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世界が隠した最後の切り札と学園一の無能【第一話】学園一の無能

私立鷹宮学園(たかみやがくえん)の朝は、鐘の音から始まる。

石造りの時計塔が七時ちょうどに鳴る。低く、腹に響く音だ。三度撞かれて、余韻が丘の斜面を滑り落ちていく。その余韻が消えきる前に、寮の窓という窓が一斉に開く。四階建ての石壁に並んだ縦長の窓が、上から順に、乾いた音を立てて押し開かれていく。

朝の空気は冷たい。九月の終わりの、まだ夏の名残を含んだ冷たさだ。芝生には露が残っていて、敷石の縁が濡れて黒く光っている。制服のブレザーに袖を通した生徒たちが、その道を歩いていく。紺のウールが朝日を吸って、鈍い色に見える。

誰も走らない。

走る者は、ここでは紳士とみなされない。二年前、遅刻しそうになって全力で走った一年生がいた。彼は遅刻を免れたが、その日のうちに担任から三十分の指導を受けた。以来、この学園の生徒は、遅れそうなときには早く起きる。

「歩幅は一定に。視線は前方十五度。鞄は右手に持ち、腕は振りすぎない」

列の横で、教員が朗々と指導している。低学年の生徒たちが、自分の足元を見ないようにしながら歩幅を直していた。歩き方にすら作法がある学校というのは、たぶん、そう多くない。

創立五十年。政財界に数多の卒業生を送り出してきた全寮制の男子校。掲げる理念はただ一つ、紳士を育てること。礼儀、品格、教養、エスコート、そしてリーダーシップ。

入学案内の表紙に並ぶ生徒たちは、一人残らず背筋がまっすぐで、目に迷いがない。世界中の親が息子をここに入れたがる理由は、その一枚を見ればわかるようにできている。


その、あまりに整った敷石の道を。

一人だけ、盛大にはみ出して歩いている男がいた。

まず、大きい。身長は百九十を超えている。肩幅はブレザーの縫製が悲鳴をあげそうなほど広く、首は太く、袖から出た手首の骨が異様に張っている。歩くたびに、周囲の生徒が自然と半歩ずれていく。避けているというより、水が岩を避けて流れるのに近かった。

そして、ネクタイが緩んでいた。緩んでいる、という表現も正確ではない。結び目が鎖骨のあたりまで下がっていて、もはや首にかけているだけだった。髪は寝癖でうねっていて、後頭部の一房が完全に反り返っている。

そして、あくびをしていた。

「おい玲(れい)、口。口閉じろ。校門だぞ、校門」

隣を歩く小柄な生徒が、鞄の角で相手の脇腹をつついた。制服の着方はきちんとしているが、ネクタイの結び目だけが少し曲がっている。毎朝、鏡の前で急いでいる男の結び方だった。

「うるせえな悠斗(ゆうと)。あくびは生理現象だ」

「生理現象を堂々と主張する紳士がいてたまるか」

槇島悠斗(まきしまゆうと)は、この学園で唯一、鷹宮玲(たかみやれい)に遠慮というものをしない男である。中等部からの付き合いで、玲が転入してきた最初の日に、隣の席から「お前デカいな」と話しかけた。それが三年続いている。

「大体お前、寮から校舎まで五分だぞ。五分歩いただけで眠くなるのおかしいだろ」

「その五分に全力を注いだ結果だ」

「歩くのに全力を注ぐな」

前を歩いていた小柄な一年生が、抱えていた資料の束を取り落とした。紙が敷石の上に散らばって、朝の風にわずかに滑る。周囲の生徒たちは、綺麗によけて通り過ぎていった。誰も走らない学校では、しゃがみ込むのもまた作法に反するらしい。

