見出し画像

世界が隠した最後の切り札と学園一の無能【第七話】七番

【これまでのあらすじ】

敵は生徒への監視を解き、食事を増やし、あと九時間で全員帰れると放送した。生徒たちは二日ぶりに笑った。
だがそれは、探し物が見つかったからだった。
灰色の外套の男は、鷹宮玲の歩き方も、壁に背を預けない癖も、間合いの取り方も知っていた。
「教えたのは私だ」
——お前一人が残れば、 人は帰る。
その夜、綾瀬千鶴は玲の隣に座り、朝まで眠ったふりをすると約束した。


夜明けの一時間前に、玲は立ち上がった。

音は、ほとんどしなかった。

百九十センチの体が床から起き上がるのに、絨毯の毛が沈む音しか立てていない。眠っている生徒を三人跨いで、彼は歩き出した。

千鶴は、目を閉じていた。

閉じたまま、足音を数えていた。数える必要のない足音だった。一歩ごとに遠ざかっていくのが、耳を澄まさなくてもわかった。

一歩目で、隣の温度が消えた。

この二日、この距離に人が座っていることに、彼女はいつの間にか慣れていた。慣れていたことに、いなくなってから気づいた。

三歩目。

顔を上げれば、まだ背中が見える。

四歩目。

呼び止めれば、たぶん止まる。この男は、呼ばれれば止まる。三年A組で名前を呼ばれるたびに、一拍遅れて振り向く男だ。

五歩目。

千鶴は、膝の上で指を組み直した。

六歩目。

十二歩目で、聞こえなくなった。

彼女は、それでも目を開けなかった。

約束したからだ。

朝までここで眠る。ぐっすり。何も知らない。

組んだ指の関節が、白くなっていた。

 

北の扉が、静かに閉まった。

広間には、118人が残った。

 

回廊は、昨日と同じだった。

蝋燭。絨毯。窓のない廊下。壁の肖像画が、灯りの中でこちらを見ている。

玲は歩いた。

四つ角を曲がり、階段を上がり、また曲がる。昨日と同じ道順だった。

突き当たりの、灰色の扉。

その前に、男が立っていた。

外套の裾が、床に触れるか触れないかの高さで止まっている。両手は後ろに組まれている。大広間の中央に現れたときと、同じ立ち方だった。

「時間より早いな」

「朝飯前がいいので」

「変わらんな」

男は、そう言って背を向けた。

灰色の扉が、音もなく開いた。

 

その先は、回廊ではなかった。

大使館でもなかった。

そこには、何もなかった。

床も、壁も、天井もない。灰色の空間が、どこまでも続いている。距離感が掴めない。十メートル先にも見えるし、無限に遠いようにも見える。

音がなかった。

足音も、衣擦れも、呼吸も、何一つ響かない。反射する面がないからだ。

匂いもない。温度もない。風もない。

閉じ込められてから、あの大広間は完璧だった。蝋の匂いも、暖炉の熱も、雨の湿度も、絨毯を踏んだときの沈み込みも、全部あった。指先で触れたものには、必ず手触りがあった。

ここには、それがない。

自分の身体だけが、そこにある。呼吸をしている。心臓が動いている。それ以外は、灰色だった。

——作っていないのだ。

必要がないから。

ここに人を連れてくるつもりが、最初からなかったのだ。

 

「掛けろ」

男が言った。

何もない空間に、椅子が二脚だけあった。背もたれのない、簡素な金属の椅子だった。

玲は座った。

男も、向かいに座った。

三メートルの距離だった。昨日より近い。

「ここは記録されていない」

男が言った。

「上にも、外にも、どこにも残らん。何を話しても構わん」

「そうですか」

「時間を気にする必要もない」

「はい?」

「この階層には、外の時計を映していない。日も差さん。腹も減らんようにしてある」

男は、そう言って椅子に腰を下ろした。

「ここに座った人間は、三十分が半日に思える。半日が三十分にも思える」

「不便ですね」

「そう作った」

「聞きたいことは」

「特に」

男は、少し黙った。

そして、外套の襟に手をかけた。

 

