く占有する。令和人文主義は、早く名付けた者が占有した商標だ。(ドメインやSNSのidに2016とか年号を入れる人間を見て残念に思う))
話を戻そう。僕たちは本を読むことを特別視しすぎている。僕にとって読書は、飛行機で過ごす時間、新幹線で過ごす時間、そして眠れなくなった夜の時間の使い方の一つだ。(本が読まれるのは、本が偉いからではなく、他にやることがないからだ。スマホの電源が入らない飛行機の中、Netflixの気分じゃない夜、こういう時間の空白を、本は埋める。空白を埋める道具はたくさんある。本はその中で特別ではない。威厳もない。)
ハードカバーの本はスーツケースに入れると邪魔だが、本棚にあると威圧感がある。僕はその威圧感と、小・中学生の頃の教科書が紙でできているという原初的な刷り込みが、読書の神聖化の原因ではないかと思っている。
読書をすることは何も凄いことではなくて、実は普遍的なことなのかもしれない。読書は特殊な知的活動では一切なく、ボウリングでピンを倒したり、カーネルコードを書いたり、90kgのバーベルを上げたり、ロケットの弾道を計算するのと同じ知的活動だ。この倒錯こそ、ロゴス中心主義であり、詐称的オープンアクセスだ。
(Xのアルゴリズムによって僕たちはトレンドのフィルターバブルで~、みたいな言論を見るときに、文字通りのオープンアクセスであるGitHubのリポジトリを根拠にしている人を見たことがない。もしそういう人がいたら、github.com/xai-orgにIssueを出してほしい。多分誰も読まない。読むより推測する方がタイパがいいからだ。)
でも、教養は大切だ。これは実生活にオーウェルを参照する知性の話じゃない。ビジネスで使える教養のほとんどが嘘だ。「論理的思考力」の「論理的」の使われ方が倒錯している現状を見れば、コンサルタントが実にいい加減な仕事をしているのかがわかるかもしれない。(論理学の意味の「論理的」と、スライド作成マナーの意味の「論理的」は、綴りが同じだけの別の単語だ。同綴異義語は、ビジネス書市場の主要な収益源であるし、このnoteというプラットフォームの収益源でもある。)じゃあその非実践的知識、つまりは人文知というのは、必要なものかつ不必要なものなのかもしれない。
働いていると本が読めなくなるというのは、実は間違いだ。実際は本を読みたくないだけで、つまりは君の責任だ。僕は社会集団に責任を帰す言説を支持したくない。YouTubeもTikTokもInstagramも、アカウントはいつでも消すことができる。(オデュッセウスは自分をマストに縛ったからセイレーンの歌から生還した。スマホのアプリを消すという行為は、21世紀のマスト縛りだ。縛り方を知らないのではなく、縛りたくないのだ。)
この事実は集英社新書の目次には載らない。載ったら集英社新書の売上が下がるからだ。金融用語の「利益相反」は、出版業界にも綺麗に適用される。谷川嘉浩さんは 集英社新書プラスのインタビュー でこう述べている。
そもそも、令和人文主義は、近年の動向を『時代の兆候』として取り出したものであって、運動や党派ではないし、メンバーシップ化できるものではないことを断らせてください
観察することが参与することであっていることを、彼は知っていたのだろうか。命名するという行為は、名付けられる以前にはバラバラだった現象を、カテゴリー化し、読者の自己認識を書き換え、メディアの枠組みを生成し、批判の対象を確定する。Nick Landがハイパースティションと呼んだやつだ。信じられることで現実化する虚構。「令和人文主義」は2025年9月11日、朝日新聞Re:Ron第9回の公開をもって現実化した。それ以前は存在しなかった。(存在という言葉の定義にもよる。観察者問題は哲学的には面倒だが、出版業界的には簡単だ。書店の棚に並べば存在する。)