一年生は真っ赤な顔で膝をついた。指がうまく動いていない。焦っている人間の手つきだった。

そこへ、大きな影が落ちた。

玲は歩調を変えていなかった。歩きながら身を屈めて、右手だけで紙をすくい上げ、角を揃えて、束にして差し出した。動作の途中に、迷いがまったくなかった。

「はい」

「あ、ありがとうございます……」

一年生が慌てて頭を下げたときには、玲はもう三歩先を歩いていた。

「お前さ」

悠斗が横目で見る。

「そういうとこだけ妙に早いよな」

「近かっただけだ」

時計塔の影が、敷石の上に長く伸びていた。その影を、玲は踏んで歩いた。作法があるのかどうかは知らないが、たぶん、踏まない方がいいのだろうと悠斗は思った。思っただけで、言わなかった。

 

三年A組の教室は、朝から騒がしかった。

古い木の匂いがする教室だ。机も椅子も、五十年前からほとんど変わっていない。表面には歴代の生徒がつけた傷が層になっていて、窓際の一番後ろの机には、誰が彫ったのか小さな星のマークが残っている。

窓は東向きで、朝は光が真正面から入る。カーテンを開けたままにしておくと、二時間目の途中まで教室の半分が眩しい。だから毎朝、日直が半分だけカーテンを引く。今日は引き忘れられていた。

「よし賭けよう。今日、玲が何分で寝るか」

「三分」

「俺は着席と同時」

前の席の男子が、机に小銭を並べながら真剣な顔をしている。藤代亮(ふじしろりょう)。声が大きくて、よく笑う。三年A組の空気の温度を、たいてい彼が決めている。

「お前ら、人を賭けの対象にすんな」

玲は自分の席にどさりと腰を下ろした。木の椅子が短く悲鳴をあげて、脚が床を少し擦った。この椅子は年に二回、彼のために交換されている。

「じゃあ聞くけどな玲。お前、昨日の古典、何分寝てた」

「起きてた」

「途中から涎垂らしてただろ」

「あれは寝てない。目を閉じて古典と向き合ってた」

「向き合ってねえよ」

教室が笑った。藤代が一番大きく笑って、机を叩いた。机の上の小銭が跳ねて、一枚が床に落ちた。彼はそれを拾って、また積み直した。

こういう空気が、三年A組には毎朝ある。

 

不思議なことに、玲は嫌われていない。

成績は下から数えた方が圧倒的に早い。実技試験では毎回どこかで転ぶ。課題は締切当日の朝、廊下を歩きながら書いている。教師陣の評価は「見込みなし」で一致していて、進路指導の面談は毎回三分で終わる。

それでも誰も、彼を蔑まない。

たぶん、彼が誰のことも見下さないからだ。成績で人を測らない。家柄でも測らない。誰が何点取ろうが、誰が誰に負けようが、玲にとってはどうでもいいらしい。

この学園には、まだ十七、八の年齢で人を値踏みする癖を身につけてしまった者が少なくない。父親の役職を知っている。母親の実家を知っている。相手の顔を見る前に、そういうものを見てしまう癖がついている。名家の子息が集まる場所とは、そういうものだ。

玲だけが、その癖を持っていなかった。

だから、居心地がいい。昼休みに彼の席の周りには、いつも誰かがいる。数学の答えを写しに来る者もいれば、ただ座っている者もいる。彼は何も聞かないし、何も広めない。

「バカだけど憎めない奴」

それが三年A組における鷹宮玲の位置だった。

 

ただし。

この学園に通う全員が、一つだけ共有している疑問がある。

なぜ、こいつがここにいるのか。

鷹宮学園の入試倍率は、毎年二十倍を超える。財力だけでは入れない。推薦だけでも入れない。学力、体力、面接、そのすべてを通過した者だけが、あの敷石の道を歩く資格を得る。三次面接では、紅茶の注ぎ方と、初対面の相手との十五分間の会話が課される。