輪郭が、ほどけた。

滑らかすぎた頬の陰影が崩れ、平凡すぎた目鼻立ちが溶けていく。誰の顔でもない顔が、剥がれ落ちていった。

その下から、別の顔が出てきた。

痩せた男だった。

五十代の後半に見える。頬がこけている。眉が薄い。左の眉から額にかけて、白い線が一本走っていた。

目だけが、生きていた。

疲れているのに、眠っていない目だった。

そして、声が変わった。

加工が剥がれて、人間の喉から出た音になった。低く、少し掠れて、語尾がわずかに落ちる癖のある声だった。

「久しぶりだな」

彼は、そう言った。

「七番」

 

玲は、その顔を見ていた。

「名前、あったんですね」

「なに?」

「あんた、名前で呼ばれてるところを見たことがなかった」

男は、少し黙った。

それから、言った。

「朧だ」

「本名ですか」

「今はそう名乗っている」

「そうですか」

 

玲は、動かなかった。

椅子に座ったまま、両膝に手を置いて、その顔を見ていた。

驚いていなかった。

懐かしがってもいなかった。

三秒ほど、そうしていた。

そして、言った。

「まだ生きてたんですね」

「お互いにな」

 

——七番。

その響きを、玲は五年ぶりに聞いた。

五年間、誰もそう呼ばなかった。

呼ぶ人間が、一人も残っていなかったからだ。

 

最初の記憶は、雨の音だ。

トタン屋根を叩く音。安っぽくて、うるさくて、途切れない音。

その下で、彼は待っていた。何を待っていたのかは覚えていない。ただ、母親が戻ってくるまでそこにいろと言われたので、そこにいた。

雨は、二日目の夜に一度やんだ。

やんだとき、彼は少しだけ嬉しかった。音がなくなれば、足音が聞こえるかもしれないと思ったからだ。

足音は、聞こえなかった。

三日いた。

四日目に、別の大人が来た。

その大人は、彼の頭に手を置いて、「行こうか」と言った。優しい手つきだった。少なくとも、乱暴ではなかった。

彼は行った。母親が戻ってこないなら、他に行く場所がなかったからだ。

それが、売られるということだった。

彼は、そのとき七歳だった。

七歳の子供は、自分に値段がついたことを知らない。知らないまま、大人の手を握って歩く。

 

覚えているのは、断片だけだ。

床の匂い。船の揺れ。同じ年頃の子供が何人もいたこと。誰も喋らなかったこと。

暗かった。窓がなかったのだと思う。時間の感覚がなくなって、腹が減るまでが一日になった。

何日目かに、隣にいた子が動かなくなった。

大人が来て、その子を運んでいった。誰も泣かなかった。泣き方を知らなかったのではない。泣いても運ばれていくことを、全員がその時点で理解していた。

暑い場所へ着いた。

日本語を話す人間は、そこにはいなかった。

彼らは番号で呼ばれた。名前を聞かれた子もいたが、聞き取れる大人がいなかった。だから、全員が番号になった。

彼は、七番だった。

一番から十二番までいた。

番号に、意味はなかった。年齢順でも、背の順でもない。数えるために振られただけの数字だった。

 

「覚えているか」

朧が聞いた。

——朧。

玲がその名を聞いたのは、さっきが初めてだった。あの場所で、子供たちは彼を「教官」としか呼ばなかった。呼び方が他にあることを、誰も知らなかった。

「何をです」

「最初に教えたことだ」

玲は、天井のない天井を見上げた。

「歩き方でしょう」

「そうだ」

朧は、少しだけ笑った。

その笑い方は、ひどく疲れて見えた。

「お前たちは、走ることしか知らなかった。走れば見つかる。だから歩き方から教えた」

 

訓練は、走ることから始まらなかった。

歩くことから始まった。

踵から入る。体重を移す。爪先で抜ける。地面の種類によって、入れる角度を変える。乾いた土。濡れた土。砂利。板張り。それぞれに正しい歩き方がある。

十二人の子供が、一日中それをやらされた。

同じ十メートルを、朝から日が落ちるまで往復する。音を立てれば、最初からやり直す。教官は一度も手を上げなかった。上げる必要がなかった。やり直しのほうが、子供にはこたえる。

——手を上げるのは、教官ではない大人の役目だった。

三ヶ月で、四人が脱落した。

脱落するというのが何を意味するのか、残った子供たちはすぐに理解した。

朝、いなくなっている。それだけだった。

寝床の数は減らなかった。

減らないまま、空いた場所だけが増えていった。

 