コスパ(コストパフォーマンス)やタイパ(タイムパフォーマンス)は、実際には文明の退行なんだと思う。本ではなく、ただスクリーンの前で教養を与えられている家畜だ。通勤中の電車で効率的に情報処理をしている虫人間だ。タイパ文化は貧困の現れであって、僕たちにできるのは、貧困層を嘲ることでも救済することでもなく、貧困という構造そのものを観察することなのかもしれない。(ヴェブレンの『有閑階級の理論』の反転現象が令和の時代に起きている。1899年の富裕層は「無為」を誇示することで階級的地位を示した。2026年のホワイトカラーは「多忙」を誇示することで階級的地位を示している。誇示の内容は逆転したが、誇示であることは変わらない。)
僕はYouTubeは1.5倍速で聞くより、Geminiで一気に要約させる方が好きだ。YouTubeでは時間の長さが収益性につながる。つまりは短い動画を出すインセンティブがYouTuberにはない。これは効率のためのスラックの削除ではなくて、0埋めされたデータをトリミングする作業だ。これをCS用語でゼロサプレス(Zero Suppression)という。僕はスラックではなくて0を抜いただけだ。でも僕は3時間の映画を観るし、実験音楽も好きだ。これは僕がランダム性を愛していることの証明だ。ランダムなデータと0は根本的に違う。僕は白紙が多い本の白紙の部分を破り捨てることを肯定する。
知識は摩擦によって生まれて、分散的であるのが僕の理想だ。そして、60分の哲学入門動画と5時間かかるプラトンの原典がどちらがコスパ高いのかという命題そのものが、カテゴリーエラーを起こしている。ハイエクが守ろうとした非言語的かつ分散的かつ発見的な知の生態系を、この問いは前提から削除している。
赤文字サムネのピコピコ動画を見るより、カーライルの英雄崇拝論を読んでる奴の方が上だ。これは序列だ。令和人文主義は自然貴族の末裔ではない。文章で飯が食えなくなったホワイトカラーの知的労働者が、自分たちの読書という暇つぶしに、後付けで序列を与えるためのイデオロギー的装置だ。(iatrogenicは、解決策と思われたものが実は問題の原因となっているケースを指す医学用語だ。19世紀ロシアの思想家アレクサンドル・ゲルツェンが同世代の革命家たちに向けてかつて語ったように、「我々は医者ではない。我々こそが病である」。令和人文主義者たちは自分たちが社会の医者だと思っている。実際、彼らこそが病気なのかもしれない。)
Richard Feynmanは1974年のカルテック卒業式で「カーゴカルト科学」という概念を語った。南太平洋の原住民は戦後、木で滑走路を作り、椰子の実でヘッドフォンを模して、飛行機を待ち続けた。形式は完璧だが、飛行機は来ない。令和人文主義の書棚は、この形式の完璧な再現だ。新書、ハードカバー、書評、索引、年譜、全て揃っている。ただ人文知そのものが来ない。そして、彼らの書籍こそが別のコストパフォーマンスを体現している。通勤時間に完璧にフィットするモジュール設計だ。商品として見たとき、これ以上にタイパに最適化された人文知はない。タイパ批判の書籍が、タイパ文化への最適化を通じて流通する。(3巻構成のコスパ批判の本があったら読んでみたいと思うけどね)
セネカが紀元1世紀にルキリウスに書いた。「人は自分の財産を守ることには熱心だが、時間を奪われることには無頓着だ」。そして2000年経った。時間泥棒は合法化され、広告収益モデルに組み込まれた。
そういえば、友人に勧められた積読チャンネルのポッドキャストを聴いたけど、なんかモゴモゴ言っていたので7分で損切りした。残りの40分はYouTubeに付属されたGeminiに要約させた。そしてその空いた40分で、Goldman SachsとBISのレポートを読んで僕のポートフォリオを整理した。僕は90万ぐらい稼いだ。そしてそのお金でまたKindleで本を買うだろう。(いや買わない、再投資に回したい。)
僕のポスト令和人文主義はこうだ。加速して、AIに要約させて、0を抜く。そして0とノイズを見極める知性を育てる。読むことより、その弁別だけが人間に残された仕事だ。(ノイズを0と誤認した瞬間、君は貧乏になり、0をノイズと誤認した瞬間に君はBugmanになる。)
そろそろ眠くなってきた。除霊は終わったし、ソーカルの影も近づいてきた。
祈祷文の相場も今日はこれくらいだろう。令和人文主義は死んだ。
Rest in peace !