その門を、成績最下位から二番目の男がくぐっている。

答えは、たぶん一つしかない。学園の創設者にして理事長、鷹宮玄一郎(たかみやげんいちろう)。その男が数年前に引き取った養子が、この鷹宮玲である。

血の繋がりはない。詳しい経緯を知る生徒もいない。玲自身、その話題になると「拾われた」とだけ言って、それ以上は喋らない。ただ、姓が同じで、成績が最下位で、それでも退学にならない。

不公平だと怒る者は、意外なほど少なかった。

怒るには、彼はあまりに間が抜けていた。

 

一時間目が終わり、答案が返却された。

「三十一点」

覗き込んだ悠斗が固まる。答案用紙の赤い数字は、丸で囲まれていた。教師の几帳面な字だった。

「前回三十点だぞ。伸びしろが一点しかない人間がいてたまるか」

「一歩ずつだよ、悠斗。紳士は焦らない」

「その言葉を今使うな」

そのとき、教室の空気がわずかに変わった。窓際の席から、一人の生徒が立ち上がったのだ。

神代響一(かみしろきょういち)。生徒会長、学年首席、剣術部主将。掲示板に貼り出される成績表の一番上に、三年間ずっと同じ名前が載り続けている男である。

歩き方が違う。この学園の作法を、彼だけは意識せずにやっている。教員に教わったのではなく、家で身につけたものだった。彼が通ると、廊下の生徒が自然と道を空ける。玲のときとは、空け方の質が違った。

響一は玲の机の横で足を止めた。答案を見た。三十一点を見た。

「鷹宮」

「はい」

「先週の実技だが」

「ああ、あの、オレが最初に落ちたやつ」

「開始十二秒だ」

「早いだろ。効率的」

響一は答えなかった。教室の音が少し引いた。誰も彼の方を見ていないふりをしながら、全員が聞いている。

「体格だけなら、学園一だ」

玲が顔を上げた。

「褒められてる?」

「腐らせるな、と言っている」

響一はそれだけ言って、踵を返した。背筋のまっすぐな後ろ姿が、扉の向こうへ消えていく。廊下で誰かが「会長おはようございます」と言い、彼が短く返す声が聞こえた。

「……お前、今の分かってるか」

悠斗が声をひそめた。

「会長、お前のこと嫌ってないぞ。あれ、たぶん励ましてる」

「そうか」

「そうかって」

「いい奴だな」

玲は答案を裏返して、その裏側に落書きを始めていた。犬とも猫ともつかない何かが、二本足で立っていた。腕が四本あった。

 

昼休み。

中庭は、学園でいちばん風が抜ける場所だ。四方を建物に囲まれているのに、南側だけが低いアーチになっていて、そこから丘の風が入ってくる。植えられているのは楓と、名前のわからない低木と、季節の花壇。今は秋の花が終わりかけていて、土の匂いが強かった。

その中庭の、一番奥のベンチに、玲は仰向けに寝そべっていた。長すぎる脚がベンチから完全にはみ出して、踵が地面についている。日陰なので、石のベンチは冷たい。彼はそれを気にしていないようだった。

購買のパンを咥えたまま、悠斗がその隣に座った。座る場所がないので、玲の膝を押しのけて座った。

「重いんだよお前」

「動かしてるのはお前だろ」

そのとき、ベンチの下から一匹の猫が出てきた。痩せた茶トラで、右耳の先が少し欠けている。学園に住み着いていて、生徒会が何度か「対応」を議題に上げては、そのたびに立ち消えになっている。

猫は当然のような顔で、玲の腹の上に前脚をかけた。爪は立てていない。何度も乗っている脚の置き方だった。

玲は身体を起こさないまま、パンを半分ちぎって差し出した。猫は匂いを嗅いで、それから食べ始めた。小さな顎が忙しく動いている。

「お前、さっき足りねえって言ってなかったか」

「そいつのほうが小さいだろ」

「理屈が通ってるようで通ってねえよ」

猫は食べ終えると、玲の腹の上でしばらく丸くなろうとして、思い直したように飛び降り、ベンチの下に戻っていった。

 