次に教わったのは、隠れ方だった。

音の消し方。呼吸の止め方。壁の使い方。

壁には背をつけるな、と教官は言った。壁は音を運ぶ。背をつければ、向こう側の音が拾えなくなる。

代わりに、柱を使え。角を使え。壁と自分のあいだには、必ず拳一つ分の隙間を空けろ。

その日以来、七番は壁に背を預けたことがない。

十年経った今も、預けていない。

 

「腕を見せろ」

朧が言った。

玲は、少し考えるような顔をした。

それから、左の袖をまくった。

前腕から肘の内側にかけて、白い線が何本も並んでいる。年単位で古い傷だった。同じ角度で、同じ深さで、同じ方向に。

朧は、それをしばらく見ていた。

「消えていないな」

「消えませんね」

「痛むか」

「痛みませんよ」

「そうか」

彼は、視線を上げた。

「あれは、九番だったな」

 

——九番。

十二人の中で、一番喋る子だった。

言葉が通じないのに、喋った。どこの国の言葉かもわからない言葉で、一日中喋っていた。それで殴られても、次の日にはまた喋っていた。

小さい子だった。十二番より背が低かった。順番は年齢順ではなかったから、そういうこともあった。

歩き方の訓練では、いつも最後まで残された。音を立てるのが直らなかった。

そして、音を立てた者には罰があった。

罰を与えるのは教官ではなかった。別の大人が来た。教官はその場にいて、止めなかった。止めるという選択肢が、あの場所には存在しなかった。

——三度目のとき、七番が前に出た。

理由は覚えていない。九番が小さかったからかもしれないし、日が落ちるのが遅くなるのが面倒だったからかもしれない。

彼は、左腕を差し出した。

出す腕を左にしたのは、右を使えなくなると訓練に支障が出るからだった。それだけの理由だった。

その日から、九番が音を立てるたびに、七番が腕を出した。

何度目までは数えていた。途中で、数えるのをやめた。

線が、一本ずつ増えていった。同じ角度で、同じ深さで、同じ方向に。

九番は、そのたびに泣いた。七番は泣かなかった。痛かったかどうかは、あまり覚えていない。

九番は、七番の隣で寝ていた。

眠れない夜、九番は七番の左腕を掴んでいた。

掴んでいないと眠れないらしかった。七番は振りほどかなかった。振りほどく理由が、特になかったからだ。

小さい手だった。爪が割れていて、掴む力は弱かった。

その手は、いつも同じ場所を掴んだ。線の増えていく、あのあたりを。

痛かったのかどうかは、やはり覚えていない。

そういう夜が、二年続いた。

 

九番がいなくなった日のことを、玲は覚えている。

覚えているが、思い出すべきことが特にない。

朝、いなくなっていた。それだけだ。

寝床に、九番の毛布が畳まれずに残っていた。

七番はそれを畳んだ。畳んで、自分の毛布の上に置いた。

誰も何も言わなかった。次の日から訓練が一日休みになるとか、そういうこともなかった。朝が来て、いつもどおり十メートルを往復した。

残った子供たちは、その日、全員が音を立てなかった。

——その日から、左腕に何も触れていない夜が続いた。

最初の数日は、腕の置き場所がわからなかった。

そのうち、置き場所を考えなくなった。

考えなくなったことに、それから何年も、気づかなかった。

九番がいなくなって変わったのは、左腕の置き場所くらいだった。

面倒なことは相変わらず面倒だったし、他人にどう見られるかにも、やはり興味はなかった。

 

「あれから、お前は左を使わなくなった」

朧が言った。

「そうでしたか」

「気づいていなかったのか」

「言われれば、そうかもしれません」

玲は、自分の左手を見た。

膝の上に置かれた、大きな手だった。

「別に、何でもないですよ」

「そうか」

「本当です」

「知っている」

朧は、そう言った。

「お前は嘘をつかん。そこも変わらんな」

 

