嘘で稼ぐいいねはうまいのか

1. 「うまいのか」という問いの立て方がそもそもズレている

ネットには、どう見ても盛った、あるいは丸ごと作り話としか思えない体験談を投稿して、大量のいいねを集めている人がいる。これを見て多くの人は「嘘までついて何が嬉しいんだろう」と思う。だが実はこの疑問は、質問として少しピントがズレている。

「嘘で稼いだいいねはうまいのか」という問いは、「労働で稼いだ金」と「詐欺で稼いだ金」を比較して、どちらが"うまい"かを問うのと構造が同じだ。しかし金というのは、それ自体では何の味もしない。金の"うまさ"は、それを米や家や体験に変換したときにしか発生しない。同じように、いいねの"うまさ"を問う前に、そもそもいいねが何かに変換可能な通貨なのかを確認する必要がある。

答えは、ノーだ。

2. いいねは貨幣より徹底して"出自を記憶しない"

貨幣には一つ重要な性質がある。匿名性だ。1万円札を受け取った人は、それが労働の対価なのか詐欺の戦利品なのか、札そのものからは判別できない。貨幣は出自を記憶しない。だからこそ「労働で稼ごうが詐欺で稼ごうが金は金」という感覚が成立する。

いいねも同じ匿名性を持っている。あるツイートについた1000いいねが、実際にあった出来事への反応なのか、盛った作り話への反応なのかは、押した側にも受け取った側にも区別がつかない。いいねは事実性を記憶しない。

ただし、いいねには貨幣よりさらに徹底した性質がある。貨幣には兌換性がある。稼いだ金は米にも家にも変換できる。だがいいねには基本的に兌換性がない。いいねを1000個持っていても、それを何か別のものに交換する手段は存在しない。いいねは見た瞬間、その場で消費が完了する通貨で、貯蔵しても価値を持たない。

つまり「嘘で稼ぐいいねはうまいのか」という問い自体が、実は「その1万円札に意義はあるのか」と札そのものに問うのと同じくらい的外れだ。意義は貨幣の外側、何に変換したかにしか宿らないのに、いいねはそもそも変換先を持たない設計になっている。だから意義を問う先が、最初から存在しない。

3. 欲しいのは承認ではなく、他者の欲望そのもの

ではなぜ、変換先も持たないその場限りの通貨のために、人は嘘までつくのか。ここで「承認欲求」という語彙を一度疑ってみる必要がある。

承認欲求という言葉は、欲望の対象が「承認」つまり肯定的な評価だと前提してしまっている。しかしラカンのモデルに従うなら、そもそも欲望というのは常に他者の欲望を経由してしか成立しない。主体が本当に欲しいのは「自分の実像を認めてほしい」ということではなく、「他者が自分に向ける欲望のまなざしそのもの」だ。そのまなざしを引き出すための素材が事実か虚偽かは、この構造の内側では最初から問題になっていない。

これは相当ラディカルな帰結を含む。「事実に基づいて承認されたい」という欲望と、「虚偽で承認を得る」という行為は、実は同じ欲望構造の二つの表現型にすぎない。多くの人は前者を道徳的、後者を病理的と分けたがるが、他者の欲望を欲望するという純粋なモデルの内側には、その区別を支える根拠が存在しない。区別は倫理や社会規範という外部から、事後的に持ち込まれているだけだ。

だから(少なくとも嘘でいいねを稼いでいる人たちにとっては)「承認欲求」という言葉自体が誤称に近い。欲しいのは肯定であれ否定であれ「まなざしの発生」そのものだとすれば、これは"承認欲求"ではなく"まなざし欲求"と呼ぶべきものになる。

この語彙のすり替えは、なぜ彼らが「バレても構わない」態度を取れるかも綺麗に説明する。バレるというのは事実性が毀損されることだが、そもそも欲望の対象は事実性ではなくまなざしだった。だから事実性が崩壊しても、欲望の構造自体は無傷なままだ。むしろバレた瞬間に「炎上」というかたちで新たな他者のまなざしが大量発生するので、事実性の崩壊が逆にまなざし獲得量を増やすことすらある。嘘がバレて叩かれている人が、なぜか嬉しそうに見えるのは、この力学のせいだ。

4. 自分の人生を二次創作している

もう一つ、この現象を理解する補助線になるのが二次創作という枠組みだ。二次創作者は「原作に忠実であること」を目的にしていない。原作はあくまで素材であり、評価基準は「原作との整合性」ではなく「読者にどれだけ刺さるか」にある。大胆な改変ほど評価される文化圏すらある。

これを自分の人生に当てはめると、驚くほど構造が一致する。「一次創作としての自分の人生」は、実際に起きた出来事の系列だ。「二次創作としての自分語り」は、SNSに投稿される盛られた・編集された・時に捏造された自己物語だ。二次創作者が原作との忠実性より読者への訴求力を優先するのと同じ論理で、ネット虚言者は事実との整合性より閲覧者への訴求力を優先している。彼らは嘘をついているのではなく、自分の人生というIPを二次創作している。

盛れば盛るほど、つまり原作である現実から離れれば離れるほど物語としての強度が上がり、まなざしの獲得量が増える。原作への忠実性が消費価値を毀損しないどころか、忠実性からの逸脱こそが商品価値を生む、という二次創作市場特有の倒錯が、そのまま自己物語のインフレーションを説明する。

ただし、二次創作の自由には一つだけ条件がある。原作者本人からの評価だ。原作者があるカップリングや設定を「解釈違い」だと公式に否定した瞬間、その二次創作はコミュニティ内での人気とは別に消費価値を毀損されうる。つまり二次創作の自由度は無制限ではなく、「原作者が沈黙している限り」という条件付きの自由でしかない。

これを自己物語に戻すと、虚言的投稿者にとっての"原作者"に相当するのは、フォロワー総体ではなく、その人の実生活を直接知っている人間関係――家族、同僚、リアルの友人だ。フォロワーは二次創作の読者にすぎず、真の脅威は「本当のことを知っている人」がタイムラインに乱入してくることだ。だから彼らが本当に恐れているのは「バレること」そのものではなく、二次創作コミュニティの外側から原作者が乱入してくることであり、逆に言えば、フォロワーだけの閉じた生態系にいる限り、いくら盛っても解釈違いは発生しない。

5. まとめ

嘘で稼ぐいいねがうまいかどうかを問う前に、確認すべきことが二つある。

一つ、いいねはそもそも何にも変換できない、その場限りの通貨だということ。うまさは変換先にしか宿らないので、この通貨に対してうまさを問う質問自体が成立しにくい。

二つ、彼らが本当に集めているのはいいねという承認ではなく、他者の欲望のまなざしそのものであり、そのまなざしを引き出す素材が事実か虚偽かは、この欲望の構造にとって最初から関係がない。彼らは嘘をついているのではなく、自分の人生というIPを、原作者――つまり実生活を知る人間――が沈黙している場所でだけ、二次創作している。

「うまいのか」という問いへの答えは、だから「うまい・まずい」の手前にある。そもそも味わう対象を持たない通貨を、彼らはただ発生させ続けているだけだ。

いいなと思ったら応援しよう!