「なあ玲」

「んー」

「お前さ」

「んー」

「本気出したことあんの」

楓の葉が擦れる音がした。風が一度抜けて、また止まる。どこかの教室から、吹奏楽部の誰かが同じ小節を三回繰り返しているのが聞こえた。

玲は空を見上げたまま、パンの袋を右手で開けた。袋の端を口で押さえて、右手で引き裂く。器用なのか不器用なのか、判断のつかない動きだった。

この男は、なぜかいつも右手しか使わない。左手はポケットに入れたままか、だらりと下げたままだ。悠斗はそれに気づいていたが、聞いたことはなかった。聞くほどのことでもないと思っていたし、たぶん聞いても「そういう手なんだ」と返ってくる。

「オレはいつも全力だ」

短く、玲が言った。

悠斗は数秒黙った。それから、腹を抱えて笑い出した。ベンチが揺れた。

「い、今のがか? 今、ベンチで寝てるのが全力なのか?」

「寝るのにも技術がいる」

「いらねえよ!」

「悠斗、お前は知らないだろうが、人間は寝方を間違えると首をやる」

「そういう話じゃねえんだよ」

玲は真面目な顔で空を見ていた。その顔が本気なのか冗談なのか、悠斗にはいつも判断がつかない。三年間、ずっとそうだった。冗談だと思って笑うと真顔で返され、真面目に受け取ると寝られる。

「でもさ。ちょっとくらい本気出したら、成績も——」

「悠斗」

「ん」

「腹減った」

「今食ってただろ。しかも半分猫にやっただろ」

「だから足りねえ」

玲はもう空を見ていなかった。目を閉じていた。もう聞いていない、という意思表示だった。

問い詰めても、はぐらかす。深追いすると、寝る。三年間、誰も彼の本音を引き出したことがない。もっとも、誰も本気で引き出そうとはしていなかった。そこに何かがあるとは、誰も思っていなかったからだ。

風がもう一度抜けた。玲の寝癖が揺れた。

 

午後。

第三実習棟は、この学園で唯一、外観が近未来的な建物だ。石造りの本校舎から渡り廊下でつながっているのに、扉をくぐった瞬間、匂いが変わる。木と埃の匂いから、金属と空調と、かすかな消毒液の匂いへ。

その最上階の講堂に、三年生全員が集められていた。座席は階段状で、正面に巨大なスクリーンがある。照明が落とされると、白銀のロゴが浮かび上がった。

没入型教育システム《アヴァロン》。

「諸君も三年目だ。今更説明は不要だと思うが、一応、確認する」

壇上の教員が咳払いをした。マイクが少し割れる。この講堂の音響は、五十年前の設計のままだった。

《アヴァロン》は神経直結型のフルダイブ装置である。専用のポッドに横たわり、後頭部に接続端子を当てるだけで、意識は完全に仮想空間へ移される。

再現度は、現実と区別がつかない。風の温度も、絨毯の毛足も、握手した相手の掌の湿り気も、すべて本物と同じ精度で再現される。初めてダイブした一年生が、仮想空間の紅茶を飲んで「熱い」と本気で驚くのが、この学園の毎年の風物詩だった。

「本学園における《アヴァロン》の目的は、戦闘訓練でも娯楽でもない。実践としての紳士教育である」

十九世紀ロンドンの舞踏会。要人警護の現場。災害時の避難誘導。あらゆる状況が仮想空間に構築され、生徒はその中で振る舞いを問われる。

エスコート。危機対応。会話。判断。紙の上では測れないものを測るための装置だった。

「なお、痛覚は常時五パーセントに制限されている」

教員が事務的に付け加えた。

「殴られても、転んでも、痛みはほとんど感じない。安全装置は三重だ。この十年、事故は一件も起きていない」

講堂の空気は緩んでいた。後ろの方で誰かが小さく喋っている。誰もが、その言葉を当たり前のものとして聞き流していた。

天気予報を聞き流すのと、同じ聞き方だった。

 