同じ頃。

大広間で、朝が来ていた。

「……あれ」

最初に気づいたのは、槇島悠斗だった。

彼は目を覚まして、二メートル先を見た。そこに、大きな影があるはずだった。ずっとそこにいた影が。

なかった。

「玲?」

彼は起き上がった。

「玲、どこだ」

周りの生徒が、寝ぼけた顔で顔を上げる。

「なんだよ、うるさいな」

「玲がいない」

「トイレじゃねえの」

「この空間にトイレねえよ」

悠斗は立ち上がって、広間を見回した。

118人。誰もが座っているか、寝ているか、伸びをしているかだ。

百九十センチの男は、探すのが簡単なはずだった。

三年間、この男を見失ったことがない。教室でも、廊下でも、体育館でも、人混みの中で頭一つ出ているのはいつも同じ場所だった。

その頭が、どこにもなかった。

「玲!」

悠斗は、走り出した。

事件が始まってから、この広間で走った生徒は一人もいなかった。走れば痛いことを、全員が学習していたからだ。

彼は、それを忘れていた。

 

「綾瀬さん」

悠斗が、柱の陰に来た。

千鶴は、そこにいた。

膝を抱えて、壁を見ていた。目は開いている。目の下に、はっきりと隈があった。

「玲、見なかった?」

千鶴は、顔を上げた。

そして、驚いた顔をした。

「……いないの?」

「いない。朝からずっといない」

「そんな」

彼女は、立ち上がった。

膝が痺れていて、少しよろけた。悠斗が咄嗟に腕を掴んだ。

「大丈夫?」

「ええ」

「顔色、悪いよ」

「眠っていたから」

彼女はそう言って、広間を見回した。

「探しましょう。私、東側を見るわ」

「うん」

悠斗が走っていく。

千鶴は、東の扉へ向かって歩いた。

三歩歩いて、立ち止まった。

胸のあたりを、片手で押さえた。

——嘘をつくのは、こんなに気持ちの悪いことなのか。

彼女は、初めて知った。

十八年間、嘘をついたことがない。つく必要がなかった。彼女の世界では、正しいことを言い、正しいことをすれば、だいたい正しい結果になった。

今、彼女は生まれて初めて、自分から嘘をついている。

しかも、その嘘を守り続けなければならない。

みんなが探すあいだ、探しているふりをする。心配するふりをする。誰かが「どこへ行ったんだろう」と言うたびに、「わからない」と答える。

九時間。

——いや。

彼女は、天井を見上げた。

赤い数字が、消えていた。

昨日まで、あそこに残り時間が浮かんでいた。減り続けていた。誰も見たくないのに、全員が一度は見上げていた。

それが、ない。

期限が過ぎたのだ。

過ぎて、誰も帰っていない。

千鶴の指先が、冷たくなった。

 

「全員、聞け」

広間の中央で、神代響一が声を上げた。

生徒たちが顔を上げる。初めて、彼の声には張りがなかった。

「期限は過ぎた。表示も消えた。だが我々はここにいる」

ざわめきが起きた。

「交渉が長引いているのかもしれない。手続きに時間がかかっているのかもしれない。だが、そうでない可能性もある」

「そうでないって、なんだよ」

「最初から、帰す気がなかった可能性だ」

広間が、静かになった。

「昨日の放送は、我々を静かにさせるためのものだったのかもしれない。パンも、監視の解除も、全部そのためだったのかもしれない」

響一は、拳を握った。掌の傷が、まだ塞がっていない。

「私は、それを昨日の時点で疑うべきだった」

彼は、そこで一度言葉を切った。

「疑って、それでも何もできなかった。すまない」

誰も、責めなかった。

責める気力が、もう誰にも残っていなかった。

 

千鶴は、その言葉を離れた場所で聞いていた。

——違うわ。

彼女は、そう思った。

あなたは疑っていた。疑った上で、動かなかった。それは判断だった。

動いた人間が、一人だけいた。

その人は、誰にも言わずに出ていった。会長さん、と呼びかけて、一番人が多いところにいてくださいとだけ言って。

千鶴は、口を開かなかった。

言えなかった。言えば、約束を破ることになる。

彼女は、東の扉の前に立ち続けた。

探しているふりをして。

 

