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世界が隠した最後の切り札と学園一の無能【第二話】ログアウト不可

二週間が過ぎた。

合同実習は週に三度。鷹宮玲(たかみやれい)と綾瀬千鶴(あやせちづる)のペアは、順調に評価を落とし続けていた。

「舞踏会、七十二点。避難誘導、六十五点。晩餐会——」

千鶴が手元の端末を睨んでいる。指先が画面を二度、三度と叩いた。数字が変わらないことを確認するような叩き方だった。

「四十一点」

「伸びしろがあるな」

「どこにあるの」

「五十九点分」

「言い方の問題ではないの」

放課後の実習棟の廊下は、西日で橙色に染まっていた。窓枠の影が、白い床に長い格子を落としている。二人が歩くと、その格子の上を交互に明暗が渡っていった。

千鶴は端末を閉じて、隣を歩く大男を見上げた。見上げないと顔が見えない。この二週間で、彼女はその角度にすっかり慣れてしまった。慣れたこと自体が、少し腹立たしかった。

「鷹宮」

「ん」

「あなた、晩餐会でナイフを落としたわね」

「手が滑った」

「三回落としたわ」

「よく滑る手なんだ」

「そう」

千鶴はそれ以上追及しなかった。追及したところで「腹減った」で返されることを、彼女はもう学習している。

 

——ただ、彼女が本当に気になっていたのは、そこではなかった。

この二週間。彼女は一度も、玲が左手で何かを持っているところを見ていない。

扉を開けるのは右手。カップを持つのも右手。鞄も右。落としたナイフも、三回とも右手から落ちた。実習中、両手が必要な場面では、片方を膝の上に置いたまま、無理な姿勢で右手だけを使っていた。

左手は、いつもポケットの中か、身体の脇に垂れている。

利き手の問題ではない。利き手であっても、人はもう片方を無意識に使う。ドアを押さえる。手すりに触れる。落ちかけた鞄を支える。

この男は、それを一度もしなかった。

左手が、そこに存在していないような使い方だった。

指摘するには、あまりに小さい。何かの拍子に「そういえば」と口に出せば、たぶん笑い話になって終わる。千鶴はまだ、何も言わないことにしていた。

言うだけの材料が揃っていない。そういうところが、彼女の生真面目さだった。


こういうことが、この二週間で何度かあった。

課題の合間に、彼が必ず出口の位置を確認していること。給仕役のNPCが持つトレイの数を、目で数えていること。誰かが背後に立つと、ほんの一瞬だけ、身体の重心が変わること。

どれも、指摘するには小さすぎる。

小さすぎるものが、少しずつ溜まっていく。彼女の中で、それは名前のつかない引き出しに放り込まれ、増え続けていた。

 

その日の夕方、玲は理事長室に呼ばれた。

本校舎の三階、東の突き当たり。重い樫の扉を開けると、紅茶の香りがした。深く煎じた、少し渋みのある匂いだった。

部屋は、思ったより静かだった。壁の三面が書架で、背表紙の色が層になっている。窓は南向きの縦長で、夕方のこの時間だけ、光が床の絨毯を斜めに切る。埃が、その光の中でゆっくり舞っていた。

窓際に、一人の老紳士が立っている。

背筋がまっすぐに伸びていた。七十を過ぎているはずなのに、その立ち姿には一分の崩れもない。仕立てのいい三つ揃え。銀色の髪。眼鏡の奥の目は、穏やかで、深い。

鷹宮玄一郎(たかみやげんいちろう)。この学園を創り、五十年にわたって「紳士」を育て続けてきた男である。

「座りなさい」

「はい」

玲は革張りのソファに腰を下ろした。ソファが短く軋んで、座面が深く沈んだ。この部屋のソファは、彼のために一度、脚を補強してある。

玄一郎はティーカップを二つ用意して、片方を玲の前に置いた。ソーサーが触れる音が、静かな部屋に小さく鳴った。

「今日の実習は」

「四十一点でした」

「そうか」

それだけだった。

叱責はない。落胆もない。玄一郎は自分のカップに口をつけて、静かにソーサーへ戻した。

「身体は」

「え?」

「どこか痛めてはいないか」

玲は少しだけ、目を瞬かせた。

「……別に」

「そうか」

この老人は、成績の話をしない。三年間、一度もしたことがない。呼び出されるのはたいてい月に一度で、そのたびに聞かれるのは同じことだった。

飯は食っているか。眠れているか。どこか痛めていないか。

四つ目の質問を、玲はまだ聞いたことがなかった。

 