「では、合同実習のペアを発表する」

講堂がざわついた。

合同実習——鷹宮学園の男子生徒と、提携校である桐花女子学園(とうかじょしがくえん)の女子生徒が、二人一組で《アヴァロン》に入る授業である。全寮制の男子校の生徒にとって、これはほとんど行事に近い意味を持っていた。

「静かに。半年間、同じ相手と組んでもらう」

読み上げが始まる。名前が呼ばれるたびに、歓声と呻き声が交互に起きた。誰かが両手で顔を覆い、誰かが後ろの席を振り返ってガッツポーズをした。教員が三度、静かにしろと言った。

「——鷹宮玲、ペアは、桐花女子学園、綾瀬千鶴(あやせちづる)」

講堂が、一瞬静まり返った。

そして、どよめいた。

「おい」

「嘘だろ」

「よりによって」

隣で悠斗が青ざめている。

「玲、お前……知ってるか、綾瀬千鶴」

「知らん」

「桐花のトップだよ。学年主席、生徒会役員、去年の合同実習で全項目満点。あと、めちゃくちゃ気が強い」

「へえ」

「へえじゃねえよ! お前と正反対だぞ!」

玲はあくびをした。

「まあ、なんとかなるだろ」

「その根拠のない自信はどこから来るんだよ」

「オレはいつも全力だからな」

「今日一番腹立つ台詞だぞそれ」

 

放課後。

顔合わせのために、桐花女子学園の生徒が数名、学園を訪れていた。第三実習棟のロビーは吹き抜けになっていて、西向きの大きなガラス窓から夕日が入る。白い床が、その光を跳ね返して眩しかった。

玲は集合時刻ちょうどに扉を開けた。

彼は遅刻をしない。三年間、遅刻も欠席も一度もない。あれだけ何もかもがだらしないのに、そこだけは例外だった。悠斗が一度「なんで遅刻しねえの」と聞いたことがある。返事は「起きてるから」だった。答えになっていなかった。

もっとも、髪は相変わらず寝癖のままだったが。

ロビーの中央に、一人の少女が立っていた。

黒髪を肩の高さで切りそろえている。背筋がまっすぐに伸びていて、両手を身体の前で軽く重ねている。制服の着方に一分の隙もない。リボンの結び目が、左右対称だった。

立ち姿だけで、その場の空気が一段引き締まっていた。

周りにいた桐花の生徒たちが、彼女より半歩下がった位置にいるのは、たぶん無意識だった。

彼女は玲を見上げた。

見上げて、しばらく黙っていた。視線が、寝癖から始まって、緩んだネクタイを通り、張り詰めたブレザーの肩まで下りて、また上がった。

そして、静かに言った。

「……あなたが、鷹宮玲?」

「おう」

「聞いていた話と、少し違うわね」

「どんな話」

「体格だけは立派だと」

「褒められてる?」

「だけは、と言ったのだけど」

千鶴は視線を外さなかった。

「事前に、学園から成績資料が送られてきたわ。学年最下位から二番目。実技評価、最低」

「おいおい、そんなもんまで届くのか」

「半年間、私の成績を預ける相手ですもの。読むに決まっているでしょう」

彼女は一度だけ、目を閉じた。長い睫毛が影を作って、また上がった。そして、はっきりと言った。

「率直に言うわ。あなたは、この学園における最大の無駄よ」

ロビーの空気が凍った。

桐花の生徒の一人が、小さく息を呑む音が聞こえた。ガラス窓の外で、遠くの部活の声だけが続いている。

 