灰色の空間で、朧が言った。

「訓練は二年半で終わった」

「はい」

「残ったのは、お前一人だった」

玲は答えなかった。

「十一人が死んだ。訓練中に死んだ者もいる。訓練の後に死んだ者もいる。どちらも、同じことだ」

朧の声は、平坦だった。

謝罪の色も、後悔の色もなかった。

「私は、あの環境で子供が生き延びる方法を一つだけ知っていた。だからそれを教えた。教えなければ、十二人全員が三ヶ月で死んでいた」

「そうですね」

「一人残った」

朧は、自分の掌を見た。

節の太い、乾いた手だった。仮想空間で再現されたその手には、皮膚の細かい皺まで入っていた。

「それが、私の三十年だ」

灰色の空間に、その言葉が落ちた。

反射する面がないので、音はすぐに消えた。

「否定してくれても構わん」

朧が言った。

「非道だと言われたことは何度もある。その通りだ。私は否定しない」

「否定しませんよ」

「そうか」

「褒めもしませんけど」

朧は、少し笑った。

「それでいい」

 

玲は、椅子に座ったまま、その男を見ていた。

五年前より、痩せている。

あのころは、もっと大きな男だと思っていた。子供の目から見ていたからだろう。今、向かい合ってみると、自分より頭一つ小さい。

肩の位置が、少し落ちている。

長く同じ姿勢を取り続けた人間の、肩の落ち方だった。

——歳を取ったな、と玲は思った。

思っただけだった。

 

玲は、その言葉に何も返さなかった。

返す言葉が、特になかったからだ。

恨んでいるかと聞かれれば、たぶん違う。

感謝しているかと聞かれても、やはり違う。

玲にとって、どちらも少し遠い言葉だった。

 

「一つ聞いていいですか」

玲が言った。

朧が、顔を上げた。

「なんだ」

「なんで、オレなんですか」

灰色の空間に、その問いが落ちた。

反射する面がないので、音はすぐに消えた。

「あれから五年です。オレより強い人間、いくらでも作れたでしょう」

朧は、しばらく黙っていた。

そして、言った。

「作った」

「はい」

「四十人ほどな」

「それで」

「全員、死んだ」

 

玲の眉が、わずかに動いた。

久しぶりの、表情らしい表情だった。

「どこから連れてきたんですか」

朧の動きが、止まった。

「……なぜ、それを聞く」

「四十人でしょう。戦場にそんなに都合よく揃いませんよ」

灰色の空間に、沈黙が落ちた。

朧は、しばらく黙っていた。

そして、言った。

「集めた」

「はい」

「私が、集めた」

彼は、玲から目を逸らさなかった。逸らさないことを、自分に課しているように見えた。

「お前たちのときとは違う。あのとき私は、目の前にいる十二人を三ヶ月で死なせないために教えた。生かすためだった」

「今回は」

「調べるためだ」

朧は、そう言った。

「同じ環境を作った。同じ訓練を、同じ手順でやった。年齢も揃えた。体格も揃えた。記録も取った。生き延びる技術は教えたが、それは条件を揃えるためであって、生かすためではなかった」

彼は、自分の掌を見た。

「私は、そう呼ばれるべきものになった。否定はしない」

「一人も残らなかった」

「……」

「二十人目のときに、手順を疑った。三十人目のときに、環境を疑った。四十人目のときに」

彼は、そこで言葉を切った。

「疑うものが、なくなった」

玲は、答えなかった。

四十人。

顔も名前も知らない子供たちが、番号で呼ばれて、番号のまま消えた。

——なるほど、と玲は思った。

それだけだった。

怒りは湧かなかった。顔も名前も知らない四十人のために怒る方法を、玲はうまく見つけられなかった。

「なぜだと思う」

「知りませんよ」

「私にもわからん」

朧は、そう言った。

その声は、これまでで一番、人間の声に近かった。

「三十年やって、わかったのは一つだけだ。お前は、偶然だった」

 

「偶然」

「そうだ」

朧の声が、初めて少し大きくなった。

「私が作ったのではない。私が教えたのは、生き延びるための技術だけだ。それで四十人は死んだ。お前だけが死ななかった」

彼は、玲を見た。

その目には、憎しみも、愛情もなかった。

もっと単純で、もっと厄介なものが入っていた。

——理解できないものを、それでも理解したいと思っている目だった。

「私は、お前が何なのかを知りたい」

「知ってどうするんです」

「もう一度、作れるようになる」

朧は、そう言った。

「四十人殺して、わからなかった。次の四十人でも、たぶんわからん。手順の外に答えがあるからだ」

「手順の外」

「お前の中だ」

彼は、玲を指差した。

「二年半のどこかで、お前は何かをした。私が観測できなかった何かだ。それが、お前とあの四十人を分けた」

「覚えてませんよ」

「知っている」

朧の声が、低くなった。

「だから、思い出させに来た」

 