「玲」

「はい」

「紳士とは何か、覚えているか」

「……力を持ちながら、振るわぬ者のこと」

「そうだ」

玄一郎は窓の外を見たまま、少しだけ声を落とした。

「この言葉はな。持っている者にしか、意味がない」

夕暮れの敷石の道を、生徒たちが背筋を伸ばして歩いている。誰も走らない。この学園の、五十年変わらない風景だった。老人は、その風景を五十年見続けてきた。

——玲は、聞いていなかった。

正確には、聞こえてはいた。ただ頭の中では、今日の食堂の献立のことを考えていた。火曜だから揚げ物のはずだが、先週は水曜にずれた。ずれる理由が何かあるのかもしれないが、考えたことはなかった。

「玄一郎さん」

「ん」

「今日、揚げ物ですか」

玄一郎は、しばらく黙った。

窓の外から、部活動の号令が遠く聞こえてきた。

それから、小さく笑った。

「……さあ、どうだったかな」

 

紅茶が半分ほど減ったころ、老人がぽつりと言った。

「玲」

「はい」

「もう、考えなくていい」

その一言に、主語はなかった。

何を、とも、いつのことを、とも言わなかった。

玲は天井を見たまま答えた。天井には、細かい格子模様の彫りが入っている。この部屋に呼ばれるたびに見ているので、模様の数まで覚えていた。

「考えてませんよ」

「そうか」

玄一郎は、少しだけ笑った。

その笑い方が、どこか寂しそうに見えたことに、玲は気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。

言えば、話が長くなる。

「メシ、食っていいですか」

「食堂は六時からだ」

「あと十分ありますね」

「待ちなさい」

 

翌日。

実技の授業で、玲は右の前腕を擦りむいた。

正確には、擦りむいたことにした。組手の相手役が繰り出した拳を、彼は避けようと思えば避けられたが、避けなかった。避けると、その次の動きを説明できなくなるからだ。

畳の上に転がったとき、周囲から気の毒そうな声が上がった。「またやってる」という笑いも混じっていた。彼は起き上がって、腕を見て、ああ、と言った。

血が滲む程度の傷である。放っておけば二日で消える。

だが教員は「保健室へ」と言った。この学園は、生徒の傷にうるさい。名家の息子を預かっているという意識が、五十年分積み重なっている。

 

保健室の窓は開いていた。

白いカーテンが風で膨らんでは戻る。膨らむたびに、外の芝生の匂いが少しだけ入ってくる。消毒液の匂いに、かすかに石鹸の匂いが混ざっていた。

ベッドが四つ並んでいて、そのうち三つは白いシーツがぴんと張られている。四つ目だけ、少し皺が寄っていた。

「あら」

丸椅子から立ち上がったのは、小柄な女子生徒だった。

肩に届く髪をゆるく結び、白衣を羽織っている。白衣の袖が長すぎて、指先が半分隠れていた。目が丸く、笑うと少しだけ困ったような顔になる。

「桐花の、保健委員の姫川澪(ひめかわみお)です。今日は実習の付き添いで来てて……あの、先生は今、職員会議で」

「ああ、じゃあいいや。バンソウコウだけ貰えれば」

「だめです」

意外に、きっぱりした声だった。

「座ってください。消毒します」

玲は素直に座った。丸椅子が悲鳴をあげた。座ると、彼女の目線が玲の頭より上になった。彼女は少しだけ嬉しそうな顔をして、それを隠した。

澪は玲の右腕を取って、脱脂綿に消毒液を含ませた。ぴりっとした匂いが立つ。

慣れた手つきだった。手際がいい。腕を持つ力が、驚くほど優しい。傷の周りから外側へ、少しずつ拭いていく。

「痛かったら言ってくださいね」

「痛くない」

「みなさんそう言うんです」

「本当に痛くない」

澪は笑って、包帯を巻き終えた。端を折り込んで、指で軽く押さえる。

「はい、終わりました。……あ、反対も見せてください」

「反対?」

「組手でしょう? 受け身の側も擦れてることが多いんです」

彼女は当たり前のように、左腕へ手を伸ばした。

——玲の左手は、動かなかった。

 