言われた本人はというと。

ぽりぽりと頭をかいて、こう言った。

「まあ、そうかもな」

千鶴の眉が、わずかに動いた。用意していた次の言葉が、行き場を失ったのがわかった。

「……否定しないの」

「合ってるし」

「呆れた」

「よく言われる」

彼女は少しだけ間を置いて、質問を変えた。

「一つ聞かせて。あなた、なぜ手を抜くの」

玲は少し考えるような顔をした。考えているように見えるだけかもしれなかった。天井を見て、それから彼女に視線を戻した。

「抜いてない」

「え?」

「オレはいつも全力だ」

千鶴の表情から、感情が一瞬だけ抜け落ちた。

「……本気で言っているの」

「本気だ」

「その全力の結果が、三十一点」

「そうなるな」

彼女は短く息を吐いた。吐いてから、自分が息を止めていたことに気づいた。踵を返す。靴音が、白い床に硬く響いた。

「明日から実習が始まります。足を引っ張らないで」

「善処する」

「善処ではなく、してください」

そう言い残して、彼女は歩き去っていった。背筋は、最後まで伸びたままだった。

 

翌日。

《アヴァロン》の起動音は、驚くほど静かだ。

ポッドの蓋が閉まると、外の音が消える。狭い空間に自分の呼吸だけが残る。後頭部にひやりとした端子が触れて、数秒後に、視界が白く溶ける。落下感も浮遊感もない。ただ、瞬きの間に世界が入れ替わる。

玲が目を開けたとき、そこは十九世紀ロンドンの大広間だった。

まず、音が違った。弦楽の四重奏が、高い天井に反響している。その下に、数十人分の話し声が層になっている。グラスが触れ合う音。給仕の靴が絨毯を踏む、ほとんど聞こえない音。

匂いは、蝋と、香水と、暖炉の煙が混ざっていた。奥の暖炉で本当に火が燃えていて、その熱がゆるやかに広間へ流れてくる。頬の右側だけが、わずかに温かい。

シャンデリアの光は、電灯のそれではなかった。何百本もの蝋燭の炎が、わずかに揺れている。だから、床に落ちる影も揺れている。磨かれた大理石の上で、光と影がゆっくり動いていた。

窓の外は、雨だった。石畳が濡れて黒く光り、遠くで馬車の車輪が回っている。ガラス越しに、その音がくぐもって聞こえる。

すべてが本物だった。

——ただし、その中に立つ玲の姿を除いては。

「……ちょっと」

隣で、千鶴が低い声を出した。

深い青のドレスをまとった彼女は、髪を結い上げ、白い手袋をはめている。ドレスの裾が床に広がって、歩くたびに絨毯の毛足を撫でる。首元に細い銀の鎖。誰がどう見ても、この広間の中心にいるべき人間だった。

その隣に立っている男は。

タキシードの肩が完全に負けていた。生地が張り詰めて、腕を上げると縫い目が音を立てそうだった。蝶ネクタイは曲がっている。カフスの片方が留まっていない。そして、靴紐が片方ほどけていた。

「あなた、なぜ服装まで着崩れているの。これ、仮想空間よ。システムが自動で着せるのよ」

「体型が悪いんじゃないか」

「体型は現実準拠でしょう」

「じゃあ現実が悪い」

「反論になっていないわ」

 

課題は単純だった。

パートナーをエスコートして広間を横断し、主催者に挨拶をして、指定の席まで案内する。距離にして三十メートル。人の間を縫って、会話を交わしながら、相手のペースに合わせて歩く。

たったそれだけ。一年生でも通過できる基礎課題である。

玲は、二歩目で千鶴のドレスの裾を踏んだ。

彼女の身体が、がくんと後ろに引かれた。首の後ろの髪が一房ほどけて、白い項に落ちた。

「……」

「わりい」

「わりい、ではなく、申し訳ありません、です」

「申し訳ありません」

「棒読みね」

四歩目で、給仕とぶつかった。銀の盆が傾いて、細い脚のグラスが三つ、宙を舞った。赤い液体が絨毯に散った。深紅の絨毯の上では、それは血のようにも見えたし、ただの染みのようにも見えた。