「そういうことなら」

玲は、椅子から立ち上がった。

「早く済ませてください。九時間経ちましたよね」

朧が、顔を上げた。

「ああ」

「みんな、帰しましたか」

「……」

「教官」

玲が、初めてそう呼んだ。

朧の肩が、わずかに動いた。

 

灰色の空間に、映像が浮かんだ。

大広間だった。

シャンデリア。深紅の絨毯。彫像のように固まったNPC。

そして、118人の生徒。

全員、そこにいた。

誰も、帰っていなかった。

 

音はなかった。

映像だけが、灰色の空間に浮かんでいる。

悠斗が走っている。口が動いている。何度も同じ形に動くので、名前を呼んでいるのだとわかった。

千鶴が、東の扉の前に立っている。動いていない。扉を見てもいない。ただ、そこに立っている。

響一が生徒たちを集めて、何かを話している。誰も彼を責めていない。責める気力が残っていないのだと、その顔つきでわかった。

ひばりが、泣きそうな顔で辺りを見回している。北条冴が、その手を握っている。

姫川澪が、広間の隅で丸くなっていた。膝の上に、巻きかけの布があった。巻く相手がいなくなったのではない。手が、動かなくなっていた。

天井の赤い数字は、消えていた。

期限が過ぎたのだ。

過ぎたのに、誰も帰っていない。

 

玲は、その映像をしばらく見ていた。

それから、朧を見た。

「話が違いますね」

「違わんな」

朧は、椅子に座ったままだった。

「私は、お前が残れば帰すと言った」

「残ってますけど」

「来たのと、残るのは違う」

玲は、少し黙った。

「……言葉遊びですか」

「そう取ってくれて構わん」

朧は、こちらを見上げた。

「言っていなかっただけだ、七番」

玲の眉が、動いた。

その言い回しに、覚えがあったからだ。

数時間前、この男に「なぜ隠していた」と聞かれて、自分が返した言葉だった。

「……それ、嘘と変わらないでしょう」

「変わらんな」

朧は、否定しなかった。

「私は四十人を殺した男だ。今さら、嘘をつかない人間のふりをする意味がない」

彼は、そう言って立ち上がった。

「条件は一つ伏せてあった。認める」

 

「残り半分は」

玲が聞いた。

朧は、しばらく黙っていた。

その沈黙は、言うべきかどうかを迷っている沈黙ではなかった。

言えば何が起きるかを、正確に知っている人間の沈黙だった。

「七番」

「はい」

「私は、お前を殺しに来たのではない」

「知ってます」

「連れて帰るつもりもない。お前の身体には、もう用がない」

玲の眉が、動いた。

「……じゃあ、なんです」

「言っただろう。思い出せ」

「思い出せませんよ」

「思い出す」

朧は、そう言い切った。

「思い出す場所を、五年かけて作った」

朧は、椅子から立ち上がった。

そして、灰色の空間の、何もない方向を指差した。

指の先に、扉が現れた。

さっきの灰色の扉より、ずっと小さい。人が一人、屈んで入る程度の大きさだった。

装飾はない。取っ手もない。

ただ、その表面だけが、他の何もかもと違って、丁寧に作り込まれていた。木目があり、傷があり、蝶番の錆まで再現されていた。

この空間で、そこだけが本物のようだった。

——見覚えがある、と玲は思った。

思ってから、思い出せないことに気づいた。

そして、灰色の空間には時計がなかった。

日も差さない。腹も減らない。喉も渇かない。

自分がここでどれだけ喋ったのか、玲には見当がつかなかった。三十分にも思えたし、半日にも思えた。

外では、九時間が過ぎていた。

——なるほど、そういうことか。

彼は、そう思っただけだった。

「入れ」

「入ったら」

「118人は帰す」

朧は、そう言った。

「これで全部だ。もう伏せていない」

「何があるんですか」

「お前が、思い出せなかったものだ」

玲は、その扉を見た。

しばらく、見ていた。

「めんど——」

言いかけて、やめた。

彼は歩き出した。

(第8話へ)


いいなと思ったら応援しよう!