差し出されない。袖をまくられもしない。

ポケットに入ったまま、微動だにしていなかった。

澪の指が、空中で止まった。

彼女は不思議そうに首を傾げた。白衣の袖が、また少し下がった。

「あの……鷹宮さん?」

「そっちは無事だ」

「見ないとわかりませんよ」

「無事なんだ」

「見せてください」

「……」

沈黙が続いた。

カーテンが膨らんで、戻った。窓の外で、誰かが笑いながら走っていく音がした。この学園では珍しい音だった。

小柄な保健委員は、引かなかった。両手を膝に置いて、じっと待っている。困ったように笑いながら、一歩も引いていない。

視線を逸らさない人間だった。

玲は、諦めたように息を吐いた。

そして、左腕をゆっくり出した。

 

澪の指が、袖口にかかる。

布を持ち上げて、まくり上げた。

そして、止まった。

擦り傷はなかった。

その代わりに、白く、細く、まっすぐな線が走っていた。

一本ではない。前腕から肘の内側にかけて、似たような線が何本も並んでいる。皮膚の色より少しだけ白く、盛り上がってはいない。古い傷だ。年単位で古い。

どれも同じ角度。同じ深さ。同じ方向。

偶然にできたものが、そんな揃い方をするはずがなかった。

澪は保健委員を二年やっている。ぶつけた傷も、切った傷も、擦った傷も見てきた。転んでできた傷は、こういう形にならない。

これは、誰かが同じ動作を繰り返した跡だった。

カーテンが膨らんで、戻った。

「……これ」

澪の声が、小さくなった。

「昔、転んだ」

「転んで、こんなふうには」

「よく転ぶんだ」

玲は腕を引っ込めようとした。

澪は、離さなかった。

小柄な彼女が、両手で大男の腕を掴んでいる。妙な絵だった。掴んでいるといっても、力の差は明らかで、玲が引けば一瞬で外れる。

外れなかった。彼が引かなかったからだ。

「……痛かったですか」

彼女は傷跡ではなく、玲の顔を見ていた。

「そのときは」

沈黙が落ちた。

玲は、少し困ったような顔をした。それは彼が滅多にしない表情だった。眠たげでも、間が抜けてもいない、ただ言葉を探している顔だった。

「覚えてない」

嘘ではなかった。

痛みの記憶は、ある時期を境に、綺麗に抜け落ちている。あることは覚えている。どうだったかを、思い出せない。

澪は何も言わずに、袖を元に戻した。皺を伸ばすように、丁寧に。指先が二度、布を撫でた。

「また、来てください」

「治るよ、これくらい」

「来てください」

やっぱり、意外にきっぱりした声だった。

 

廊下に出ると、槇島悠斗(まきしまゆうと)が壁にもたれて待っていた。

「おせえよ。何してた」

「消毒」

「擦り傷でか?」

「保健委員が怖かった」

「お前が怖がる人間がいるのか」

その日の玲は、いつもより少しだけ口数が少なかった。

もっとも、悠斗はそれに気づかなかった。

 

そして、当日が来た。

全学年合同実習。参加者一二〇名。第三実習棟の全ポッドを使用する、年に一度の大規模演習である。120

実習室は地下二階にある。エレベーターを降りると、空気の温度が二度下がる。機械のための温度だった。

扉が開いた瞬間、新入生から小さな歓声があがった。

白い流線型のポッドが、床から天井近くまで、整然と段を成して並んでいる。全部で120台。三層の足場が組まれ、上の段へは金属の階段で上がる。

すべてのポッドに淡い青の待機光が灯っていた。呼吸のように、ゆっくり明るくなり、ゆっくり暗くなる。120台の明滅は完全には揃っておらず、少しずつずれている。だから部屋全体が、波打っているように見えた。

低い駆動音が、床から足の裏に伝わってくる。

「壮観だな」

悠斗が首を伸ばす。

「一台で家が建つらしいぞ」

「じゃあここに百二十軒あるのか」

「住みてえな」

「発想が貧乏くさいんだよ」

 

桐花女子学園(とうかじょしがくえん)の生徒たちも到着していた。

「あーっ、いた! 鷹宮せんぱーい!」

人混みの間から手を振っているのは、小柄な一年生——天羽ひばり(あもうひばり)。桐花の中でも群を抜いて声が大きい。ぴょんぴょん跳ねているので、頭だけが人の波から出たり沈んだりしている。

その後ろから、背の高い女子生徒が静かに歩いてくる。黒髪を後ろで一つに束ね、眼鏡の奥の目が涼しい。桐花女子学園生徒会長、北条冴(ほうじょうさえ)。

「天羽さん。集合は五分前です」

「はぁい!」

冴は玲を一瞥した。値踏みするような目ではなかった。ただ、記録するような目だった。

「鷹宮玲。綾瀬さんの評価が、この二週間で十四点下がっています」

「そんなに下がってたか」

「下げた本人が知らないのですか」

冴はそれだけ言って、通り過ぎていった。

「せんぱい、今の会長けっこう怒ってましたよ! 怒ってないときはもっと喋りません!」

情報が有益なのか無益なのか、判断がつかなかった。

 