周囲の視線が集まる。仮想空間のNPCたちが、一斉に眉をひそめた。プログラムのはずなのに、その表情の作り方が妙に生々しかった。老婦人が扇の陰で何かを囁き、隣の紳士が小さく頷いた。

「鷹宮玲」

「はい」

「あなた、私を殺しに来たの?」

「エスコートに来た」

「結果が伴っていないの」

十歩目で、彼は自分の靴紐を踏んで転んだ。

前のめりに、両手をつく間もなく、大理石の床に。百キロ近い体が落ちる音は、思ったより低く、思ったより長く響いた。

楽団の演奏が止まった。

弦の音が消えた瞬間、広間がどれだけ静かになれるのかを、千鶴は初めて知った。数十人が、床に転がった巨体を見ている。

彼女は、天井を仰いだ。

 

——そのときだった。

広間の奥、来賓用の扉が開いた。

シナリオに組み込まれた「不測の事態」である。危機対応能力を測るため、《アヴァロン》は毎回どこかで暴漢役のNPCを投入する。生徒たちはそれを知っているが、いつ来るかは知らない。

今回の役は、酔った男だった。

上等な燕尾服を着ているが、襟が乱れている。片手にグラスを持ち、中身をこぼしながら歩いてくる。テーブルにぶつかって、皿を落とした。誰かに向かって、聞き取れない悪態をついた。

その足取りには、酔った人間特有の、予測のつかなさがあった。まっすぐ歩いているように見えて、二歩ごとに軌道がずれる。

周囲の生徒たちが動揺してざわめいた。

男は、まっすぐ千鶴のほうへ向かってきた。

生徒たちが遠巻きに見ている。誰かが助けに入るべき場面だ。だが誰も動かない。動き方を、まだ誰も知らない。この学園は三年かけて、彼らに歩き方と話し方を教えたが、こういうときに前に出る方法は、まだ教えていなかった。

男の手が、千鶴の肩に伸びた。

 

千鶴は、身構えた。

叩かれる、と思った。仮想空間の痛覚は五パーセントだ。痛くはない。ただ、屈辱ではある。この広間の全員が見ている前で、自分が突き飛ばされるのだと思った。

彼女は目を閉じた。

——何も起きなかった。

一秒。二秒。

音がしない。人の声もしない。楽団も止まったままだ。

彼女は目を開けた。

視界が塞がれていた。

背中があった。

大きな背中だった。タキシードの肩が張り詰めた、あの不格好な背中。近くで見ると、生地の下の筋肉の形がわかるほど張っている。

酔った男は、玲の胸のあたりで止まっていた。

正確に言えば、止められていた。

玲の右手が、男の手首を軽く握っている。ただ握っているだけに見える。指の関節にも、腕にも、力が入っているようには見えない。握手をほどく途中のような、なんでもない握り方だった。

それなのに、男はそれ以上一ミリも動けていなかった。

肩が引きつっている。腕を引こうとして、引けていない。酔った顔に、酔っていない何かが浮かんでいた。

「おっと。すいませんね、旦那」

玲の声は、いつもの間の抜けた調子だった。

「足元、ふらついてますよ」

彼は男の腕を、そっと元の位置に戻した。まるで、落ちた帽子を拾って返すみたいに。

男はよろめき、二、三歩下がって、それから踵を返した。理由もなく、方向を変えて歩き去っていく。

シナリオが終了判定を出した。危機対応、成功。

楽団の演奏が再開された。ちょうど、止まった小節の続きから。

 

広間は、何事もなかったかのように動き出した。

生徒たちは息を吐き、また談笑を始めた。給仕が割れたグラスを片付け、絨毯の染みに布を当てた。老婦人が扇を閉じて、別の話題に移った。

誰も、たった今何が起きたのかを気に留めていなかった。大男が偶然、酔っ払いの前に立った。それだけの絵にしか見えなかった。

実際、それだけのことだったのだろう。

——ただ一人を除いて。

千鶴は、動けずにいた。

心臓が、遅れて速くなっていた。危険が去ってから速くなる心臓というものを、彼女は初めて経験していた。手袋の中で、掌が汗ばんでいる。

彼女は見ていた。玲が動いた瞬間を、見ていたのだ。

いや。

正確には、見ていない。

彼女が目を開けたとき、玲はもうそこにいた。その間の動きが、記憶にない。まばたきの記憶もない。目を閉じていた時間は、せいぜい二秒だった。

問題はそこではない。彼女が引っかかったのは、もっと別のことだった。

——十歩目で、この男は転んだ。

自分の靴紐を踏んで、大理石の床に無様に転がった。ついさっき、この広間の全員が見た。

その男が、床から立ち上がって、広間を斜めに横切って、三十歩以上離れた位置にいた酔漢の前に、間に合った。

千鶴は視線を落とした。

玲の足元。

靴紐は、いつの間にか結ばれていた。

固く、丁寧に、蝶結びになっていた。

 

「鷹宮」

「ん?」

「あなた、さっき」

「ああ、悪い。また転んだ」

「そうじゃなくて」

「腹減った」

「まだ実習中よ」

玲はあくびをした。

その顔は、いつもと何も変わらなかった。頬に大理石の跡がついていて、蝶ネクタイは相変わらず曲がっている。上着の肩には、床の埃がついたままだった。

学園一の無能。最下位から二番目。教員の所見、見込みなし。

そのすべてが、目の前の男の説明として正しいはずだった。

正しいはずなのに。

千鶴の背筋を、説明のつかない何かが、ゆっくりと撫でていった。暖炉の熱が届いているのに、腕に鳥肌が立っていた。

「……ねえ」

「うん?」

「あなた、本当に手を抜いていないの?」

玲は、彼女を見下ろした。

一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、その目から、いつもの眠たげな光が消えたように見えた。

見えた、気がした。

蝋燭の炎が揺れて、影が動いただけかもしれなかった。

「オレはいつも全力だ」

彼はそう言って、また頭をかいた。

「だから、今日はもう疲れた。帰っていいか」

「……よくないわ」

 

実習終了の鐘が鳴る。

視界が白く溶けて、ポッドの蓋が開いた。

天井の照明が眩しい。目が慣れるまでに数秒かかる。現実の空気は、香水も蝋も混ざっていない、ただの消毒液の匂いがした。腕に残っていた暖炉の熱の感覚が、急速に消えていく。

隣のポッドから起き上がった千鶴は、しばらくそこに座ったまま動かなかった。ポッドの縁を両手で握って、自分の呼吸が戻るのを待っていた。

廊下に出ると、掲示板に翌週の予定が貼り出されていた。

『全学年合同実習 参加者120名 第三実習棟 全ポッド使用』

千鶴はそれを見上げていた。

隣で、玲が大きくあくびをした。

 

同じ頃。

第三実習棟の地下、管理サーバ室。

蛍光灯が一本、切れかけて明滅している。空調の音だけが低く続いている。当直の職員が、その日の実習ログに目を通していた。数千件の記録が滝のように流れていく。

ほとんどが正常値だ。彼はスクロールバーを転がしながら、半分は画面を見ていなかった。この作業を三年やっている。三年で一度も、本当に問題があったことはない。

一件だけ、赤い行があった。

『被験者ID:0392/移動速度 異常値検出/推定値、記録上限を超過』

職員は数秒眺めて、あくびをした。

こういうものは、たまに出る。接続の揺らぎ。座標の飛び。要するにノイズだ。過去にも何度もあったし、そのたびに何でもなかった。今日は金曜で、あと二時間で交代だった。

彼はプルダウンから「ノイズとして処理」を選び、確定を押した。

赤い行が消える。

その処理履歴が、自動バックアップの回線を通って学外へ一瞬だけ出ていったことに、彼は気づかなかった。

(第2話へ続く)

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