「鷹宮」

千鶴が来た。

いつもどおり背筋がまっすぐで、いつもどおり制服に隙がない。髪を耳にかける仕草だけが、少し落ち着かなかった。

「今日のシナリオは大使館のレセプション。要人警護を含みます。私が要人役、あなたが警護役」

「役、逆じゃないか?」

「体格で決まったのよ。文句は身長に言って」

「なるほどな」

「言っておくけれど」

千鶴は、彼を見上げた。

「今日は120人が同じ空間に入るの。評価はすべて記録されるわ。全学年の前で」

「うん」

「……手を抜かないで」

玲は少し驚いたような顔をした。

そして、いつもの調子で言った。

「オレはいつも全力だ」

千鶴は、深く息を吐いた。

「知っているわ。もう、聞き飽きたもの」

 

ポッドの蓋が閉まる。

内側は思ったより静かだ。外の音が消え、自分の呼吸だけが残る。密閉された空間で、自分の呼吸というのは驚くほど大きい。

背中のクッションが体温でぬるくなっていく。後頭部に、ひやりとした接続端子が触れた。

『接続を開始します』

無機質な音声が流れる。

『三、二、一——』

視界が白く溶けた。

 

大使館の大広間だった。

天井が高い。見上げると首が痛くなる高さに、金の装飾が施された梁が渡っている。その下に、三つのシャンデリア。何百本もの蝋燭が揺れて、光そのものが微かに動いていた。

床は深紅の絨毯。壁一面に各国の旗が並び、その下で正装の紳士淑女が談笑している。弦楽の音が、天井に反響して降ってくる。

匂いは、蝋と、香水と、暖炉の煙。それに、雨の匂いが混ざっていた。

窓の外は、雨だった。石畳が濡れて黒く光り、遠くで馬車の車輪が回っている。ガラスに水滴が走り、その筋が景色を歪ませていた。

空気が湿っている。頬と、手の甲で、それがわかる。

120名の生徒たちが、それぞれの位置に配置されていた。

「わあ……」

新入生が声を漏らす。

何度体験しても、この瞬間だけは慣れない。指先の感覚も、絨毯の沈み込みも、香水の匂いも、すべて現実と同じだ。違うのは、ここが安全だということだけだった。

『本日の課題を開始します』

天井から声が降る。

『各ペアは、担当区画において要人の安全を確保しつつ、レセプションを滞りなく進行させてください。制限時間、九十分』

千鶴が扇を開いた。骨が鳴る、乾いた音がした。

「行くわよ、警護役」

「はいはい」

「はい、は一回」

 

最初の三十分は、平和だった。

玲は五回、千鶴のドレスの裾を踏んだ。三回、給仕とぶつかった。一回、大使役のNPCに「君はどこの国の武官かね」と真顔で聞かれ、「無所属です」と答えて千鶴に脇腹を抓られた。

「あなた、本当に……」

「痛かった」

「痛覚五パーセントよ」

「五パーセントでも痛い」

広間の反対側では、悠斗が別のペアと談笑している。ひばりが小さく飛び跳ねながら誰かに手を振っている。冴が壁際で、全体を見渡している。誰かが笑い、誰かがステップを間違え、誰かがそれを直している。

いつもどおりの実習だった。

——三十二分が経過したところで、それは起きた。

 

明かりが、一度だけ揺れた。

シャンデリアの光が、まばたきのように暗くなって、戻った。

誰も気に留めなかった。演出だと思った。蝋燭の炎が揺れる程度のことは、この空間では毎分起きている。

千鶴だけが、扇を止めた。

「……今の」

次の瞬間、楽団の音が消えた。

弦の音が、途中で切れた。

音が終わったのではない。曲の途中で、フレーズの真ん中で、はさみを入れたように切断された。

広間が静まり返る。

正装のNPCたちが、一斉に動きを止めた。グラスを持ち上げた姿勢のまま。笑った表情のまま。数十人が、彫像のように固まっている。

その中で、暖炉の火だけが、まだ揺れていた。

「……なんだ?」

誰かが言った。

生徒たちがざわめき始める。

「バグじゃね?」

「重すぎたんだよ、120人だし」

「先生ー! 止まってますー!」

天井から、返事はなかった。

 

そのとき、視界の右上に、小さなウィンドウが開いた。

生徒全員の視界に、同時に開いた。

『ログアウト処理を実行しています』

安堵の息が、あちこちで漏れた。

「なんだ、強制終了か」

「せっかくいいとこだったのに」

ウィンドウの中で、円環のアイコンがゆっくりと回っている。

一周。二周。三周。

十周。

回り続けている。進捗を示す表示は、一パーセントも動いていない。

三十秒が過ぎた。

誰かが自分の視界のウィンドウを指で突いた。反応しなかった。

一分が過ぎた。

ざわめきの質が、少しずつ変わっていった。声が低くなり、間隔が短くなる。誰かが誰かの名前を呼び、返事を待たずにもう一度呼んだ。

そして、二分十四秒後。

円環が、止まった。

 

赤い文字が、視界いっぱいに広がった。

『ログアウト不可』

『本システムは現在、外部管理下にあります』

広間が、完全に静まり返った。

誰も、何も言わなかった。

言葉の意味を理解するまでに、少しだけ時間がかかった。文字は読めた。読めたが、それが自分の身に起きていることだと理解するのに、数秒必要だった。

 

最初に悲鳴をあげたのは、一年生だった。

高く、短い声だった。そこから連鎖するのに、三秒もかからなかった。

「え、なにこれ」

「切れって! 端子外せよ!」

「外せねえよ! 手が動かせるわけないだろ、外にいねえんだから!」

「先生! 先生ーっ!」

120人が同時にパニックを起こす音を、玲は初めて聞いた。

音というより、圧だった。声が壁と天井に反射して、どこから聞こえているかわからなくなる。ドレスの裾を踏む音、椅子が倒れる音、ガラスが割れる音。

生徒たちが出口へ殺到した。西の扉に十数人が体当たりし、跳ね返され、また体当たりした。扉は動かなかった。

窓を割ろうとした者がいた。椅子を持ち上げて、両手で振り下ろした。ガラスは割れなかった。ひびさえ入らなかった。

壁を殴った者がいた。素手で、何度も。壁は揺れもしなかった。

止まったままのNPCたちが、その光景を彫像の顔で見つめている。笑ったままの顔で。

「落ち着け!」

響いたのは、神代響一(かみしろきょういち)の声だった。

「全員、その場に座れ! 教員が対応している! 我々が騒いでも状況は変わらない!」

さすがに生徒会長だった。声に張りがある。腹から出ている声だった。

半分ほどの生徒が、その場に腰を下ろした。

——だが、残り半分は動かなかった。

そして、教員は誰一人として姿を見せなかった。

十分待っても、姿を見せなかった。

 

千鶴は動かなかった。

彼女は扇を握りしめたまま、その場に立っていた。骨が指に食い込んでいたが、力を緩められなかった。

背筋が、まだ伸びている。

「鷹宮」

隣を見た。

玲は、いた。

いつもと同じ姿勢で、いつもと同じ顔で、そこに立っていた。

パニックの中で、彼だけが動いていなかった。周りの全員が揺れているのに、彼のいる場所だけ、水面が静かだった。

いや。

動いていた。

首が、ゆっくりと右から左へ回っている。

広間の端から、端へ。

出口。窓。天井。柱の影。人の塊。倒れている生徒の数。

一定の速度で、一定の順序で。目が止まる位置と、止まる長さが、毎回ほとんど同じだった。

千鶴が声をかけようとした、そのとき。

赤い文字が消え、代わりに一人の男が、広間の中央に現れた。

現れた、としか言いようがなかった。歩いてきたのではない。そこに何もなかった場所に、いた。

灰色の外套を着た、長身の男だった。

年齢は五十前後に見える。短く刈った髪。顔立ちは平凡で、どこにでもいそうな中年に見えた。

——見えた、というより。

輪郭が、わずかに滑らかすぎた。頬の陰影が均一すぎた。目鼻立ちは整っているのに、三秒後には思い出せない。

生成アバターだ。

誰の顔でもない顔だった。

立ち姿も、妙だった。背筋は伸びているのに、力が入っていない。どこにも重心がない。次にどちらへ動くのか、まったく読めない立ち方だった。

生徒たちの悲鳴が、ゆっくりと引いていった。

男が何もしないから、逆に引いていった。

彼は、広間を見回した。

そして、穏やかに口を開いた。

「静かにしてくれると助かる」

声も加工されていた。低く、平坦で、抑揚が丁寧に均されている。人間の喉から出た音を、一度分解して組み直したような響きだった。

「私のことは、教官と呼んでくれ」

 

玲の首が、ほんのわずかに傾いた。

——聞いたことがある声だ、と思った。

思ったが、それだけだった。加工された音声から拾えるものは、何もない。声帯の癖も、息の混ざり方も、母音の終わり方も、全部削り落とされている。

引っかかりは、水面に浮かんだ泡のように、すぐ消えた。

彼はそれきり、考えるのをやめた。

考えたところで、腹は減る。

 

「今から、事実だけを伝える」

男は、両手を後ろに組んだ。

「この空間は、我々が管理下に置いた。ログアウトはできない。外部からの介入も、当面は不可能だ」

「諸君の身体は、現在も学園の実習室に横たわっている。呼吸も心拍も正常だ。安心していい」

「我々は、諸君を人質として各国政府に要求を出した。期限は四十八時間。要求が満たされれば、諸君は全員無事に帰れる」

淡々としていた。事務連絡のようだった。

一度も声を張らなかった。だからこそ、誰も口を挟めなかった。

「以上が、諸君の置かれた状況だ」

男は少し間を置いた。

「次に、この空間のルールについて説明する」

 

「本システムには、痛覚制限が設定されている。諸君は五パーセントと教わっているはずだ」

男は、右手を軽く上げた。

指を、一本だけ動かした。

「解除した」

その言葉の意味を、誰も理解しなかった。

一秒後に、理解した。

 

悲鳴が、広間を貫いた。

先ほどまでの、恐怖の悲鳴ではない。もっと生々しい、喉の奥から絞り出される音だった。人間の声帯が、意思と関係なく出す音だった。

倒れる音があちこちで響く。

扉に体当たりしていた生徒が、床に膝をついた。肩を押さえて、そのまま横向きに倒れた。壁を殴った生徒が、右手を抱えて転げ回っていた。声も出ていなかった。

——彼らの傷は、最初からそこにあった。

《アヴァロン》は現実と同じ精度で身体を再現する。肩から扉にぶつかれば肩は痛み、素手で石壁を殴れば拳の皮膚は裂ける。

裂けた皮膚は、裂けたままだった。軋んだ骨は、軋んだままだった。

ただ、そこから届く信号だけが、五パーセントに薄められていた。

堰が外れた。

薄められていたものが、そのままの濃さで押し寄せた。

「あ、あ——」

千鶴も、膝をついていた。

扇を強く握りしめすぎて、指の付け根の皮が切れていた。血が一滴、白い手袋に染みている。たったそれだけの傷が、今は焼けるように痛む。

視界が滲む。呼吸が乱れる。歯を食いしばると、その顎まで痛んだ。

痛い。

痛い。これは、痛い。

彼女は必死に顔を上げた。誰かの顔を見たかった。誰でもよかった。同じものを感じている人間の顔を見れば、少しは耐えられる気がした。

 

そして、見た。

120人が床に沈む中で、一人だけ、立っていた。

大きな背中だった。

肩の位置も、首の角度も、さっきと何一つ変わっていない。両手は、だらりと下がっている。

呼吸すら、乱れていなかった。

——なぜ。

千鶴の思考は、そこで止まった。痛みが思考を焼き切った。

彼女は床に手をついて、それ以上何も考えられなくなった。額を絨毯につけて、ただ息をすることだけに集中した。

だから、見ていない。

そのとき玲が、ゆっくりと右手を上げて、広間の生徒たちを指で数え始めていたことを。

一。

二。

三。

 

「よく聞け」

教官と名乗った男が、静かに言った。

彼は倒れた生徒たちの間を、ゆっくり歩いていた。踏まないように、丁寧に避けながら歩いていた。

「痛みは、教育だ」

「諸君はこれから四十八時間、この空間で過ごす。逃げようとすれば痛い。暴れようとすれば痛い。学習すれば、痛くない」

「簡単な授業だ」

彼は微笑んだ。

生成された顔が、正確に微笑みの形を作った。

「では、始めよう」

 

うずくまる生徒たちの間で、悠斗が這うようにして玲の足元まで来た。

肘で床を掻きながら、少しずつ進んできた。顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。

「れ……玲」

「おう」

「どうしよう」

玲は、指を止めた。

数え終わったらしい。

彼は自分の親友を見下ろして、いつもと同じ顔で、いつもと同じ調子で言った。

「メシまでには終わるだろ」

(第3話へ)


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